8月30日の礼拝の内容です。

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8月30日の礼拝の内容です。讃美歌は、151(1)32.135.17.38です。

礼拝説教    詩編57:1~6「憐れんでください」(小椋実央牧師)  2026.8.30

2026年8月最後の主日を迎えました。日本に住む私たちにとって、忘れることのできない8月。忘れてはいけない8月が今年も、と言っていいのかどうかわかりませんが、世界のいたるところでの終わらない争いに心を騒がせながら8月が幕を閉じようとしています。また熊本の地震、千葉県の豪雨、石川、富山も豪雨にみまわれています。大自然の驚異になすすべもなく、茫然と立ち尽くしてしまいますけれども、だからこそ神さまの前に集まることをゆるされた私たちは、心をあわせて主の助けと慰めとを、主よ憐みたまえと祈り願いたいと思います。

詩編57編の前半部分が朗読されました。憐れんでください。神よ、わたしを憐れんでください。憐みを2回、繰り返し求めるところから始まります。先ほど、キリエ・エレイソンという短い賛美歌をご一緒に歌いました。メロディーはウクライナ民謡からとられているということで、ウクライナに住む人々のことも覚えて選ばせていただきました。以前にも申し上げたことと重なっていて恐縮ですが、キリエという賛美歌はカトリック教会の礼拝で一番最初に歌われる歌です。キリエ。主よ、憐みたまえ。キリエ・エレイソンというギリシャ語です。日本聖書協会のホームページには、「キリエ・エレイソン」は現在の賛美歌の中で最も古くから歌われてきた歌詞である。3世紀頃からこの祈りの言葉が存在したのではないかという説明がありました。というわけで先ほども歌わせていただきました。キリエ・エレイソン。私自身もあまり歌いなれていないのですが、主よ、憐みたまえという賛美歌です。短い賛美歌と申し上げましたが、キリエ・エレイソンという言葉を3回繰り返します。3回繰り返すというところに意味があって、三位一体、父なる神・子なる神・聖霊なる神をあらわしています。

カトリック教会の礼拝、礼拝とは言わずにカトリックではミサと言いますが、私たちには礼拝という表現のほうがなじみがあるので礼拝という言葉で統一させていただきます。カトリック教会の礼拝では4つの賛美歌を軸にして礼拝が進められます。最初がさきほどもうしあげたキリエ・エレイソン、主よ憐みたまえ。2曲目がグロリア、栄光の賛美歌です。私たちの礼拝ですとグロリアは礼拝の最後に歌うことが多いのですが、カトリック教会では2番目に来るんですね。グロリアはラテン語です。ここで短い聖書の説き明かしをはさんでクレドと呼ばれる信仰告白があります。ここからが長いのですけれどもパンとぶどう酒を備えるための祈りがいくつも続いて、3番目の歌がサンクトゥス、感謝の歌。サンクトゥスは英語のサンキューと似ていますが、これもラテン語です。そして最後、4番目がアニュス・デイ。平和の賛歌と日本語の説明が付け加えられていますが、アニュス・デイの直接の意味は神の小羊という意味です。神の小羊であるイエス・キリストに平和を与えてくださいと願い求める歌です。

もう一度申し上げると1曲目がキリエ、憐みの賛歌。2曲目がグロリア、栄光の賛歌。3曲目のサンクトゥス、感謝の賛歌を歌います。まだここではパンは出てきません。祈って、歌って、4曲目のアニュス・デイ、平和の賛歌を歌った後、ようやく待ちに待ったパンが出てきて、パンにあずかります。キリエ、グロリア、サンクトゥス、アニュス・デイ、というこの賛美歌の並び方を見るだけでも、カトリック教会の礼拝がパンにあずかること、聖体拝領を礼拝の頂点に据えているということが分かります。キリエをのぞいて他の3つはすべてラテン語であまりなじみがないかと思いますし、あえて知らなくても信仰生活を送る上で何も困ることはないと思うのですが、一番最初がキリエから始まる、ということは覚えていても損はないかと思います。と申しますのも、今日お読みした詩編57編の冒頭も、「憐れんでください」と憐みをこうところから始まるからです。

神さまが天地をお造りになり、命を与え、育むお方であり、私たちにイエス・キリストを与えてくださって救いを実現してくださる。神さまがどのように素晴らしい方かということを知って理解した上でようやく「主よ、憐れんでください」キリエ、と歌うのではなくて。とにもかくにも、真っ先に「キリエ」と歌ってしまう。キリエと叫んでしまう。もちろん詩編の詩人も、カトリック教会に集う大半の方も信仰がある。神という存在を知っている。だからキリエを歌うことができるのですけれども、この前置きも何もなしに、神さまにすがりつく。この潔さというか、単純さというか、わかりやすさは真似してもよいのではないかと思うのです。とるものとりあえず、まずは「主よ、憐みたまえ」と歌う。お念仏ではありませんけれども、困ったときにはとりあえず「主よ、憐みたまえ、キリエ」と唱える。そのような信仰を、詩編57編を歌った信仰者と共にたずね求めてみたいと思うのです。さきほどキリエはカトリック教会の礼拝の一番最初に歌われる、と申し上げました。だからと言って、なんの準備もないままにいきなり歌い始めるわけではありません。カトリックの礼拝では信徒が先に着席していて、後から恭しく司祭が入場して参ります。そして司祭が挨拶をした後に、信徒を回心へと招き、回心の祈りをささげます。この回心は心を改めるほうの改心ではなくて、心が回るという字を書くほうの回心です。パウロがダマスコへ向かう途中で経験した回心と同じです。すでに神を知っているものが、しかし心をきちんと整えて神のほうを向く。そのことを回る心と書いて回心と申し上げます。カトリックの司祭は、礼拝に先立って信徒を回心へと招き、祈りをささげます。

その後すぐに歌われるのがキリエです。回心した後に、主よ、憐みたまえと歌う。自らの罪、弱さ、厳しい状況、しかしその中でどうにかして頭をあげてキリエを歌う。一人ではありません。共に歌う仲間たちがいるから、その歌声に促されてまなざしをあげ、頭をあげて、心をあげてキリエを歌うのです。本日は6節までしかお読みしませんでしたが、詩編57編の後半は勝利を確信する歌へと変化していきます。詩編57編の冒頭の小さな文字には「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」とあります。ダビデがサウルに追われて、危機に陥っていた時に歌った歌。もしくはそのことを想像しながら、困難の中で神に救いを求める歌が詩編57編です。詩編の作者の現状は獅子の中にいるようであり、槍のような、剣のような言葉の攻撃にあっています。けれども後半は勝利の歌へと、勝利を確信する歌へと変わっていくのです。それが何故可能なのかと言えば、カトリックの礼拝式順で言うところの回心の祈り、回る心という字を書く回心の祈りがあり、神に心を向けて主よ憐みたまえ、と歌うことが私たちを勝利へと導くのです。

神 に目を向けた時、何も持たない自分、何も造りえない自分、何者でもない自分に気付きます。神から与えていただかなければ、命も、酸素も、水も、食糧も、何一つ得ることができない弱い存在である自分。その時初めて私たちは心から「主よ、憐れんでください」と歌うことができるのです。自分がすぐれている人間だと思っていたら、何もかも手に入れることができると思っていたら、「主よ、憐れんでください」と歌うことはできません。自らの弱さを知り、醜さをみつめて、痛みを肌で感じるからこそ、主よ、憐れんでください、キリエと歌うことができます。神を知らずに、神をみつめることなしに、自分の心のうちだけをのぞきこみながら「主よ、憐れんでください」と歌うことはできません。サウルによって窮地に追い込まれていたダビデは、神に憐みを求めます。そして7節以降、この歌は勝利を確信する歌へと変わっていきます。次回はこの後半を扱う予定ですが、本日は前半部分の憐みを求める部分に注目します。ここに書かれているのは3つです。憐みを求めること。神を避けどころとすること。そして神の名を呼ぶこと。憐みを求めることは先ほど申し上げました。自分ではなく、神に心を向けること。そして神よ、憐れんでくださいと祈ること、歌うこと。他人をねたんだり、他人を憎んでも何も解決しません。心が重くなるだけです。神さまに心を向けて、憐れんでくださいと祈ること。これが1番目です。

2番目は、これは必ずしも順序を意味しているわけではありません。憐みを求めてからではないと次に進んではいけない、という意味ではありませんが、2つめに記されるのは神を避けどころとする、ということです。これは精神的な意味で神さまが私を守ってくださる、神さまが日よけのように、翼のように私を覆ってくださるという意味もありますが、具体的な行動もさしています。実際に体を動かして神さまのもとに身を寄せる、ということです。家を出て礼拝に出席することも行動ですし、環境を変えることも行動と言えば行動です。必ずしも前進でなくても、後退することも動くことです。窮地に陥っていた詩人が勝利へと導かれるのは、神を避けどころとする小さな行動がありました。何もしていなくても、確かに神さまは私を見出して救ってくださるかもしれない。しかしそれを受けいれるのは自分です。今より少し大きく目を開けて、少し大きく手を広げて、もう少しだけ背伸びをして、神さまの言葉を受け取りたいと思います。神さまの出来事を見逃さないようにしたいと思います。

憐みを求めること。神を避けどころとすること。そして神の名を呼ぶこと。3番目の神の名を呼ぶことは祈りです、礼拝です。言ってみれば憐みを求めることも、神を避けどころとすることも、全部礼拝じゃないか、と言われるかもしれませんが、その通りです。けれども私たちは礼拝でしか神さまの名を呼ぶことができないわけではありません。礼拝でなくとも、神さまに助けを求め、祈ることはできます。日曜日でなくても、神さまに頼ることはできます。けれどもやはり、一同に介して礼拝する。神の名を呼ぶ群れの中に身を置いて、共に悔い改めて、共に憐みを求めて、救いの道に生きる。礼拝の中でしか養われないものがあります。何故なら「私を憐れんでください」と主イエスに叫んだ盲人も、主イエスに憐みを求めた重い皮膚病の10人も、いつも信仰の群れの中で共に叫び声をあげ、主イエスから憐みをいただいたからです。主イエスの憐みはプライベートな個室で与えられたのではなくて。主イエスの憐みは常にパブリックな、会衆の中で与えられたのです。その出来事を目撃し、驚き、喜び、神をほめたたえる群衆をも、神さまは必要としてくださったのです。ですから私たちもやはり、礼拝というこの営みの中で憐みを求め、翼の陰を避けどころとし、神の名を呼ぶのです。そして教会はここに来た誰もが神の憐みを求めて、誰もが神の翼の陰であることを体感して、誰もが神の名をこころゆくまで呼ぶことができる、そのような場所であり続けたいと思うのです。

過ぐる聖日、礼拝後に祈りについての懇談会、交わりの時が与えられました。残念ながら私は名古屋中村教会で説教奉仕だったので参加することができなかったのですが、後日お聞きしたところによると、グループに分かれて、それぞれ現状をふまえながら祈りについて語り合ってわかちあうことができた、とお聞きしました。名古屋中村教会は地下鉄東山線の中村公園駅の近くにあるのですけれども、ちょうど私がうかがった日が礼拝後に祈祷会を行う日となっていました。おそらく持ち回りで信徒の方の短い証を聞いて、全員で祈りをささげる。時間にして5分か10分もないような、とても短い時間でした。その時祈る前に、こういうことを祈りましょう、という短いおすすめがあったかどうか、ちょっと記憶していないのですが、今回名古屋中村教会で経験したのは誰かと共に祈る、というスタイルではなくて、黙祷で一人で祈る。声に出さずに、各々が心のうちで祈る、というスタイルでした。こういう祈祷会のやり方は初めてだなぁと思いながら、しかしよく分からないままに見よう見真似で手を組んで祈り始めたのですけれども、案外、思っていたよりも心を静めて祈ることができました。せっかくだから何人か集まって声に出して祈ればいいのにとはじめは思っていたのですが、やってみると意外と充足感があった、というのが私の感想でした。

どうしてこんなことを申し上げたのかと言いますと、前回の瀬戸永泉教会での懇談会の時に話題になったかどうかは、参加していないので分からないのですが、人前で声に出して祈ることが億劫だというご意見が、少なからずあるのではないかな、と想像するからです。これは個人個人の性格によるものもあるかもしれないし、それぞれが育った教会の背景、牧師や礼拝の司式者が日頃どんな祈りをささげているか、どんな祈りを聞きながら教会生活を送ってきたか、ということも関係しているかもしれません。私も振り返ってみれば、洗礼を受けたばかりの頃は人前で祈る時には緊張して祈っていたようにも思うのですが、良いことか悪いことか分かりませんけど、悪い意味で祈ることに慣れてしまって、あまり緊張しなくなってしまいました。しかし大事なことは緊張しているかしていないか、ということではなくて、やはり祈るか祈らないか、ということ。祈らないよりは祈るほうがいいに決まっているわけで、この沈黙して祈るというスタイルであれば、どなたも参加しやすいお祈りのひとつの形になるのかもしれないな、と思いました。本日の詩編に引き寄せて言うならば、主よ、憐みたまえ、キリエ・エレイソンとの祈りを会衆の中で共に歌うのもよし、また心のうちに歌うのもよし、ということです。

神の憐みとは神の性質そのものをあらわしています。神は初めから憐み深いお方です。私たちが願った時だけ憐みを与えてくだるのではなくて、私たちが求める前から神は憐み深い方でおられます。厳しい暑さの中、与えられた務めを全うすべく走り回っている私たちです。忙しいという字は心を亡くすという字を書きます。日々の生活に疲れ果てて、紛争や災害のニュースに心をかき乱されて自分自身さえ見失ってしまうような有様ですけれども、常に変わることなく注がれる神の憐みを求めて、キリエ・エレイソン、主よ憐みたまえの歌を日曜日ごとに歌い続けて参りたいと思います。

<祈り>ご在天の父なる神さま。主よ、憐みたまえ。この歌を、この祈りを、心から歌わせてください。あなたの憐みを世界中に降り注いでください。そして、主よ、憐みたまえと歌うこの祈りを、私たちの喜びとさせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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