8月2日の礼拝の内容です。

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8月2日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.58.371.444.81.27です。

礼拝説教     申命記10:12~22「神を畏れる歩み」    2026.8.2

 8月の第1の日曜日を迎えました。私たちが属する日本基督教団の教会暦では、この日を平和聖日としています。それは、今から81年前にあった戦争のことを思い出しながら、戦争の悲惨さと平和の大切さを確認する時でもあります。81年前の6月に沖縄での本格的な戦闘が終りました。沖縄では慰霊の日として大切に守っています。8月6日には広島に、9日には長崎に歴史上初めての原爆が投下されました。8月15日には敗戦の日を迎えました。日本全土は焦土となり、多くの人々が死に、生き残った人々も苦しい中を生きて来たのです。戦後に生まれた私たちは、その戦争を経験したことがありません。だからこそ、戦争の悲惨さを意識して歩む必要があります。

 7月28日には私の誕生日でした。その日に、熊本で大きな地震が起り、今も大変な状況にあります。私は愛知にいて、熊本の方々のために何もできない無力さを感じています。今できることは、神に祈ることだけです。被災された方々が1日も早く、日常の生活に戻ることができますようにと願うのです。

 今日の平和聖日を迎えて、私は旧約聖書の申命記を選びました。この申命記から、今日に生きる私たちが平和聖日を迎えることの意味を考えていきたいと思っています。申命記は、イスラエルの人々がかつてエジプトで長い間、奴隷として苦しい日々を送っていました。人々は苦しい日々の中で、神に苦しみから助けてくださるように祈ったのです。人々の祈りを聞かれた神は、モーセを送って、奴隷からの解放、出エジプトを成し遂げることができました。奴隷からの解放、苦しみからの解放を喜んだイスラエルの人々、しかし、待っていたのは荒れ野でした。生きるために必要な水や食べ物はないのです。生きることができない場所に、神は人々を導かれたということになります。イスラエルの人々は荒れ野を40年間に渡って過ごすことになりました。エジプトでは奴隷としての苦しい日々でしたが、水や食べ物は豊富にありました。荒れ野ではそれがないのです。しかし、神はイスラエルの人々を守り、生きるために必要な水や食べ物を与えて守り養ってくださったのです。そして、目の前にはイスラエルの人々が行くべき先、約束の地が広がっていました。モーセは、約束の地に入るイスラエルの人々に、これからどのようにして神の民として生きるべきかを話しているのです。

 今日の聖書の箇所で、モーセはイスラエルの人々に率直に聞いています。「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」と。それははっきりとしていることです。「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」ということです。神を愛し、掟を守って生きることが、人々に求められていることとはっきりとモーセはここで話しています。

 モーセはイスラエルの人々が、神の民として選ばれたのかを書いています。それは、「主は心を引かれて人々を愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった」といいます。その理由は申命記7:7に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」から、神の民として選ばれたのです。他のどの民よりも貧弱だったということは何を意味するのでしょう。私が考えることは、数が少なく、神に対して罪を犯しやすいからです。神はイスラエルの人々を愛して、神の民として選ばれたことは、イスラエルの人々を愛することではなく、数が少なく、罪を犯しやすい人々を愛することを通して、すべての人々を愛していくということを実現するためでした。

 「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」と16節にありますが、心の割礼といいますか、心をかたくなにしてはならないということです。エジプトを出て、荒れ野の旅を経て、今や約束の地を目の前にしています。それまで何度も、神に対して心をかたくなにして来ました。一番大きい罪は、シナイ山で神がモーセを通して律法を授けている時に、シナイ山のふもとにいる人々は、神を捨てて、エジプトの偶像である金の子牛を造って拝んでしまったことです。神の民として、自分たちだけが特別な存在なのだと思わないことです。神を畏れて生きることが求められています。

 ここからモーセは神の働きを話しています。神は人を偏り見ず、賄賂を取ることもせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる方です。神は人々に、約束の地に入ってから、あなたたちは寄留者を愛しなさいといいます。その理由は、あなたたちもかつてはエジプトの国で寄留者だったからですというのです。更に、あなたたちは、あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主に従ってその御名によって誓いなさいといいます。この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐れるべきことをあなたたちのために行われた方であると。あなたの先祖は70人でエジプトに下ったが、今や、神はあなたを天の星の数のように数多くされたからであるといいます。これは男性だけでの数ですが、60万人となっています。

 申命記はここで終りますが、この先があります。それは、神の子イエス・キリストを通しての救いの業のことです。旧約聖書の申命記には、神とイスラエルの人々のことが書かれてありますが、この内容を通して、聖書が語ることは、イスラエルの人々は罪人であり、更に、すべての人々は神の前で罪人であるということが明らかにされているということです。この人々の罪を解決する必要がありました。それが、イエス・キリストによる十字架です、新約聖書のヘブライ人の手紙には次のような言葉が書かれてあります。

ヘブライ9:27~28

また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 ここに書かれてあるように、私たち人間は、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっています。イエス・キリストは多くの人の罪を負うために、ただ一度十字架についてくださいました。そして、十字架の上で死んでくださり、墓に葬られ、3日目に墓の中からよみがえってくださったのです。こうして、私たちの罪の赦しが完全な形で成し遂げてくださったのです。イエス・キリストの十字架による赦しが、本当に神と私たちの間の平和を考えることになります。

 平和聖日を過すことは、私たち自身が平和を考える時です。平和を考える時には、戦争の悲惨さを覚え、戦争のない世界を目指すことが求められています。しかし、本当に、平和を考えることは人と人との平和ではなくて、神と人の平和を考えることが何よりも大切です。かつて、人間の罪によって、神と人との平和は壊れてしまいました。その神と人との平和を取り戻すためには、神の子の役割が必要でした。それは、イエス・キリストが私たち人間と同じになり、私たちのすべての罪を背負って十字架について死んでくださることが必要だったのです。イエス・キリストが十字架についてくださり、死んでくださいました。そして墓に葬られ、3日目によみがえってくださいました。そのことで、神と人との平和が完成したのです。

 私たちが住む世界は今後、どのようになっていくのでしょうか。世界中の温暖化、様々な自然災害、戦争、混乱など不安材料はたくさんあります。未来への希望、なかなか難しいと考えてしまいます。しかし、神がいてくださる。私たちを愛してくださる。御子を送ってくださり、十字架につけても私たちとの平和を維持してくださる方がいることで、未来への希望を持つことができます。私たちは、神を畏れる歩みをしていきたいと心から望みます。

祈り 神よ、平和聖日の時に、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。かつての戦争の悲惨さを思い出すと共に、未来への希望を持って歩むことができることを期待することができます。何よりも、あなたがイエス・キリストの十字架を通して、あなたと私たちとの平和を築くことができるようにしてくださったことを知り、深く感謝します。私たちはあなたを畏れて歩むことができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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