4月26日の礼拝の内容です。讃美歌は、46.172.325.575.37‣1です。
礼拝説教 ルカ24:1~12「布が紡ぐ物語」(小椋実央牧師) 2026.4.26
2026年度、新しい年度の歩みを主イエスのご復活、イースターと共に歩み始めています。新しい環境の中でどうにかして生活になじもうと骨を折っている方々。何年も何十年も積み重ねの中で、不安や痛みに押しつぶされまいと持ちこたえておられる方々。そのようなおひとりおひとりの上に、神さまの祝福とお守りがありますよう、隣人のためにも、また私たち自身のためにも、瀬戸永泉教会は共に祈りをあわせていきたいと思っています。
あふれる情報と日々の変化にとまどっている一人の兄弟を、私たちは今朝、聖書の中に発見しました。主イエスのご遺体がなくなってしまった。墓の中には何やら不思議な人たちがいて、主イエスが復活されたと言っていた。今朝がた墓から帰ってきた婦人たちの報告です。女性たちが嘘を言っているようには思えません。しかし、どうにも本当のことを言っているようにも思えません。そんなはずはない。話し合いもそこそこに、ペトロは駆け出しました。あの臆病者のペトロが、ついに動き出しました。主イエスがとらわれた時には真っ先に逃げ出して、十字架で主イエスが息をひきとられた時も、お墓に埋葬した時にも、どこにもその姿が見えなかったのに。しかし、今こそ主イエスの元にかけつけたい、と思いました。主イエスはいつも私たちと共にいてくださるはずでした。主イエスのご遺体がなくなるだなんて。ペトロの頭の中には婦人から聞かされた復活という二文字はとっくに消えていました。
きっと婦人たちの見間違いだ。ぺトロは高鳴る鼓動を押さえつけるように、自分に言い聞かせました。主イエスの命が突然奪われるだけでなくて、そのご遺体までなくなってしまうなんて。そんなことあるはずがない。墓についてみると、確かに大きな岩が転がされて、岩穴がぽっかりと大きな口を開けています。呼吸を整えながら一歩ずつ中へと進んでいきます。きっといつものように主イエスが出迎えてくれる。もう目を開くことも語ることもできないけど、しかし主イエスのお体はそこにあるはずだ。しかし墓の中でペトロが見つけたのは主イエスご自身ではなく、比較的新しい亜麻布でした。主イエスのご遺体をくるんでいたはずの亜麻布は、すでにその役割を失って置き去りになっていたのです。暗い墓穴の中で、残された布だけが妙に白々と明るく照らされているのでした。
主イエスのご遺体は、布にくるまれた状態で墓穴の中に横たわっていました。主イエスのご遺体をくるんでいた布を用意したのはアリマタヤのヨセフです。ちょうど今日読みしたひとつ前の23章の終わりの部分にそのことが記されています。アリマタヤのヨセフは主イエスを死刑判決に定めた最高法院のメンバーでしたが、善良で正しい人でした。主イエスが十字架にかけられた後、ローマ総督ピラトのもとへでかけて行って、主イエスのご遺体を引き取りたいと申し出たのです。とても勇気のいる行動です。最高法院のメンバーは、主イエスを死にいたらせることに血眼になっていたのです。アリマタヤのヨセフがしたことは、最高法院の仲間を裏切る行為でした。しかし彼は彼なりの方法で誠意を貫きたかったのだと思います。アリマタヤのヨセフは、エルサレムに自分の墓を持っていたようでした。まだだれも葬られたことのない墓というのは、おそらく自分のために墓を用意していたのでしょう。急遽そこに主イエスをおおさめすることにしたのです。墓におさめるためには亜麻布が必要でした。通常はご遺体をきれいに洗い清めて、香料を添えて、亜麻布にくるんで墓の中におさめるのだそうです。
しかしすでに日は傾いています。金曜日の3時頃主イエスが息を引き取られたとありますから、そこからピラトにご遺体を引き取ることを申し出て、もろもろ準備をしている間にあっという間に日の入りになってしまいます。太陽が沈めばそこから安息日。ユダヤ教徒にとって安息日は労働が禁じられている日です。遠方にでかけることもできません。日が暮れるまでには自宅に戻らないといけないのです。ましてやお墓への埋葬などという重労働ができるはずもありません。ヨセフはどうにかして亜麻布を手に入れました。今日でしたらどのご家庭にも、使い古しのシーツの一枚や二枚は眠っていそうなものですけれども、当時布は高級品でした。主イエスが十字架刑にかけられたとき、その死刑囚の服を兵士たちが奪い合いました。また、当時の強盗はお金だけでなくて身ぐるみはいで盗んでいくのです。善いサマリア人のたとえでは、旅人は持ち物だけでなくて服まで奪われてしまうのです。布や洋服がどれほど貴重品であったかが分かります。当然弟子たちはおろか、ガリラヤから従ってきた婦人たちが布を用意できるとは思えません。ですからこのお金持ちの議員であるアリマタヤのヨセフの埋葬の申し出は、婦人たちにとっても大変ありがたいものでした。
女性たちが後日香料をもってでかけたように、とりあえず墓におさめて後からその処置をするのであれば、真新しい亜麻布でなくてもよかったのかもしれません。後でご遺体をきれいにしてから、改めて新しい亜麻布で包めばいいのです。傷だらけの主イエスのご遺体を包んだら、布はすっかり汚れてつかいものにならなくなってしまいます。それでもアリマタヤのヨセフは新しい布で主イエスのご遺体をくるみたかったのだと思います。ゴルゴタから墓までが近いとはいえ、主イエスのご遺体をみすぼらしい布でくるんで運ぶことなどできませんでした。主イエスをさらしものにして、これ以上のはずかしめを受けるのは我慢のないことでした。そしてほんの数日のことであったとしても、暗くて硬い岩穴の中に主イエスのご遺体をじかに寝かせて置き去りにするのは耐えられないことでした。柔らかなベッドには程遠いですけれども、せめて一枚の、洗いたての気持ちのよい布で包んでさしあげたい。血で汚れてしまうとわかっていても、せめて最上級の布を用意してさしあげたい。大切な方を見送ったご経験のある方は、そのことが身に染みてよくお分かりになるのでないかと思うのです。
この時、女性たちとどのような会話がかわされたのか。後のことは私たちにおまかせくださいと女性たちが勇気を出してヨセフに声をかけたのではないでしょうか。ゆっくりと日は傾いて、金曜日は終わりに近づき、安息日が始まろうとしていました。安息日が終わってペトロに飛び込んできたのは、主イエスのご遺体がなくなった、というニュースでした。主イエスのご遺体がないかわりに神の使いのような人がいて、主イエスは復活されたと。婦人たちはなんとか順序だてて説明しようとするものの、弟子たちには全く通じない話でした。しかし弟子のぺトロがその話を聞いて墓に行ってみると確かに主イエスのご遺体はみつからない。墓の中にあったのは布きれだけでした。12節は日本語訳では亜麻布と記されていますが、確かに亜麻布には違いないのですけれども、アリマタヤのヨセフが埋葬する時に用意したものと、復活後にペトロが見たものはあえて異なる単語で亜麻布を表現しています。しいて説明するならばアリマタヤのヨセフが用意したのは真新しい、少し高級な一枚の大きな布。そしてペトロがみたものは布の断片、一部を意味する言葉です。この福音書を記したルカは、アリマタヤのヨセフが用意したのは一枚の布だけれども、ペトロが見たのはそれが2枚が3枚か分かりませんけれども複数枚の断片になっていた、と証言したのです。一枚の布が増えるとは思えませんので、何らかの都合で最初の1枚が破れて2枚、3枚となったのでしょう。
可能性は二つあります。誰かがビリビリに破いて主イエスのご遺体を盗んでいったのか。それとも主イエスご自身が内側からビリビリに破いたのか。ぺトロはこの状況に混乱してあっけにとられていたようですけれども、仮に盗むとしたらそんな手間のかかることをするはずがありません。布にくるんだ状態で運んだほうが手っ取り早いのです。しかし突然こういう状況に出くわしてしまうと頭は働かないものです。ただ主イエスの体がない、なくなってしまった、ということに驚いてしまうのです。とほうに暮れたペトロはこの後何度も復活の主イエスと出会い、そのお言葉を聞いて、ようやく主イエスの復活を事実として受け止めることができるようになります。ですからこの時ペトロの頭を占めていたのは、どうして主イエスのご遺体はなくなってしまったのだろう、という疑問だけだったのではないかと思うのです。ペトロは主イエスの埋葬には立ち会ってはいませんが、おそらく婦人たちからアリマタヤのヨセフの墓に埋葬されたことを聞いていたことでしょう。主イエスのご遺体は布にくるまれて墓に安置されたはずでした。主イエスは一体どこへ行ってしまったのだろう。ペトロはおぼつかない足取りで、空になった墓から立ち去っていきました。
罪のない神の御子が十字架にかけられるという恐ろしい出来事からさかのぼること30数年前。家畜のえさ箱の中に布でくるまれた幼子がいたことを私たちは思い起こします。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」この言葉に促されて羊飼いたちはでかけていきます。自分たちのために救い主が与えられるなんて、一体どういうことだろう。羊飼いたちの驚きと疑いは幼子に出会うことでまぎれもない喜びへとかわります。本当に天使が語ったとおり、幼子は布にくるまれて飼い葉おけに寝かされていたからです。
私は毎年この箇所を読みながら、もしかしたらその羊飼いが旅人を狙う強盗であったかもしれないのに、マリアとヨセフはずいぶん不用心だなぁと思っていました。物音でもしようものなら、すぐさまわが子を抱き上げてもおかしくはないのに、マリアとヨセフは幼子を寝かせたままにして、疑いもせずに真夜中の訪問者を招き入れてしまうからです。しかし、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子が、あなたがたへのしるしである。」という天使の言葉が実現するためには、幼子は抱かれているのではなくて、布にくるまれて寝かされていなければなりませんでした。布にくるまれて寝かされている。これは言うなれば死んだ人の姿です。この幼子は、あなたがたのために死ぬのだ、というのが天使が羊飼いたちに語ったメッセージです。天使の言葉が実現するためには、やはりマリアとヨセフの腕に抱かれているのではなくて、硬くて冷たい飼い葉おけに、たった一人で、布でくるまって横たわっていなければならなかった。私たちがクリスマスに受け止めなければならないのは、あなたの罪のために、この幼子は死ぬために生まれたのだという強烈なメッセージなのです。
あのベツレヘムの家畜小屋で見た風景が今、またよみがえってきます。産まれた時と同じ姿で、一枚の大きな布にくるまれて、主イエスは固い岩の上に寝かされました。「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子が、あなたがたへのしるしである。」アリマタヤのヨセフが用意した布にくるまれた主イエスのご遺体は、30数年前の天使の言葉を確実なものにしました。ベツレヘムの家畜小屋で喜びに包まれた人々のうちの誰が、このエルサレムの出来事を予測したでしょうか。30年の時を経て、主イエスはふたたび布でくるまれて寝かされたのです。あなたのために、主イエスが命をもって償ってくださった。この事実から、私たちは目をそむけるわけにはいきません。しかしペトロが実際に見たのは布にくるまれた主イエスのご遺体ではなく、もぬけの殻で、無残にやぶかれた亜麻布だけでした。これがあなたがたへのしるしである、と言われた救い主の死が、イエスご自身によって破かれたのです。死からの復活という言葉では言い尽くせない神秘を主イエスは目に見えるかたちで残してくださったのかもしれません。主イエスが復活された後、弟子たちがカギをかけていた部屋に入ってこられたぐらいなのだから、ぐるぐる巻きの布の中から破らずに出てくることぐらい主イエスならできたはずです。
しかしそうはしなかった。ヨセフが用意した真新しい新品の布をあえてビリビリに破かれた。罪も死も打ち砕かれたということを目に見える一つの形として残されたのかもしれません。キリストは死に横たわったままではなく、一度死に、葬られ、しかし死の底からおよみがえりになりました。クリスマスの夜、ヨセフとマリアが幼子をくるんだ一枚の布、そしてアリマタヤのヨセフが危険も顧みずに用意した一枚の布は死からの復活という神秘をささやかに、そして雄弁に証言しています。もはや罪と死は打ち砕かれた。2000年前、エルサレム郊外の墓穴の中でペトロが見たのは、そしてその後何度も主イエスと出会い、説き明かされる中で気づいたことは、罪と死が滅ぼされた、ということでした。この後、私たちは「きゅうこんの中には」というさんびか、575番を賛美します。この賛美歌は賛美歌の中でもめずらしく、歌詞とメロディーがぴたりとはまっている。意外とそうでない賛美歌のほうが多くて、どういうことかと言いますと、メロディーが続いているのに日本語がとぎれてしまう、またその逆のこともあります。これは英語やドイツ語など、海外のものを翻訳しているので仕方がないことなのですが、いまいち歌っていても言葉が入ってこない。せっかくよい歌詞なのに、言葉がうわすべりしてしまう、ということがたまにあるのですけれども、きゅうこんの中にはというさんびかは歌詞とメロディーがわりと気持ちよくはまっているので、てっきり日本人のつくった賛美歌なのかと昨日まで誤解をしていました。
ふと思い立って元の言葉はどのような意味なのだろう、と調べてみました。調べてみたところ、わりと忠実に翻訳されている。意味が変化している、という箇所はなかったのですが、しかし元の言葉のほうが情報量が多いなと思いました。3番の歌詞を見てみたいと思います。HPの翻訳にたよっていますが、このような文章でした。「私たちの臨終こそ始まり、私たちの時間にこそ、無限がある。私たちの疑いの中にこそ信仰があり、私たちの生命の中にこそ、永遠がある。私たちの死の中にこそ復活があり、ついには勝利がやってくる。その季節が来るまで秘められていて、神だけがご存じだ。」死への恐れ、疑うことの苦しみ、言葉に言い表すことのできない悩みの数々を私たちは背負っていますけれども、ペトロが墓穴で見たあの光景を思い描きながら、私たちの罪のために死に、復活してくださった主イエスを仰ぎつつ一歩ずつ歩みを重ねて参りましょう。
<祈り>ご在天の父なる神さま。イースターの光に照らされて、今朝も私たちにみ言葉をありがとうございます。私たちもまた、あなたの死と復活に触れて驚き、信じさせてください。そして迷いの中にあっても希望を抱いて、歩むことができますように、一人一人に必要な支えを与えてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン


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