12月26日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、255(1)267(1)です。2021年最後の礼拝です。

礼拝説教      マタイ2:13~15「ヨセフの従順」(小椋実央牧師)    2021.12.26

2021年の最後の主日を迎えました。今年は会堂建築という新しい試みの中で、また去年に続くコロナ禍という災いの中で、礼拝の場所をCS館に移して分散しながら礼拝を守って参りました。先週の金曜日にははじめての試みとしてパルティ瀬戸でのクリスマスイブ礼拝を持つことがゆるされました。はじめてのことづくしで慣れないことばかりでしたけれども、しかしひとつひとつが守られましたことを心から神に感謝したいと思います。

例年この時期になりますと、今年の漢字というものが話題になります。今年は「金」だそうです。もう遠い昔のような気もしますが、オリンピック・パラリンピックでの金メダル、またその他のスポーツ選手の活躍などから「金」に決まったと伺っています。改めて私個人と申しますか、小椋家の一文字は何かなということを考えてみました。あまり良い思い出というのはなくて、今年は家族全員が入れ代わり立ち代わり、病院にお世話になった年であったので「病」という字かなと思いました。今年の2月に私の足の小指にひびが入ったのを皮切りに、4月に息子が自動車と接触事故を起こして、その後すぐに義理の母に癌がみつかり7月に手術をしました。ようやく落ち着いたと思ったら今度は主人が高血圧になって病院通いが欠かせなくなってしまいましたし、また先日息子が生まれて初めて虫歯の治療をして、これまでは検診のために3か月に1回しか行っていなかったのに、今回ばかりは2週連続で歯医者に行く、ということもありました。わが家のカレンダーには誰かしらの病院の予定が書かれていて、誰が誰を送っていくのか、そのやりくりに頭を悩まされた1年だったように思います。

そして命あるものには必ず死が訪れるということは知識としては分かってはいたものの、交通事故や母の手術の際には死というものをいやというほど覚悟させられました。当事者になると、こんなにもまごついてしまうものか。自分自身の心の弱さにも改めて気付かされた1年でした。おそらくここにおられるみなさんも大なり小なり試練を経験して、暗闇を手探りで歩くようなことがあったかもしれないし、今まさにトンネルの中で出口が見えない状態です、という方もおられるかもしれません。だからこそイエス・キリストという灯を燃やして、このわずかな光、しかし決して滅びることのない光を頼りにして新しい年もご一緒に歩んで参りたいと思うのです。

ヨセフは今まさに、真っ暗な道を歩み始めました。まだ首も座らない、生まれたばかりの幼子とマリアを連れて、エジプトを目指して旅立ちました。エジプトに知り合いや親戚がいるわけでもありません。この暗い夜道を、誰かが案内してくれるわけでもありません。ヨセフを突き動かしていたのはこの言葉です。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている。」いつ、ヘロデの手下が追ってくるかもわかりません。休むこともままならない旅路であったと思います。今日のような煌々とした灯りの乏しい時代、どれほど不安で心細い旅の始まりだったことでしょうか。

平凡で穏やかだったはずのヨセフの人生が、嵐のように荒れ狂い始めたのはほんの数か月前のことでした。結婚を間近に控えるヨセフのもとに、恐ろしいニュースが飛び込んできました。現在婚約中のマリアのお腹に自らは全く関与していない新しい命が宿っている。そのことは、常識で考えれば姦淫の罪、マリアの裏切りを指していました。ヨセフは深く傷つきます。しかし傷ついてなお、ヨセフはマリアとお腹の子を守ろうと知恵を絞ります。ひそかに離縁して、姦淫の罪という責めをマリアに負わせないようにした。婚約中の娘に手を出した上に、身勝手に離縁したという汚れ役を演じることで、マリアを守ろうとしたのです。そこに天使が介入します。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻、マリアを迎え入れなさい。」そしてこどもについては「イエスと名付けなさい」と命じられます。当時、ユダヤの社会では子供に名前を付けるというのは父親の重大な役目です。ただ、子供に名前がつくというだけではない。自らが父親であることを、一族の前で公明正大に宣言する瞬間です。幼子を危険から守り、養って食べさせ、必要な教育を施すのは、他でもない私であると宣言するのと同じことです。

ここにいたるまでの間、ヨセフは何日も思いめぐらしていました。何故、マリアは自分を裏切ったのか。聖霊によって子供ができたと言っているが、それは本当のことなのか。マリアを愛する気持ちが強ければ強いほど、悲しみ、怒り、そして苦しみ続けたのです。不思議なことに、ヨセフは天使の言葉をすんなりと受け入れて行動に移します。眠りから覚めると、主の天使が命じた通り妻を迎え入れたとあることから、これらの出来事は結婚式を迎える直前の出来事だったのかもしれません。ヨセフにとっては、天使の言葉を積極的に受け入れるというよりは、それ以外の道がなかった。受け入れざるを得なかったというのが、本当のところだったのかもしれません。やがて幼子誕生の日を迎えます。天使の言葉どおり、ヨセフは「この子の名前はイエス」と宣言します。ヨセフの気持ちはともかくとして、法の上では自分が父親であることを認めました。クリスマスは幼子イエスが誕生しただけでなくて、聖なる家族、聖家族が誕生した日でもあります。イエスさまを通してマリアが母となり、イエスさまを通してヨセフが父となった日です。ヨセフはマリアを愛するからマリアを受け入れるのではなく、天使の言葉、神の言葉を受け入れたからマリアを受け入れることができたのです。自らの正しさにしがみついて、相手の悪いところを責めているうちは、いつまでたっても神の言葉を受け入れることはできないし、隣人を受け入れることはできないのです。

マリアが幼子イエスを出産する。その前後は落ち着いて神の言葉を思いめぐらす余裕もないほど、慌ただしいものでした。元々ナザレにいるはずのヨセフとマリアは、住民登録のためにヨセフの出身地であるベツレヘムまで行かなければなりませんでした。このベツレヘム滞在中に旅先で幼子が誕生します。時を開けずして、占星術の学者たちの訪問を受けます。ヨセフとマリアは身分不相応な高価な贈り物をもらって、目を白黒させていたに違いありません。しかし振り返ってみれば、つかの間の平穏なひとときでありました。赤ちゃんが無事に誕生した、その喜びもつかの間、2度目の天使の介入が起こります。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまでそこにとどまっていなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている。」生まれたばかりのわが子が殺されてしまうかもしれない。ヨセフとマリアにとってみれば寝耳に水の話です。1度目に天使から聞いた「わが子が救い主になる」ということ。そして学者たちからもらった身分不相応に高価すぎる贈り物。2人はいよいよ、わが子が本当に救い主となって、それゆえに権力者から命を狙われる存在であることを、事実として受け止めたに違いありません。日の出を迎える前に、3人は慌ててベツレヘムを後にするのです。

マタイ福音書の早い段階で、ヘロデが子供たちを皆殺しにするというショッキングな事件が記されています。私たちにとっては歴史を揺るがす大事件ではありますが、当時の歴史を記す書物にはこの出来事が記されていない、ということが分かっています。つまり、聖書に記されるほどの大規模な虐殺は行われなかったのではないか、という主張をする研究者もいます。しかし、それ以外のヘロデが行った残虐な行為を見れば、2歳の以下の子供を皆殺しにするぐらいのことはやりかねない、という気がします。ヘロデがやった有名なことと言いますと、自分の息子や妻を殺してしまう。もしかするとこの人は、王の座を狙っているかもしれない、と思うと側近さえも殺してしまう。そんな話が後をたたないので、やはり幼児虐殺はあったのではないか、と思うのです。

それほど悪いイメージがつきまとう人物ではありますが、聖書に関連して申し上げますと当時のエルサレム神殿を改築した、という功績も残っています。最終的にはローマ帝国に壊されてしまうのですが、ソロモンが建てた神殿、エズ・ネヘミヤの時に再建された神殿とはくらべものにならないほど、金銀財宝で飾られた、美しい神殿だったのだそうです。ヘロデはユダヤ人の王でありながら、自分自身は生粋のユダヤ人ではなかったために、ユダヤ人に対する劣等感を持っていたようです。また、ユダヤ人からあまり好かれていないことも自覚していた。そこで民衆の関心をかうために、神殿を改築したとも言われています。理由はなんであれ、ヘロデ王が礼拝の場を整えていた、というその功績は忘れるわけにはいきません。片方の手で神殿を再建し、もう片方の手で幼子イエスをにぎりつぶそうとしている。なんと残虐なことか、と眉をひそめたくなってしまいますが、決して私たちに無関係の話とは言えない。私たちも現在礼拝堂を改築するという大事業に与っていますが、そのかたわら、イエスさまの言葉に耳をふさいでしまうこともあります。寝ても覚めてもイエスさまの言葉を受け入れてそれに従っているというわけにはいかない。やはり都合の悪い時には耳に蓋をしてしまうことがあるのです。となりますと、ヘロデ王のしていることが特別なのではない。私たちも時に、イエスさまを追い出そうとしていう存在であることを忘れるわけにはいかないのです。

本日の箇所はホセアの預言の言葉でしめくくられています。(ホセア書11章 p1416)ホセアの預言の中で、イスラエルをエジプトから呼び出したのは私だと神が語ります。イスラエルの人々は、エジプトから呼び出されたにもかかわらず、神を裏切ってしまう。神を裏切るような存在でしかない私たちを、その悲惨な歴史を主イエスがもう一度たどってくださる。そのために幼子イエスはエジプトに行かなければならなかったのだ、と聖書は語ります。権力者から逃げるようなエジプト行きではありましたけれども、しかしそれは主イエスを追放しようとする者をもう一度愛してくださるかのような歩みでありました。幼子イエスのエジプト行き、そしてエジプト脱出はユダヤ人のためだけではなくて、全人類のために必要な旅路であったのです。

ヨセフの旅は始まったばかりです。私たちに与えられている新しい年もまた同じように、暗闇を手探りで歩む日々であるかもしれません。自らの決断に自信を持てずに、他人の顔色を窺いながら、不本意な道を歩まされることのほうが、現実には多いことなのかもしれません。しかし、ヨセフはあの時天使が語った神の言葉を受け入れました。それゆえに自らの傷ついた心を見つめ直すことができました。隣人であるマリアを受け入れ、幼子イエスを自らの子供として受け入れることができました。ヨセフが神から与えられたこの従順さを、私たちもまた神からいただきたいと思います。この不安定なよりどころのない世界を、しかし心にはイエス・キリストというまことの灯をかかげて、歩ませていただきたいと思います。

<祈り>御在天の父なる神さま。2021年最後の主日を迎えました。さまざまな思いがありますけれども、礼拝に呼び集められ、み言葉にあずかることで2021年を締めくくることのできる幸いを感謝いたします。将来のこと、健康のこと、世界情勢のこと、色々な不安があります。しかしだからこそあなたの言葉を受け入れ、隣人を受け入れる従順さをさずけてください。心静かに、み言葉に耳を傾けることができますように。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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