8月16日の礼拝の内容です。讃美歌は、200.484.507.520.26です。
礼拝説教 使徒25:1~12「不当の中にある真実」 2026.8.16
8月は平和を考える時です。それは今から81年前にあった戦争のことを振り返るからです。8月6日に広島に、9日に長崎に、そして昨日の15日には戦争の終りがありました。戦争の悲惨さを忘れることなく、平和について考えていきたいと願います。今でも世界のどこかでは戦争が起っています。戦争の形は変っても戦争そのものが終るわけではありません。
多くの人々は戦後に生まれて、戦争そのものを体験したことはありません。では、私たち自身が幸福であるかといえば、そうではありません。突然の病気や事故、老いや介護の問題、家族のこと、子育てのこと、自分自身の健康のことなど、1人1人違いますが、様々な苦しみを抱えて生きています。生きていることの苦しさや人間関係での困難さなどいろいろな問題を抱えて生きているのが私たちに生きる現実です。何を支えとして生きていけばいいのか、多くの人々は苦しんでいます。かつて私が学校で働いていた時に、聖書の授業で生徒たちに、聖書に言葉で支えになる箇所はどこかと聞いたことがありました。その時に、多くの生徒たちが答えてくれた箇所が、次の聖書の箇所です。
1コリント10:13
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
自分たちがあった試練で、人として耐えられないようなものはない。耐えられない試練はない。試練と共に、それに耐えられるような逃げる道を備えてくださる。このような言葉があると、困った時に耐えることができるかもしれないと感想をいっていました。私たちはどうでしょうか。いろいろな試練とぶつかった時にどう対応することができるでしょうか。今日の使徒言行録の箇所は、そのようなことを考えらせられるところです。
パウロは、カイサリアに監禁されていました。3回に渡る伝道旅行を終えて、エルサレムに行きました。そこで、ユダヤ人に見つかって捕えられて殺されそうになりました。そのパウロを助けたのがローマ軍でした。ユダヤ人に手からローマ軍に守られてパウロの歩みは続いて行きます。エルサレムではユダヤ人たちはパウロを殺すために、神に誓いを立てていました。この計画を知ったローマの千人隊長がパウロをエルサレムからカイサリアに移動させたのです。カイサリアではローマ総督のもとで裁判を受けることになりました。結果は保留で、そのまま2年間が過ぎていったのです。その時のローマ総督フェリックスは結論をだすことなく放置していました。ユダヤ人たちを恐れていたと考えられます。
2年後に、カイサリアにおけるローマ総督の交代がありました。フェリクスからポルキウス・フェストゥスになりました。フェストゥスはローマ総督として着任して3日後に、カイサリアからエルサレムに上って行きました。そこで、祭司長やユダヤ人のおもだった人々はパウロを訴え出て、エルサレムに送り返すように計らっていただきたいと願いました。途中でパウロを殺そうと陰謀をたくらんでいたのです。あれから2ん年たっても、ユダヤ人のパウロの対する思いは何も変わっていません。パウロに対する憎しみの強さを感じます。でも、フェストォスは冷静な人でした。パウロはカイサリアに監禁されている。逃げることはできないから、自分もまもなくエルサレムからカイサリアに帰るから、あなたたちの有職者たちがわたしと一緒に下って来て告発すればよいのではないといいます。ユダヤ人たちはそれに従ってフェストォスと一緒にカイサリアに下って行きました。
カイサリアに着いて、次の日に、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令しました。パウロが出廷するとエルサレムから来たユダヤ人たちが重い罪状をあれこれといいましたが、それを立証することはできませんでした。パウロは「私はユダヤ人の律法に関しても、神殿に関しても、ローマ皇帝に関しても何も罪を犯したことはありません」と弁明しています。しかし、この時に、フェストォスはユダヤ人に気に入れられようとして、パウロに「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらの裁判を受けたいと思うか」と聞きました。最初は冷静な判断をしたフェストォスは、ここでは自分のために、ユダヤ人に気に入れられようとする判断をしようとしています。もし、ここでパウロがエルサレムに戻されることになれば、パウロはユダヤ人から殺されてしまったでしょう。それは、イエス・キリストの伝道のために大きな停滞をもたらすことになります。
使徒1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」のことが中断することになります。
パウロは「私は皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。私はユダヤ人に対して何にも悪いことはしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します」といいました。パウロは生まれながらにローマの市民権を持っていました。今や、そのローマの市民権を最大に生かしていくのです。ローマの市民権を持つ者は直接、ローマ皇帝に訴えることができ、ローマで皇帝の前で裁判を受けることができるのです。
ローマ総督フェストォスは、それを実行することだけが求められます。そこで、フェストォスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出廷するように」と答えました。エルサレムでパウロが投獄されていた時に、主はパウロにいいました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)この時に、主の言葉が成就するのです。パウロのローマ行きが決定しました。それは囚人としてのローマ行きです。でも、ローマ軍の保護の下でローマに行くことができるということです。
今日の聖書の箇所は、パウロのローマ行きが決まるという最後の大切な場面です。使徒言行録はこれから、パウロがローマにまで行く行程を書いています。もちろん、様々な困難な旅ですが、主に導かれてパウロの歩みは最終段階に入って行きます。パウロは今日の聖書の箇所から、エルサレムに終ってしまうかもしれないこと示しています。しかし、目には見えないですが、主の御手が働いているのです。目には見ることはできませんが、ユダヤ人たちの不当な判断、それとローマ総督のユダヤ人よりの判断、それがそのまま進めば、確かにパウロの歩みはエルサレムで終っていました。しかし、目に見えない主の御手は働いて、パウロをローマにまで導こうとされます。
私たちの歩みはどうでしょうか。私たちの人生の歩みにはいろいろな困難があります。どうすることもできない、乗り越えることができないものがあります。そこには絶望しかないようにみえます。生きる希望も喜びもまったくない歩みにしか見ることはできません。それで終ってしまうような歩みです。その時に、確かに働いている主の御手をみることができるのでしょうか。最初の聖書の言葉を思い出して欲しいと思います。
1コリント10:13
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
この主の御言葉が本当かどうか、自分たちの人生の中で確認していきたいと思います。人生の困難な歩みの中で、主の言葉を持ちながら、歩んで行きましょう。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。自分の目からは困難に見える人生の歩みを、主の御言葉を持って歩むことができますように、守り助けてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


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