9月26日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、7(5)575(1)です。教会堂の工事が進んでいます。

礼拝説教    マルコ11:12~14「実りを願う」(小椋実央牧師)  2021.9.26

今朝も時をゆるされて、このように礼拝にあずかる恵みを心から感謝したいと思います。先月まで私が説教を担当させていただく時は、ネヘミヤ記をご一緒に読み続けて参りました。いつから読み始めたのかさかのぼってみますと、2年前の6月、ちょうど横山先生をお迎えしてすぐの時期から始めたことがわかりました。私が説教を担当させていただくのは、月に一度ですので、本当に亀のような歩みでしたが、2年かかって終えることができました。ところどころ、とばして読みましたので、全部読んだとは言い切ることができないのですが、内容としては全体を扱うことができたのではないかと思います。先日、会報えいせんにも書かせていただきましたが、ネヘミヤ記に記されているのはちょうどバビロン捕囚の少し後の時代、新約聖書の前の時代になります。あまりなじみのない時代、あまり日曜日の説教でとりあげることの少ない箇所でしたので、お聞きいただくのもなかなか骨が折れたのではないかと思います。みなさまに支えられて、ネヘミヤ記を終えることができて感謝をしています。

さて、今日からまた月に1回ずつ、どの箇所に取り組もうかと考えました。正直に申し上げると、どんな箇所を選んだとしても、たいてい好意的に受け止めていただけることが多いと思います。となりますと、ますます責任重大で、どこの箇所を説教箇所としてとりあげるのか、ということを真剣に考えなくてはなりません。たいていの場合は、ここ数年教会でどのような説教が語られてきたか、歴史を振り返ります。例えば去年ルカ福音書が終わったばかりなのに、またルカをはじめからやる、ということはあまりありません。勿論、必要があれば同じものを繰り返し読むということはあるかもしれませんが、それには相当の理由が必要になります。そして今日どのような社会状況で、私たちが生きているこの現代にどのようなメッセージが求められているのか、そのこともまた考慮しなければなりません。環境問題であったり、人種差別、平和について、私たちが住むこの地上ではありとあらゆる苦難があって、人々のうめきがあります。そのような1人1人に、教会がどのようなメッセージを届けることができるのか。勿論社会問題にひっぱられて、福音を見失っては元も子もありませんが、今ここに座る私たちがどんな環境に身を置いているのか。そのことを思いめぐらすことも、どの箇所を説教箇所として選ぶかというひとつのきっかけにもなります。そして案外重要なのが、牧師の力量といったらよいのでしょうか。私自身は経験が浅いので、ヨブ記だとか、雅歌だとか、難解と呼ばれる書物に取り組むのには少し勇気がいります。勿論経験を重ねればできる、若いからできないということはありません。私よりももっと若くて、でもコツコツと丁寧に取り組んでおられる方もいます。誰でも勉強すればできるようになるのか、と言われると、はっきりとそうだ、とも言い切ることができないのですが、私自身はまだまだ経験も、勉強も足りてないなぁと思います。そういう意味では、前回読み終えたネヘミヤ記は私の力量からすると少し背伸びをしすぎてしまった。私の努力よりもみなさんの経験や理解に助けられて、どうにか終えることができた、と言えるかもしれません。

前置きが大変長くなりましたが、悩んだ結果としてこのように決めました。受難週の出来事の中で、あまりとりあげることのない箇所に注目することにしました。受難週と言えば、エルサレム入城であったり、最後の晩餐とも呼ばれます、過越しの食事であったり、有名な箇所がたくさんあります。ところが教会では、「今日から受難週です」と言った一週間後には「イースターおめでとう」になってしまうので、なかなか受難週のすべての記事を読むことがありません。せいぜい、1つか2つしかとりあげることができない。先日も中学生の授業の中で、ちょうど受難週の出来事に入りまして、駆け足でイエスさまの受難から復活までを説明しました。「これはいい話だから、興味がある人は読んでおいて」とところどころ説明しながら、はたと、自分自身がひとつひとつの話と向かっていないことに気付かされました。というわけで今日からしばらくの間、とりあえず今年度中は、受難週の出来事で、あまりじっくりと読む機会のない箇所をとりあげたいと思っています。自分自身の学びのためでもありますし、受難週の出来事をもっとよく知っていただきたいという思いもあります。いくつかを拾い上げて読みながら、今度のイースターにはちょうど帳尻があるような形で受難週の出来事を読み終えることができればいいなと思っています。

マルコによる福音書が朗読されました。マルコ福音書は4つある福音書の中で一番短い書物、何よりも、もっとも古い福音書であります。おそらくマタイとルカは、マルコを参考にしながら福音書を記したのではないかと言われています。マタイが28章まであるのに比べて、マルコは16章までしかありません。とても短いのです。けれども、その半分とはいいませんが、16章あるうちの4割、具体的には11章から16章までは受難週の出来事を記しています。福音書の大半を、主イエスの最後の一週間に割いているのです。マルコは受難週の出来事を書くために、福音書を書いたといってもいいかもしれません。

本日は、受難週の出来事の中で「いちじくの木を呪う」という箇所をご一緒に読みました。この箇所だけを読むと一体なんのことやら、という話です。前後のつながりを見てみますと直前にはイエスさまがろばにのってエルサレムに来られた、エルサレム入城があります。この次の箇所は宮きよめとよばれる、これもまた有名な箇所です。曜日で申し上げますと、エルサレム入城が日曜日の出来事。そして12節は「翌日」とはじまっていますから、12節からは月曜日の出来事となります。このいちじくの木を呪った足で、神殿へと向かうのです。さらに20節には「翌朝早く」とあるので、ここからは火曜日であることがわかります。ただしいちじくの木が枯れていた、という記述がありますので、本当ならこの部分まで、12節から25節までひとまとめに、ひとつの内容のものとして読むのが正しいようです。そうなりますと、不思議なことにいちじくの木の話の中に、宮きよめの出来事がはさみこまれている。ちょうどサンドイッチのように、最初はいちじくの木の話で始まって、途中は宮きよめの話になって、最後はふたたびいちじくの木の話にもどっている。これと似た構造が、これまでなかったわけではありません。大変有名なのがヤイロの娘と12年間出血が止まらなかった女性の奇跡物語です。マルコの5章に記されている物語です。これもはじめヤイロの娘の話がはじまって、途中から12年間出血が止まらなかった女性の話になり、どうなることかと思っているとふたたびヤイロの娘の話に戻る、という構造をしています。

おそらく、これはよくあることだったのではないか。つまりイエスさまの元を訪れる人は多く、後をたたない。たとえ話を話しているかと思えば、急病人が運ばれてくる。食事をしようかと思えば律法学者との論争が始まる。たったの3年という公生涯の中で、毎日次から次へと色々なことがおこる。それらを順番に書き留めていくと、どうしてもこのような構造にならざるをえなかったのだと思います。となりますと、このいちじくの木を呪うという話は、神殿から商人を追い出すという話とセットで理解しなければなりません。どうしても神殿から商人を追い出すという話のほうが有名で、こちらばかり取り上げられることが多いのですが、本来なら切りはなしてはいけない話なのかもしれません。

いちじくの木を呪うという話にサンドイッチにされている、ちょうど具の部分、神殿から商人を追い出すという話は比較的わかりやすい話なのではないかと思います。本来神を礼拝する神聖な場所であるはずの神殿で、商売が行われている。それはけしからんことだ、とどなたも思うのです。けれども、彼らはおみやげやアイスクリームをうっているわけではないのです。神殿でささげものにするための鳩や、献金でささげるために両替をしているのです。ささげものにする動物は牛や羊などがありますが、それらが高くて手に入らない場合は鳩でもよい、ということになっています。イエスさまがお生まれになった時も、ヨセフとマリアは神殿におもむいて鳩をささげています。鳩なんてそこらにいるのを捕まえて持って行けばいいではないかと思われるかもしれませんが、ささげものにする動物は傷のないものでなければならないのです。片目がつぶれたり、片足が折れたりしたら、ささげものには適さないのです。イスラエル国内だけではなくて、離散の民と言われているユダヤの人々はローマ帝国内から、あちらこちらから神殿を目指して旅をしてくるのです。その間ずっと鳩を連れて歩いていたら、途中で病気になってしまうかもしれません。ですから、やはり神殿で鳩を買うのが都合がよいのです。両替人というのも、同じことです。ディアスポラの民であるユダヤ人は、日ごろはローマの通貨をつかっています。異教徒のお金です。ですから神殿でささげる時は、汚れのないお金にしなければなりません。シェケルという単位の、神殿でささげることにしか用いることのできない通貨に両替をするのだそうです。

鳩を売る商人も、両替人も、どちらも神殿で礼拝をささげるためになくてはならないもの。これがなくなってしまうと、遠路はるばる旅をしてきたユダヤ人たちはささげものや献金をささげる手立てがなくなってしまって困ってしまうのです。商人や両替人だって、生活がかかっています。この手数料で、自分たちの生活を成り立たせているのです。勿論イエスさまは人々を困らせようとしてやったのではありません。たくさんのささげもの、たくさんの献金。見た目の華やかさが礼拝の中心になってはいないか。そこに祈りがあるのか。神殿は祈りの家となっているのか。イスラエルの不信仰に対する嘆きを、イエスさまが警告されたのです。それが神殿から商人を追い出す、という行為につながったのです。

神殿から商人を追い出すという話と、今日お読みしたいちじくの木を呪うという話は、続けて起こった事柄として記されています。ここにも、イスラエルの不信仰に対する警告があるのです。日曜日にエルサレムにこられたイエスさまは、エルサレムではなくベタニアに宿をとられました。そして月曜日、イエスさまと弟子たちは神殿へとむかいます。その中で、イエスさまだけが空腹であったと聖書は記します。弟子たちもお腹をすかせていたかもしれません。しかし夜ごと、朝ごとに訪ねてくる人々、弟子たちへの教育、1人静かに十字架を思いめぐらして祈りをささげる時間。様々なことに忙しくて、イエスさまがじゅうぶんに食事をとれていなかったことは容易に想像できます。

ふと目を上げると、葉を茂らせたいちじくの木があった。エルサレムでは3月から4月頃にいちじくの葉が茂り、6月頃に実がなるのだそうです。時は過越祭、3月頃です。ちょうど葉がしげり始めるころであり、実がなるのは不可能な時期です。そこでイエスさまは期待を持って近寄られたが、やはり実はなってはいなかった。そこで言われるのです。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように。」20節を見てみますと、このいちじくの木は根元から枯れてしまった。完全に枯れた、ということが分かります。イスラエルの不信仰に対する警告が、神殿の時と同じように、ここにもあるのです。お前たちは葉ばかりしげらせて、肝心の実りがなっていないではないか。お前たちの信仰はどこにあるのか。みせかけだけの信仰になっているのではないか。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように。」厳しい刑罰の言葉です。滅びの宣言、死の宣言といってもよい言葉です。本来なら実りを実らせる果実にむかってその実を食べさせるな、と言うのは、少しおおげさかもしれませんがこれまでの生き方をやめるように言われているのと同じことです。これまでどおりの生き方は赦されない。これまでどおりの歩みではだめだ、ということです。

私たちは、いくら真面目生きていようとも、どれほど努力重ねようも、自分で自分の罪を清めることのできない存在です。罪を犯すことはできても、その罪を洗い清めることができない。ただ、神さまに赦していただくことを願うことしかできません。私たちもまたこのいちじくの木のように、主イエスから滅びの宣言を受け、枯れてしまうより他ない存在なのです。あれこれと申し立てをして自分だけ罪を見過ごしてもらう、というわけにはいかない。私たちの罪は、神さまの前にはっきりと書き記されていて、一点も隠すことはできないのです。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように。」主イエスの言葉は大変厳しいものです。けれども同時に、このことにも気付かされる。イエスさまは、お前なんか枯れてしまえとおっしゃったのではない。はえていても無駄だから、根こそぎ枯れてしまえとおっしゃったのではない。あくまで、「お前から実を食べる者がないように。」と警告されたのです。あなたから実を食べることによって、あなた自身が隣人のつまづきの元とならないように、主イエスは守ってくださったのです。私と私の隣人とを、不信仰から遠ざけてくださった。私と私の隣人とを、主イエスはこのように守ってくださるのです。

主イエスは信仰のないところに実りを探そうとしてくださるお方です。葉の茂ったいちじくに繰り返し歩み寄って、「まだ、実っていない。」とつぶやきながらも、繰り返し歩み寄ってくださるお方です。私たちがあいも変わらず、葉ばかり茂らせるいちじくの木でありながら、見せかけだけの信仰という過ちを繰り返していながらも、「今度こそ、実りがあるのではないか」と主イエスは期待をしていてくださるお方です。自分自身の信仰生活、日常生活をふりかえってみると、100点満点の信仰生活だったとは言いにくい。口に出すのもはばかられるような、自分でもぞっとするようなこともあるかもしれません。主イエスに厳しく戒められるのは、おそらく私だけではないはずです。けれども主イエスはあきらめないお方です。忍耐強く、辛抱強く、繰り返し私たちを見回って、そこに小さな実りがないかと願い、行動してくださるお方です。このイエスさまの深い愛に支えられて、私たちはようやく信仰を得ることができるのです。イエスさまを信じることを、罪の赦しを願うことができるようになるのです。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように。」この言葉は、ご自身が命をかけて、私たちの実りを願ってくださった主イエスのお言葉です。「今はまだ実りがない。けれども次こそは。」と強く願ってくださる主イエスのお言葉です。このイエスさまの愛に支えられて、イエスさまが私たちの罪の十字架を担ってくださるがゆえに、私たちは生きることを赦され、神の前に立つことを赦されるのです。

<祈り>御在天の父なる神さま。礼拝の恵みを感謝いたします。罪多く、あなたの前にまともに立つことのできない私たちです。礼拝をかざりたて、信仰をかざりたてて、自分をごまかそうとしてしまう私たちです。イエスさまの一度限りの十字架の死と復活を信じさせてください。それによって、私たちの罪がゆるされることを固く信じさせてください。この願いと感謝とを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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