12月12日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、242(3)470(1)です。ライアのコンサートがあります。

礼拝説教       マタイ21:18~22「信じて祈る」     2021.12.12

 12月の第2日曜日を迎えました。待降節第3主日になります。来週は、クリスマス礼拝となります。イエス様の誕生を心から待ち望みたいと思います。そして、週の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉を受けて、よりより1週間を過していきたいと願います。

 マタイによる福音書を読んでいます。イエス様が馬ではなく、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。これはイエス様が来られた意味を現しています。それは戦いではなく、平和をもたらすために来られたのです。すぐに、神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。この時に、イエス様は「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきなのに、強盗の巣にしている」といいました。神殿の異邦人の庭では、大きな不正が行われていたのです。それを正すための行動でした。その一方で、目の見えない人や足の不自由な人々がいて、それらの人々を、イエス様はすべて癒されたのです。

 イエス様と祭司長たちや律法学者たちとの戦いは激しくなっていきます。まもなく、十字架の時が近づいています。この日は、一度近くのベタニアの村に戻り、お泊りになりました。次の朝早く、エルサレムに行こうとされます。この時に、イエス様は空腹を覚えられたのです。道端にはいちじくの木がありました。近寄って見ると、葉の他は何もなかったのです。実は、この時はいちじくの実のなる時期ではありませんでした。そうすると、イエス様はこのいちじくの木に向かって「今から後いつまでも、お前には実がならないように」といわれますと、いちじくの木はたちまち枯れてしまったのです。弟子たちは、この時に、イエス様の行動を見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」といいました。

 このイエス様の行動は、なかなか理解することが難しい場面です。イエス様は空腹だった、近くにいちじくの木があった。しかし、その時期は、まだ実のならない時だった。それなのにいちじくの木に向かって、お前には実がならないようにといって、枯らしてしまったのです。イエス様のわがままのように思ってしまう場面です。自分のために神の力を使うことを否定されていました。それが、ここでは、神の力を、いちじくの木に使ってしまいます。これは1つの象徴的な出来事です。この実のならないいちじくの木は、実は祭司長たちや律法学者たちを表しています。このままでは神の裁きにあってしまう人たちです。その人たちに対する警告であり、大きな悲しみでもあります。祭司長たちや律法学者たちは、神を信じ、従っていると信じていました。イスラエルの人々の中で、最も神に近い人たちだと考えられていました。それが、神の子イエス様を十字架につけるという役割を担うことになります。祭司長たちや律法学者たちは、イエス様を十字架につけることが神の御心に従っていると信じていました。すべての思いを、そこにぶつけています。

 いちじくの木が実らない、神を信じ、従っている人たち、その人たちは、実をならすことができないでいる。その人たちが、これから行くべき先を見て、イエス様は深く悲しんでおられるのです。その象徴的な出来事が、このいちじくの木を枯らすという行為でした。

 イエス様は、弟子たちの問いに答えて、信じて祈ることの大切さを教えています。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起ったようにことができるばかりでなく、この山に向かい、立ち上がって、海の飛び込めと言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」といいます。

「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と、イエス様はいっています。また、実のなっていないいちじくの木を枯らすこともできるし、山に向かって、立ち上がって海に飛び込めというと、そのとおりになるとまで、いっています。そのまま聞くと、何でもできるだと思ってしまいます。もし、できないと、イエス様はうそをいっているとなってしまいます。聖書を読むということは、その1つ1つが神の言葉であり、大切なものです。その神のみ言葉である聖書によって、私たちの信仰の歩みは支えられているのです。聖書を読む中で大切なことは、点で絞るのではなく、大きな視点で読んでいくということです。

ここの聖書の箇所は、イエス様のエルサレム入城から始まって、十字架におつきになるところです。イエス様の目的は、いや、神の目的は、イエス様を十字架につけることです。それは、私たちを罪から救い、天の国に招き、永遠の命を与えるためでした。言ってみれば、イエス様の十字架という視点をいつも持って、神の言葉を理解していくということです。イエス様ご自身が、ここで「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」といいました。この後、イエス様の与えられたのは、十字架の死でした。

 マタイ26:36~46は、ゲツセマネの祈りの部分です。イエス様の十字架を前にした祈りです。ここに祈りの本質があります。

マタイ26:36~39

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

 十字架を前にして、この時には、まだ、イエス様は十字架から逃れる時もできました。イエス様によって、十字かは目の前に迫っています。今なら、十字架から逃げることができるのです。イエス様によって、人間的な思いは、十字架から逃れたいのです。イエス様は知っていました。十字架の死がいかに辛いことかです。いかに苦しいかです。私たちが十字架を前にして、逃げることができれば、絶対に逃げると思います。ここで、イエス様の思いを否定できる人は誰もいません。イエス様は、この時に、悲しみもだえ始めています。そして、近くの弟子たちに、「わたしは死にばかりに悲しい、わたしのそばにいてほしい」と、願っています。イエス様は、神にまず祈ります。「この十字架の杯から過ぎ去らせてください」と。この祈りが、適ってしまえば、私たちの罪の救いはありません。神の御計画もまったくなしになってしまいます。

 そして、イエス様は次の祈りをします。「しかし、わたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままに」と。つまり、十字架にはつきたくはないけれど、神の御心は、十字架につくことなので、従いますということです。神の御心が、ここでは優先されています。この後に、イエス様は十字架の道を進まれます。自分の願いを捨てて、神の御心に従っていきます。イエス様が、信じて祈るならば、求めるものは何でも得られるということは、イエス様が十字架につくということなのです。繰り返しになりますが、それが神の御心だからです。神の御心というのは、私たち1人1人が、罪を赦されて、天の国に入ることができ、神と共に歩み、永遠の命を与えられることです。

 来週は、クリスマス礼拝となります。今から、約2千年前に、イエス様は、私たちの世界に来てくださいました。本当のそのことに感謝しつつ、過してまいりましょう。クリスマスを心から祝いましょう。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができますことを、心から感謝します。あなたの御心はどこにあるのかということを改めて知ることができました。私たち1人1人のために、あなたの一番大切なものをささげてくださるということです。イエス様が、この世に来られて、私たちすべての罪のために十字架についてくださること、そのことによって、私たちの本当の救いが完成したことです。来週は、クリスマスの礼拝を守ります。心から感謝して、礼拝をすることができるように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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