7月12日の礼拝の内容です。讃美歌は、490.507.522.533.24です。
礼拝説教 使徒24:10~16「復活の希望を持つ」 2026.7.12
最初に、使徒24:15を読みたいと思います。お聞きください。今日の聖書の中心聖句となります。
使徒24:15
更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
今日の説教題では「復活の希望を持つ」としました。このように私たち自身が、復活の希望をどのように持つことができるかを考えていきたいと思っています。
さて、今日の聖書の背景をみてみましょう。エルサレムに戻ったパウロを待っていたのは、ユダヤ人たちからの迫害です。3回に渡る伝道旅行を終えたパウロは、貧しかったエルサレム教会のために、伝道旅行をしながら、各地の教会にエルサレム教会のための募金をしていました。集まった募金を直接、自分の手でエルサレム教会に届けに行ったのです。ユダヤ人からの暴力や攻撃を受けていたパウロを助けたのはローマ帝国でした。パウロはローマ軍に守られて、エルサレムからカイサリアに移動していたのです。エルサレムでは、40人以上のユダヤ人たちが、パウロを殺すために、神への誓いを立てていたのです。エルサレムの平和を守るためにが、パウロを守ることとなりました。
カイサリアに着いたパウロを待っていたのは、ローマ総督フェリックスでした。エルサレムからは大祭司アナニア、長老数名、弁護士テルティロがカイサリアに来ていました。ここでパウロが呼び出されて、ユダヤ人たちが訴えます。ここでは弁護士テルティロが発言します。最初にローマ総督フェリックスに対する挨拶があり、次にパウロを訴えます。その訴えの内容では、パウロのことを、疫病のような人間、世界中のユダヤ人の間で騒動を起している者、ナザレ人の分派の首謀者、神殿を汚しているなどと訴えています。
そして、ローマ総督がパウロに発言するようにと合図します。パウロはまずローマ総督フェリックスへの挨拶をします。その後、弁護士テルティロの訴えに弁明していくのです。騒動を起していることについては、パウロはエルサレムに来てから、まだ12日しかたっていないこと、神殿でも会堂でも町中でも誰かと論争したり、群衆を扇動させたりしたことはないこと、それを誰も見たことがないことをいいます。
次に大切な言葉があります。しかし、ここではっきりと申し上げます。私は、彼らが「分派」と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じていることをいいます。更に、正しい者にも正しくない者にもやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いています。この人たちというのは、パウロを訴えている大祭司アナニア、長老たち、弁護士テルティロを指します。この死者の復活については、ユダヤ人の中で、エルサレムの最高法院で話されたことですが、サドカイ派は死者の復活を認めていません。ファリサイ派は死者の復活を認めています。この後、パウロの生きる姿勢が語られています。パウロは自分自身、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めていますと話しています。
このパウロのローマ総督フェリックスの前での弁明ですが、弁明を通して、ローマ総督やユダヤ人の大祭司や長老たち、弁護士テルティロに対して、イエス・キリストの福音の説教を語っているように感じます。正しい者も正しくない者にもやがて復活するという希望を持つことは、キリスト教を信じる中でとても大切な内容だと私は思います。
私たちはいつも礼拝の中で、使徒信条を告白しています。特に最後の、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメンとありますが、復活の希望を語っています。そもそもどうして、礼拝の中で信仰告白である使徒信条をいっているかですが、私たちが持っている聖書は、多くの内容を持っています。更に、非常にあついです。旧約聖書から新約聖書とあります。旧約聖書の創世記から、新約聖書のヨハネの黙示録まで、すべて読むことは大切ですが、なかなか大変です。そして、聖書は神の言葉といわれています。神の言葉である聖書をいかに読むかということが非常に大切なこととなっていきます。
キリスト教が始まってから約2000年といわれています。特に、初期に、この聖書の対するいろいろな読み方や解釈がなされました。イエス・キリストの福音を間違ってとらえた人たちもいました。その中で、聖書の正しい読み方はどうであるべきかと教会の中で検討がなされていきました。聖書の間違った読み方をしないように方向付けがなされました。聖書の正しい教え、間違った教えをはっきりとさせるために、自分たちはこの聖書をどのように信じているのかを書いたのが、この使徒信条でした。
また、私たちの教会では、聖餐式がある時に、日本基督教団信仰告白をいっています。この日本基督教団信仰告白は、前文があり、後半は使徒信条です。使徒信条では、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味をはっきりと示しています。繰り返しになりますが、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命です。死者の復活と身体のよみがえり、永遠のいのちは、復活の希望とつながっています。
私たちがキリスト教の信仰を持って生きること、復活の希望を持って生きるということは何を意味するでしょうか。私たちの人生にはいろいろなことが起って来ます。楽しいこともあります。でも、多くが辛く悲しい苦しいことがあります。突然に重い病になる。突然に、災害が起って、命を落としてしまう。また、日常的に起る人間関係の問題、老いの問題、介護の問題、などなどきりがないくらい起って来ます。特に死に関することは、大きな悩みとなっていきます。こんな話を聞きました。その人は30台の若者でした。元気に仕事や家庭生活を頑張って過ごしていました。しかし、最近、体調が少し変だなあと感じていたようです。会社の定期健診で、精密検査が必要ということで、大きな病院で検査したら、末期のガンが見つかったといいます。後、3ケ月の命をいわれて、緊急に入院、そして、手術やいろいろな治療をしたのですが、3ケ月で亡くなったというのです。あれほど元気だった人が突然、病気になり、亡くなった。ショックだったという話でした。
死は避けることができないものです。それは分かっていても、日常生活ではあまり考えないで、過していることが多いです。また、老いの問題でも、いろいろなことが起って来ます。自分が老いを迎える。どのようなことが起るのかが分かりませんが、老いの現実が現れて来ます。そして、最後には死が待っています。人間として生きることは、死は避けることができないものです。そこに、私たちがイエス・キリストの信仰を持つことによって、死の先にある復活への希望を持つことは、大きな慰めにつながっていくと思います。復活の希望を持つということはいったい、どのようなことなのでしょうか。
黙示録24:3~4
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
聖書は、復活の希望を、このように書いています。この神の言葉を信じ、受け止めて、この先に送る様々な困難を乗り越えて、復活の希望を持って、それぞれの人生をまっとうしていきたいと願います。
祈り 神よ、あなたを皆と共に礼拝することができましたことを感謝します。パウロを通して語られた復活の希望を持つことを考えて来ました。私たちの人生にはいろいろな不安や悩み、苦しみがあります。そのような苦しみの中で、復活の希望を持って歩むことができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


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