6月28日の礼拝の内容です。

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6月28日の礼拝の内容です。讃美歌は、127(1).39-6.528.169(1.2.6).90(4)です。

礼拝説教    詩編3編「目覚めと共に祝福を祈り」(小椋実央牧師) 2026.6.28

眠れない夜があります。過ぎたことを悔やみ、みじめな気持ちになります。過去は変えられません。しかし私たちは過去の延長線上にしか生きることができません。ジレンマです。別の誰かと過去を交換することはできない。別の誰かの人生を生きることもできない。ですから私たちは何度も、歩いてきた道を引き返そうとします。自分の歩いてきた道に解決策はなかったか。曲がるべき道を、選択するべき道を間違えなかったか。何度たどってみても同じことです。そうこうしているうちに眠れない夜が長くなっていきます。眠れない夜の数を数えるようになります。眠れない夜の数は、自分自身と向き合った数と言えるかもしれません。

追いつめられていた詩人がいます。詩編3編の作者です。裏切りにあいました。愛するものに裏切られました。今まで味方だった人たちが、次々と自分を離れ去っていきました。友人を失い、肩書を失い、住む場所も失った詩人のことを人々はあざけります。「神の救いなどあるものか」神の救いはどこにあるのか。人気者で、健康な人だけが持っているのでしょうか。お金持ちや、尊敬に値する人物だけが神の救いにあずかるのでしょうか。詩人は人々に見捨てられてもなお、「主よ」と呼びます。苦難の中でこそ、誰を頼るべきかはっきりと見えてくるからです。声をあげることによって私たちは神を知ります。神を知っているから救いを求めるのではなくて、神に救いを求めるから神を知るのです。苦難の中でこそ、祈ります。苦しいからこそ、神にむかって声をあげます。

苦しみの中で「主よ」と呼ぶことによって神を知り、神の守りを知り、ひいてはそれが敵対者のためにも祈ることになります。苦難の時こそ、今こそ祈る時です。詩人は祈ります。「主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。」神に行動してくださるようにと祈り求めます。敵を倒す力を与えてくれと祈るのではありません。敵をほろぼすのは神であって、私ではありません。この戦いの主導権が神であることを告白します。相手を呪うことや、憎しむことではなく、正しい裁きを神に委ねます。それは自分の人生をあきらめることや、厄介ごとから逃げることではありません。神を信頼することです。神が責任をもって解決してくださるようにと祈り求めます。

この状況で詩人は眠ります。眠り、そして目覚めた時に、自らが主に支えられていることを確信します。今日という命が与えられている。今日、生きてよいと招かれている。そのことへの感謝の言葉が、ほめたたえの言葉が自然と出てきます。苦しい夜を過ごした人にしか出てこない言葉です。眠れない夜を過ごしたからこそ、苦難の中で神を頼ったからこそ、喜びに満ちた朝を迎えることができます。自分自身が生み出した喜びではなくて、神に与えられる喜びです。その喜びの中で、詩人は自然と執り成しの祈りを、祝福の祈りを祈るようになります。神がそのように、祝福を祈るようにと詩人を招いているからです。聖書の物語で誰かが眠る時、事件が起こります。重要な出来事が起こります。最初の人、アダムが眠っている時に、アダムのあばら骨からエバがつくられました。アダムが知らない間に神がエバをつくってくださって、目を覚まして初めてアダムは神が備えてくださった働き手と出会います。主イエスの父であるヨセフは眠っている時に、身ごもった婚約者のマリアと結婚するように促されます。また眠っている間にエジプトに逃げなさいと命じられて妻と子どもの命を守ります。12弟子の一人であるペトロは、聖霊降臨の後に福音を語っていたところを捕らえられてしまうのですが、牢屋で眠っている時に天使に脇腹をつついて起こされて、誰の手も借りずに、また誰をも傷つけずに牢屋から脱出して仲間たちのところへ帰ってきます。

例をあげればきりがありません。聖書において、眠ることは神への信頼です。自分が問題を解決することではなく、神が生きて働かれることへの信頼です。暗闇という得体の知れないものの中で、ただ神だけを頼って身を横たえる。それが神への信頼であり、神への信仰です。そのことを聖書は眠るという行動であらわしています。詩編3編の詩人は親しい者の裏切りという不安の中で眠り、目覚めました。目覚めた時、神に支えられ、神によって今日という一日に招かれていることを確信しました。詩人は祈ります。この戦いに勝つことではなく、主権者が神であることを告白します。神の裁きが正しく行われ、国が秩序をとりもどし、民に平和が与えられるようにと祈ります。

そしてこの祈りは、自らを苦しめる敵の救いをも求める祈りです。「救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。」一人の悩める詩人の祈りを超えて、一国の王としてふさわしい祈りです。この祈りを祈ったのはイスラエル王国の二人目の王、ダビデ。助けを求めるものも、敵対するものも、すべての人に神の祝福が与えられるように、との執り成しの祈りです。ダビデは裏切られ、苦しみの中にあるからこそ、救い主を呼び求め、自分の救い主が誰であるかを改めて知りました。祝福を祈るようにと神から招かれていることを、生きる目的を知らされます。この同じ招きに、祝福を祈るようにと私たちキリスト者もあずかっていることは言うまでもありません。

毎週水曜日の祈祷会では、サムエル記を読み進めています。今日お読みした詩編3篇の最初の部分に小さな文字で、ダビデがその子アブサロムを逃れたとき、とありますが、ちょうどこの出来事の部分を読んでいます。愛する息子アブサロムが王である自分に反旗をひるがえす。詳細は省きますが、ダビデ自身が犯した過ち、父親として息子と十分に向き合えなかった弱さ、王として、裁き人としてのいたらなさ、さまざまなことが絡み合って、息子アブサロムが父であるダビデを相手に謀反を起こします。息子アブサロムが反逆ののろしをあげたというしらせを聞いて、ダビデはすぐさまエルサレムから逃げ出します。これが結果として時間稼ぎとなって、十分に力を蓄えてダビデに勝利を導くこととなるのですが、逃げだした時には想定していなかったことでした。ダビデの頭の中にあったのは、息子アブサロムとは直接対決をしたくない。どうにか、穏便に解決する方法はないものかと、最後の最後まで模索していたのではないかと思います。聖書にはその時ダビデがどう考えていたか、ということは詳しく記されてはいません。しかし、息子アブサロムといいよいよ一戦を交える、ということになった時に、ダビデが自分の家臣たちに、「どうか息子アブサロムを手荒に扱わないでほしい」と願い出ています。王として、父親としての葛藤が、この言葉にあらわれていると思います。

さて、とるものとりあえずエルサレムから逃げるとなった時に、ダビデに仕えてきた祭司たちがしたことは契約の箱を持ち出すことでした。契約の箱の中には二枚の板に記された十戒が入っていて、モーセの時代から大切にしてきたものです。契約の箱があるところが、礼拝をささげる場所。神が臨在される場所。モーセに率いられた民も、カナンに定着した人々も、契約の箱を頼りとして、契約の箱があるところに思いを寄せて、契約の箱と共に歩んできたのです。契約の箱の歴史がイスラエルの歴史であるといっても言い過ぎではありません。しかしダビデは契約の箱を運び出そうとしていた祭司に命じました。「置いて行きなさい。」契約の箱とは一緒に逃げないことを宣言しました。何故なら、契約の箱が私を救うのではない。神に対する信頼を神が聞き届けてくださって、神が私を救ってくださる。契約の箱が私を救うのではない。ここにダビデの祈りの原点があります。私たちの礼拝の原点があります。教会という建物が私を救うのではない。礼拝という行為が私を救うのではない。神への信頼という信仰が私たちを救う。神が私たちを救ってくださる。

命からがらに逃げ出して、それでもなおダビデは眠りにつきました。正確に言うと、当初はヨルダン川手前で休息をとるつもりでしたが、エルサレムに残してきた仲間がダビデに伝令をよこします。今晩中に川を渡れと。アブサロムがすぐにでも反撃しようとしている。一日だけ時間を稼ぐから、今晩中に川を渡れ、との伝令がもたらされます。一息ついていたダビデ軍たちは、再び荷物をまとめて川を渡りました。川を渡って、そこでようやく眠りにつくのです。夜露の下りた草の上かもしれません。洞窟の中の硬い岩の上かもしれません。しんしんと暗くなる闇夜です。息子アブサロムと過ごした日々が浮かんでは消え、どこで、何を、どう間違えたのか。アブサロムは私を殺そうとしているのか。解決することのない問いがいくつも生まれてきます。

しかしダビデは眠りました。眠ることができたのです。どれほど精神的に追いつめられて、死の恐怖が迫っていようとも、横になって眠り、朝を迎えました。目覚めた時、ダビデの心に満たされていたのは喜びです。将来への不安でも死への恐怖でもなく、今日も生かされている、という喜びです。今日も生きるようにと目覚めさせてくださった神の招きを知り、その招きにお応えすべくダビデは祈ります。自らがこの戦いに勝つようにとの祈りではなくて。神が正しく裁かれるように。神が秩序を与え、神が平和を与えてくださるように。それは敵の救いをも求める祈りです。一晩眠ったら急にダビデの心が寛容になったわけではありません。昨日も、今日も変わらず招いてくださる神の救いを知ったがゆえに、祈ることのできる祝福の祈りです。

私たちにも眠れない夜があります。しかし夜は更け、朝がきました。今朝も私たちは新しい命を与えられ、今日という一日を生きることをゆるされました。それはひとえに、祝福を祈るように神から招かれているからです。誰かを恨むのではなく、誰かを呪うことでもなく、目覚めた私たちは神の祝福が隣人にあるようにと祈ります。このことのために、今日という一日が与えられたといっても言い過ぎではないからです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」

<祈り>ご在天の父なる神さま、苦しい夜を過ごしました。もう立ち上がることができない、そう思いました。しかし今朝、礼拝に招かれて、私のようなものが祝福を運ぶ器として選ばれていることを改めて知らされました。感謝いたします。欠けの多い私たちです。しかし、欠けの多い私たちが用いられるがゆえにあなたのご栄光があらわされることを喜び、分かち合い、祈りあって歩ませてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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