8月23日の礼拝の内容です。

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8月23日の礼拝の内容です。讃美歌は、533.493.497.544.27です。

礼拝説教    マタイ6:5~15「イエスさまが教えた祈り」    2026.8.23

 今日は、礼拝後に、教会懇談会を予定しています。テーマが「祈りについて」です。キリスト者の生活の中で祈ることは大切なことです。今日は基本にかえって祈りについて考えていきたいと思っています。そして、私たちの祈ることの基本になるのが、イエス様が教えてくださった主の祈りです。今日の聖書の箇所も主の祈りの内容が書かれてあります。イエス様が教えてくださった主の祈りは、教会の2000年の歩みの間、ずっと教会で祈り継がれてきた大切な祈りです。

 祈りを考える前に、今日の聖書の箇所をみると、イエス様はまず、「祈ってはいけない祈り方を2つ指摘しています。1つ目は「人に見られるための祈り」です。イエス様は「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:5~6)といわれます。当時のユダヤ人は、1日3回、決まった時間に祈ることを習慣としていました。ところが中には、祈りの時間になると、あえて大通りに出て行き、多くの人の目に触れる場所で祈る者がいたのです。これは、神様に向かう祈りではなくて、自分の信仰深さを人に見せるための演技でした。

 教会では礼拝の中で司式者の祈りや説教者の祈り、そして献金者の祈りがあります。これらの祈りは大勢の前で祈りますので、どうしてもよりふさわしい祈りとは何かを意識して祈ります。また、祈祷会でも1人1人が祈ります。どうしても、何がふさわしい祈りなのかを考えて祈っていきます。これらは、とても大切なことですが、私たちの祈りは、人に見せるためのものではなく、神とどう向き合っているのかが大切だとイエス様は教えています。

 次に、言葉数の多さに頼る祈りです。イエス様は「異邦人のようにくどくど述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」と警告しています。

 では、イエス様はどのように祈るべきだと教えているのでしょうか。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:7)と、あります。ここでイエス様がいわれていることは「隠れること」です。人に見られないこと、誰も評価してくれないことです。そこでこそ、隠れている神様が出会ってくださるといいます。大切なのは公の場での祈りを禁じていることではありません。問題は、「人に見てもらおうとする動機」です。真の祈りとは、ただ神様と私だけの1対1の祈りの親しい会話です。そして、イエス様は驚くべきことを教えています。「あなた方の父は、願う前から、あなたの必要なものをご存じなのだ」というのです。神様は、私たちが言葉にする前から、私たちの必要をご存じなのです。だから、すべてを聞いてくださる神様に、ありのままの自分を出し、関係を深めていく場なのです。

 そして、イエス様は大切な祈りを教えてくださいます。これが主の祈りです。主の祈りは、6つの願いからなっています。前半の3つは、神様に関わる祈り、後半の3つは、私たち人間に関わる祈りです。

第1に、「天におられる私たちの父よ」。この呼びかけは大きな恵みなのです。当時のユダヤ人にとって、神ご自身を直接に呼ぶことはしませんでした。神は聖なる方で、私たち人間は罪人だからです。しかし、イエス様は、父よと呼ぶ親しさを教えてくださっています。私たちは父なる神を「お父さん」と呼ぶ特権が与えられているのです。

第2に、「御名があがめられますように」。これは、神さまの栄光がこの世界に満ちることを願う祈りです。私たちの祈りのまず必要なのは、自分の必要ではなくて、神さまの栄光でなければならないのです。

第3に、「御国が来ますように。御心が天に行われるように地にも」。神様の支配がこの地上に完全に行われるように祈ります。この祈りは、イエス様がゲッセマネで「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」と祈られた姿勢とつながっています。

第4に、「私たちに必要な糧を今日与えてください」。これは毎日の必要を神様に委ねる、生活する者の祈りです。明日への不安ではなく、今日の糧を求めることで、私たちは神様への信頼を日々新しくしていくのです。

第5に、「私たちの負い目を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。ここに、イエス・キリストの確信があります。私たちが神さまの赦しを受ける時に、その赦しは、他者を赦す実践へと必然的に向かうのです。イエス様はこの後、14~15節でこの点を繰り返し強調しています。「あなたがたが人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちも赦してくださらない」とあります。これは条件ではありません。神様の赦しを受けた者が他者を赦す者に変えられるという恵みなのです。

第6に、「私たちを誘惑に遭わせないでください。悪しき者から救い出してください」。これは、自分の弱さを認め、神さまの守りを求める切実な祈りです。

すべてのキリスト者が、イエス様が教えてくださった主の祈りを覚えています。礼拝でも、祈祷会でも祈っています。毎回毎回祈っていますと、形式的なことになってしまいます。自分自身も主の祈りをそのまま祈っていて、その意味を忘れてしまうことがあります。イエス様が教えた主の祈りは、私たちが日々の信仰生活の中で、どのように神様と向き合い、どのように隣人と生きていくのかを示す、人生の大切な道しるべとなっています。

この主の祈りは、山上の説教の中にあります。このマタイによる福音書5章から7章にある山上の説教は、イエス様の教えがまとめられたものだといわれています。その最初は、「心の貧しい者は、幸いである」から始まっています。心の貧しさを知る。心の貧しさとは、自分には何もないと認める者です。だから、神様の恵みに全面的により頼む者こそ、真に幸いなのです。主の祈りはその「心の貧しさ」持って、神様の前に出る祈りです。自分の正しさを誇らず、自分の言葉の多さに頼らず、ただ「お父さん」と呼びかける神様との親しい関係の中に、私たちを招いてくださっています。

私たちは日々、どのように祈っているのでしょうか。人に見られることに気にしていませんか。美しい言葉を並べることに安心していませんか。あるいは逆に、祈りの言葉を見つけることができず、祈ることを諦めてはいませんか。イエス様はいわれます。あなたの父は、願う前から、あなたの必要なものをご存じだと。そうであれば、私たちは安心して、飾らず、ありのままに、隠れたところにおられる父なる神様に語りかけることができます。そして、そこで与えられた赦しと恵みを持って、隣人を愛し、今日の糧を分かち合い、神様の御国を待ち望む人生へと歩み出して行くことができるようになります。主の祈りは、ただ口ずさむ祈りではなくて、生きる祈りなのです。

祈り 神様、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。この後に、教会懇談会を予定しています。祈りについて学びます。イエス様が教えてくださった主の祈りから、私たちの信仰生活の中で、祈ることの意味を考えていきます。よき学びと交わりの時となることができますように導いてください。参加することのできない者にも、祈りについて考えることができますように導いてください。これらの願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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