5月24日の礼拝の内容です。

礼拝説教       使徒2:1~13「聖霊が働くこと」    2026.5.24

 今日の教会暦はペンテコステです。教会の誕生日です。イエス・キリストの弟子たちに、聖霊が下って教会の活動が始まっていくのです。

 話は変りますが、先週の火曜日と水曜日に、名古屋中央教会において中部教区総会が行われました。中部教区にある約100の教会・伝道所、また関係学校、関係施設の方々が集まりました。いろいろな話がありましたが、大きな話題として、中部教区の現状と今後のことです。教会員の高齢化、礼拝出席の減少、予算の減少などです。具体的な礼拝出席者数や予算が示され、過去との比較があり、はっきりと目に見える形で示され、今後、どのように中部教区を運営していくのかとの議論となりました。また、日本基督教団もその流れにあります。教団出版局がなくなったこと、教団総会の場所の確保も苦労しているのです。この流れは、私たちの瀬戸永泉教会もそうです。今後の教会の運営もその視野におく必要性を感じてきました。

 今日はペンテコステであり、教会の誕生日ですが、少し前に戻っていきたいと思います。イエス・キリストが十字架につけられて死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえってくださいました。よみがえられたイエス様は弟子たちと共に40日間この地上で歩まれたのです。そして、神のもとに帰って行きました。その時に弟子たちがイエス様に「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒1:6)と聞いています。イエス様がよみがえって弟子たちと会った時も、弟子たちはイエス様の十字架の意味を知りませんでした。前と同じに、イスラエルの国の再興を考えていたのです。イエス様が神のもとに帰る時に、イエス様は弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)といわれましたが、この時はまだ理解することができなかったのです。

 イエス様が神のもとに帰られた時、弟子たちはエルサレムのある家の2階にいました。大きな部屋だったようです。弟子たちを始め、婦人たちもいました。120名ほどの人がいたとあります。それに、ユダヤ人の目を恐れて、1つの部屋で閉じ籠っていた状態でした。イエス様がいなくなったことは弟子たちにとって大きな不安材料でした。今後のことが何も見出せない状態だったと想像します。

 そして、今日の使徒言行録の2章です。ペンテコステの出来事です。ちょうど5旬祭の日でした。ユダヤ人の3大祭りの1つです。過越し祭から7周目にあたり、7週の祭りともいわれます。小麦の収穫祭にあたります。またシナイ山でモーセを通して十戒が授けられた日ともされています。世界中からユダヤ人がエルサレムに集まって来るのです。弟子たちが一同になって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、弟子たちが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、1人1人の上にとどまります。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出すのです。エルサレムには世界中からユダヤ人がやって来ていました。この出来事にびっくりしています。このペンテコステの出来事は特別なことが起っています。その現象をみてみると驚いてしまい、なかなか何が起ったのかを理解することが難しくなってしまいます。ペンテコステを理解するためには、この出来事で何が変わったのかを考えることです。

 この後に、ペトロの説教が出てきます。その内容に、ペンテコステで変ったことが書かれてあります。前にも触れましたが、弟子たちは、イエス様が復活された時には、イスラエルの国の復興、ローマからの独立を考えていたのです。イエス・キリストの十字架の死によって、一度そのイスラエルの国の再興の希望は失われてしまいましたが、イエス様の復活によって、新しい希望が生まれたと理解したのです。それが、ペンテコステの出来事で大きく変っていきました。

使徒2:23~24、36

このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

 このようにペトロの説教の中で、イエス・キリストの十字架の死の意味、復活の理解がなされています。つまり、ペンテコステの出来事は、イエス様の弟子たちが初めて、聖霊が注がれたことによって、イエス・キリストの福音を理解することができるようになったのです。聖霊が働かなければ、イエス・キリストの十字架の福音を受け止めることができず、教会の歩みも始まることができなかったということができます。

1コリント12:3

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 このパウロの言葉に聖霊の働きがあります。私たちは教会に来て、信仰生活を送っています。私たち1人1人が、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じています。そのことは、私たち1人1人の力ではなくて、聖霊の働きがあってできたことです。

 この後に、洗礼式を行います。「私はイエス・キリストを信じて、洗礼を受けたい」と申し出てくださいました。1人1人の洗礼に至る道はいろいろです。1人1人違います。それでも、その人に聖霊は働いてくださったのです。洗礼を受けたいという気持ちを与えられたのです。これは、私たちの力ではできないことです。神の行う奇跡としかいうことはできません。私たちにできることは、その人と聖霊の出会いを邪魔しないことです。より聖霊の働きがその人に起りますようにと願うのみです。ここにいる私たちもそのような聖霊との出会いがありました。聖霊との出会いをあまり意識しないで来られた方もあるでしょう。またはっきりとした聖霊の働きを意識された方もあるでしょう。

 洗礼を受けられる方と何度かの洗礼準備会を行って来ました。その時にもお話したのですが、洗礼を受けることは信仰生活のゴールではなくて、スタートであるということです。その方によって、新しいキリスト者としての信仰生活が始まっていきます。大切なのは、洗礼を受けた後のことです。私たちの人生にはいろいろなことが起って来ます。ある人がいいました。私たちの人生にはいろいろな坂があるというのです。まずは上り坂です。人生がより豊かで何でも自分の意のままに進んでいくように感じてしまう時です。次は下り坂です。いろいろな苦難や悲しみが襲って来ます。辛い日々が続いていきます。そして、3番目ですが、まさかです。突然に地震や火事や津波に襲われる。突然に病気になる。突然に事故にあう。自分の力ではどうすることもできないこととぶつかります。途方にくれてしまいます。先が見えない。どうして前に進んでいけば分からない。人生はいろいろです。思いもよらないことが次々に起って来ます。1つの御言葉を送りたいと思います。

 聖書の御言葉によって、これからの信仰生活が守れ、導かれて、その信仰の生涯を全うすることができますように導いてください。

1コリント10:13

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

祈り 神よ、ペンテコステの日に、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。新しい方が、あなたを信じていきたいと願い、この礼拝の中で洗礼を受けることができました。新しい信仰者としての歩みを始めて行きます。これからいろいろな試練や困難と向き合うことがあるでしょう。どうか、あなたの御手によって守り導いてください。そして人生の最後まで、その信仰者としての道を全うすることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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