5月31日の礼拝の内容です。

beach during sunset 礼拝
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5月31日の礼拝の内容です。讃美歌は、200(1,4)346.505.458.38です。

礼拝説教    詩編1編「嘆きの歌を祈りにかえて」(小椋実央牧師) 2026.5.31

「いかに幸いなことか」聖書は、幸いな道に生きる生き方を私たちに問いかけます。歩き回って、面白半分に耳を貸し、他人を評価する生き方と。一か所にとどまって、流されず、孤独であることもいとわない生き方と。あなたはどちらを選ぶのか。あなたはどちらの道を歩むのかと、詩編は私たちに迫ります。ここには幸いな道が待っている。幸いなものとして生きる扉が開かれている。旧約聖書の中で、いや、聖書全体の中でも最も長い詩編は巨人です。膨大すぎて、おいそれと読み終えることができない。さらにそれを頭で理解しようというのは至難のわざです。しかしその巨人の扉に描かれているのは、このことです。あなたには、幸いな道が待っている。幸いなものとして生きることができる。

詩編の扉は開かれました。歩き回って、面白半分に耳を貸し、他人を評価する生き方と。一か所にとどまり、流されず、孤独であることもいとわない生き方と。あなたはどちらの道を選ぶのか。幸いな生き方を求めて、幸いな道を歩ませていただくことを願って、詩編という壮大な世界にご一緒に足を踏み入れてみたいと思います。詩編の1篇は、詩編全体と比べてみますと比較的短い詩編です。構造もとてもシンプルで、神に従う者と、そうでない者が対照的に描かれています。しかも若干の言葉遊びがほどこされていて、最初は幸いという言葉ではじまり、最後は滅びという言葉で終わります。これは英語でいうアルファベットのAとW、すなわち最初と最後が用いられています。幸いという言葉は英語のAにあたる文字、ヘブライ語のアレフから始まって、滅びという単語は英語のWにあたる文字、ヘブライ語のタウという単語から始まっています。つまり、この詩編1篇は言葉遊びになっていて、子どもが聞いてもすんなりと覚えてしまう。内容もさることながら、子どもでも簡単に覚えることができるように想定してつくられているといってもいいかもしれません。また神に従う人は木にたとえられていて、そうでない人はふきとばされてしまうもみ殻にたとえられていますが、これも木という単語はエーツ、もみ殻はモーツという単語で韻を踏んでいます。これもまた声に出して読む時の読みやすさ、美しさ、そして覚えやすさを備えた詩になっています。

詩編は読んで字のごとく、「編」という文字があるように、出来上がったいくつかの詩をあとから編纂して150編という形になりました。ですからこの詩編第1篇ははじめから1篇になることを想定して書かれたものではありません。しかし詩編を編集する時に、詩編の序文としてふさわしいものはどれかと考えた時に、この1篇が最もふさわしいと選ばれた。この第1篇が詩編150篇全体をあらわしている。詩編とはどういうものか、ということをあらわしている。それは、幸いを告げる言葉です。幸いな道に生きる生き方です。主イエスが宣教活動を始めた時、最初に語ったのはこの言葉です。「心の貧しい人々は、幸いである。」主イエスもまた、幸いについて語り、ご自身の命をかけて、幸いな道に生きる生き方を示し、私たちをその道へと招いてくださいました。改めて旧約聖書と新約聖書が、ぶれずに、ただ幸いな道に生きることを願って、その道に招こうと言葉をつくし、手をつくしていることがわかります。聖書は神に従う幸いな人の歩みを記しています。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず。傲慢な者というのは、もしこの中に司法関係の方がおられたら恐縮ですが、裁判官、あるいは裁判の場所をあらわすそうです。人より一段高いところに立って、人々を見下して判断をする。ですからこの文脈では、自分のことは棚に上げて、他人を評価する人のこと。誰かと一緒になって、面白半分に他人を見下している人のことをさしています。

歩まず、とどまらず、座らず。ないないづくし。日本語では見ざる、言わざる、聞かざるという言葉がありますが、少し似ているかもしれません。積極的に何もしない。積極的に何もしないのは、積極的に何かをするよりも労力がいります。忍耐が必要です。聖書はそのような人のことを「流れのほとりに植えられた木」と表現します。植えられている。どこにも行けない。暑かろうが、寒かろうが、ただそこにじっとはえていることしかできない。ただ水が与えられて、栄養を与えられて、それで育ちます。日本に住む私たちは木というと青々として、特にこの緑の美しい、瑞々しい季節には目にさわやかに映りますけれども、聖書の世界は乾燥地帯です。水は死活問題。ほんの少しでも流れから外れてしまったら、たちどころに枯れてしまいます。しかしここで立ち上がってあくせくと潤いを求めて右往左往するのは神に逆らう者と同じです。自分の判断基準で、自分の好ましいと思う方向に行ってしまう。一時、オアシスをみつけたとしても、その結果がどうなるかは目に見えています。

神さまは私たちがどこに置かれているか、どこに植えられた木なのかを知っておられます。だから私たちが神さまを求めてウロウロしなくても、必要な時に必要な水と必要な栄養を与えてくださいます。しかし、ただじっととどまっているだけでは、神さまが与えてくださる水と栄養をしっかりと受け止めることができません。あっという間に流れ去ってしまいます。歩き回らず、悪しき道に近寄らず、傲慢な人々の集いに加わらず、しかしただじっとひとところに立ちながら、私たちはどのように神さまからいただいた水と栄養を受け止めることができるのか。唯一命じられているのはこのことです。主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむこと。主の教えとは元の言葉では律法をあらわしています。私たちに置き換えるなら聖書、でじゅうぶんでしょう。なんなら詩編でもよいかもしれません。詩編を愛し、詩編を昼も夜も口ずさむこと。

愛するって改めて、なんでしょうか。相手を知らなければ、知らない人のことを、愛することはできません。自分をさらけださなければ、愛することはできません。お高くとまっていたら愛することなんてできない。みっともない姿になって、人からなんて思われるかなんて気にしていたら愛することはできない。私たちは詩編を口ずさむことで主の教えを知り、私と聖書とが深く交わって、相思相愛の愛し合う関係になる。はじめは知らないもの同士、ぎこちない関係です。詩編を声に出して読むと、気恥ずかしさもあるかもしれません。しかし何十回となく繰り返すうちに、呼吸をするように主の教えが口から出てくる。その時私たちは知らず知らず主の教えを愛するものとなり、主に愛されるものとして、愛し合う者同士となっているのかもしれません。はじめて、愛する人の名前を口に出して呼んだ時のことを思い出してみてください。愛するわが子の名前を初めて呼んだ時のことを思い出してください。たったの4文字、たったの3文字のただの文字列の組み合わせにすぎないのに、この世のものとは思えない美しいひびきだったに違いありません。あの胸の高鳴りを、この詩編を唱える時にも味わいたいと思うのです。声に出して読むだけで、心も体も満たされるような体験がしたいのです。私たちはあまりにも詩編のことを知らなさすぎる。あまりにもぎこちなさすぎる。もっと詩編に胸を高鳴らせて、詩編と私とがお互いに知り合って、神さまとの関係を深めていきたい。それが主の教えを口ずさむことであり、詩編が示す幸いな道に生きる生き方でもあります。

新しい年度が始まって、2か月が過ぎようとしています。毎週私たちは日曜日ごとに横山先生に説き明かしていただきながら使徒言行録を読み続けていますが、月の最後の週は私が担当させていただくことになっています。毎年、今年は何を読むか、ということを考えるのですけれども、ここ2年は預言者シリーズで去年がエレミヤでその前はエリヤを読んできました。日頃主日礼拝では新約聖書を読むことが多いということと、私自身が旧約聖書を授業で担当しているのでその勉強もかねて旧約から選ばせていただいています。今年はかなり早い段階で、次は詩編にしよう、ということを決めていました。というのも昨年度、授業で詩編を取り上げた時に、自分があまりにも詩編のことを知らなさすぎる、ということに気がついたからです。詩編は毎週礼拝の中で交読詩編というものがありますので、最低でも週に一度は触れている書物です。中には1年に1度も開かないような書物もありますが、それに比べると詩編は頻度が高い。ですからどことなく慣れ親しんでいるような錯覚に陥っていました。それなのに、詩編のことを全くよくわかっていない。これではいけない、ということで、今年は詩編を勉強させていただいて、この礼拝でも、そして学校の授業でも、詩編の喜びを、聖書が伝える幸いに生きる道をみなさんと分かち合いたいと思っています。

詩編についてのおおまかな概略は、それだけで1回の説教が終わってしまうので、本日は極力割愛しました。これから少しずつ情報を小出しにして、説教が長くなりすぎないように気持ちを引き締めていきたいと思っています。1つだけ詩編にまつわるエピソードを最後にご紹介させていただきたいと思います。ベネディクト会、という修道会。カトリックの修道院のグループがあるのをお聞きになったことがあるかと思います。ベネディクト会。世界史の得意な方は、すらすらと概要が出てくるのかもしれませんが、私のようにあまり世界史が得意でない方のために申し添えますと、6世紀にはじまった修道院の始まりで、その後の様々な修道会に大きな影響を与えています。「祈り、かつ、働け」というモットーをお聞きになった方もおられるかもしれませんが、それまで修道院というのは人にも会わず、お風呂にも入らずひたすら禁欲生活を行うという孤立した修行でした。ベネディクト会はそうではなく祈り、聖書を学び、一方で働いて生活の糧を得て、社会と接点を持ちながら、修道するという修道院の新しいスタイルを築きました。おかげさまで世界各地の修道院を訪ねますと、その修道院で長く作られてきたワインであったり、チーズであったり、クッキーであったり、ご当地のおいしいものに出会うこともできます。そのはじまりがベネディクト会にあります。

このベネディクト会の会則の一つに、修道士、世俗を離れてそこで研鑽を積んでいる人たちですね。修道士は一週間に詩編を全て唱えなければならない。そして週の初めの礼拝は新しい歌、新しい詩編で始めなければならない、というものがあります。そしてそれ以前の、つまり6世紀より前の教皇は、教皇というのはカトリック教会のトップにあたる人ですが、教皇はそれを1日でやっていたと。1日で150編すべてを唱えていた。それに比べるとずいぶん怠惰だけれども、しかし我々はベネディクト会は一週間でやってみようではないか、というのが当時の会則だったそうです。

一週間で150編。なかなか大変なことですね。7で割ると1日に20編か21編を唱える。黙読ではなくて声に出して唱えるのですから、ただ読むことよりも少し時間もかかります。瀬戸永泉教会でも、試しに1週間詩編通読マラソンをやってみたらいいんじゃないかと思います。1人で、全部を読むのは大変なので、30人で150編を分担すれば、1人5つですから。1週間に5つぐらいなら、1日、2日休んでも大丈夫。この一週間は、瀬戸永泉教会に連なるどなたかのご家庭で、或いは車の中か公園かもしれませんが、詩編150編が休むことなく朗読されている。それを想像すると、ものすごく豊かな気持ちになります。神さまを愛し、神さまに愛されている教会が、実際に形になって目に見えてくるような気がします。私もあの仲間に入りたい。神さまを愛し、神さまに愛される群れの一員として過ごしたい。そう思う方がもっと増えるかもしれない。そんなことを想像してしまいました。

幸いな道に生きるものとは、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむこと。愛するって頭で考えるととても難しい。しかし口ずさむことはあまり深く考えなくとも、いつでも、今からでもできることです。詩編と言う言葉はヘブライ語で賛美という言葉を意味しています。賛美、神さまをほめたたえる歌。しかし案外そればかりではありません。詩編の中には嘆きの歌も多いのです。礼拝で読むのにはちょっとどうか、ととまどうようなものもあるのです。分類の仕方にもよりますが、詩編は賛美といいつつ、神さまをほめたたえる歌よりも嘆きの歌のほうが多いかもしれません。しかしそれも含めて、嘆いたり、呪ったりすることもふくめて「賛美」という名の詩編という題がついています。それはきれいごとだけでは神さまと愛し合う関係にはなれない。私たちの醜い心、卑しい部分をさらけだして初めて神さまを愛し、神さまと深く愛し合う関係になることができる。私たちはもっともっと、神さまに嘆かないといけない、隠さずに、取り繕わずに、神さまに嘆きを聞いていただかないといけない。神さまに嘆くことが、神さまに歎きの歌を聞いていただくことが主の教えを愛することでもあるからです。

詩編という大きな扉は開かれました。嘆いたり、呪ったり、私たちの口からはおよそまともな言葉が出てきませんが、しかし神に聞いていただければ、それは賛美となり、祈りとなります。人が私たちの嘆きを聞けば傷つきますが、神さまは傷つきません。私たちの嘆きを、神さまは祈りとして受け止めてくださるからです。私たちは流れのほとりに植えられた木。不自由で、ないものねだりをして、今にも朽ち果ててしまいそうな一本の木。しかし私たちは嘆きを神に注ぎだして、神さまをほめたたえる群れとして、ここに豊かな交わりがあることを、神さまに愛されて幸いに生きる者の道を、今日も瀬戸の地にはっきりと示し続けていきたいのです。

<祈り>

ご在天の父なる神さま。詩編の第1ページを、この聖なる日曜日に共に開き、み言葉にあずかる幸いを感謝いたします。私たちの嘆きの歌を聞いてください。そして聖書の言葉を昼も夜も口ずさむことができますように。あなたを愛さないものから、あなたを愛する者へ、あなたの愛にとどまる者へとつくりかえてください。この祈りを主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

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