讃美歌は、452(1)471(1)です。
礼拝説教 マタイ21:28~32「兄と弟のたとえ」 2022.1.9
新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉によって。この1週間も感謝して歩んでいきたいと願います。
マタイによる福音書21章は、イエス様のエルサレム入城から始まります。まもなくイエス様の十字架の時は近づいています。神殿の境内で、イエス様がそこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。そして、「わたしの家には祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたがたは強盗の巣にしている」といわれたのです。こうして、神殿を管理している祭司長や民の長老たちとの論争になっていきます。この前の権威についての論争では、洗礼者ヨハネを「信じなかった」当時の指導者たちの姿が現れるのを受けて、同じテーマとして、これから3つのたとえ話が始まります。その最初のたとえが「兄と弟のたとえ」になります。
この「兄と弟のたとえ」ですが、イエス様の祭司長と民の長老たちの論争の中で、でてきているたとえ話になります。ある人の二人の息子がいました。その人はまず兄の所に行き、「子よ。ぶどう園へ行って働きなさい」と言いました。兄は「いやです」と答えましたが、後で考え直して出かけていきました。つまり、結果的に兄はぶどう園に働きに行ったということです。今度は弟の所に行って「子よ。今日、ぶどう園に行き働きなさい」といいました。弟は「お父さん、分かりました」と答えましたが、出かけて行きませんでした。つまり、弟は、ぶどう園で働かなかったのです。そして、イエス様は「さて、この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか」と祭司長と民の長老たちに聞きました。すると彼らは「兄の方です」と答えました。
そしてすぐに、イエス様は、祭司長や民の長老たちに「はっきりといっておく。徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう。なせなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたたちはヨハネを信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直してヨハネを信じようとしなかった」といいます。
ここで、イエス様は神殿の管理者であった祭司長や民の長老たちと話し合っています。このたとえ話の中で、兄と弟のたとえで、彼らと徴税人と娼婦たちが比較されています。兄が徴税人と娼婦たちであり、弟が祭司長と民の長老たちとなります。このたとえ話では、「言葉でどう答えるではなく、行動で従うことが大切である」ということを教えるたとえ話だと思います。洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れた徴税人と娼婦たちと、受け入れなかった祭司長や民の長老たちのことを表して、行動の問題よりも、回心の呼びかけを受け入れるどうかがポイントになっています。
今日の聖書の箇所でポイントになるのは、29節と32節にある「考え直す」という言葉です。考え方を直すという意味です。「回心」という言葉と同じことになります。洗礼者ヨハネの言葉を聞き、神の言葉として深く受け止めることができるか、そして、自分を変えることができるかどうかが、ここで問われています。
28節「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」という言葉は、マタイ20:1~16のぶどう園の労働者のたとえを思い出します。このたとえ話では、午後5時まで誰からも雇ってもらえなかった人々の姿を思い出します。ここで言われていることは、息子たちを苦しい労働につかせて苦しめるということではなく、父のもとで生きる喜びに、すべての人々を招きたいということでした。
徴税人と娼婦が出てきますが、この人々は当時のイスラエルの人々の社会にあって、罪人の代表者のように考えられていました。神の救いからも遠い存在として考えられ、自分自身でも神の救いからもれている、救われる可能性は全くないと思っていたのです。徴税人は、当時のイスラエルの人々を支配していたローマのために税金の取り立てを請け負っていたイスラエルの人々です。異邦人支配者のために、同胞から税を取り立てること、定められた額より多く取り立てる理由で、イスラエルの人々の中で憎まれ、罪人として排除されていました。
娼婦というのは、性的サービスを提供することによって、金銭を売る女性を指すと辞書ではあります。私がかつて勤めていた平和学園の創立者の1人が香川豊彦でした。高校1年生の修養会が、毎年5月の最初に行われていたのですが、その時に、香川豊彦の自伝といってもいいと思いますが、「死線を越えて」のビデオを見るのです。香川豊彦が、青年期に神戸の新川の当時、日本最大のスラムに入って活動していった記録なのですが、そのスラムの現実がありました。スラムの現実というのが、貧困でした。貧しさのために、スラムで生きていくためには、男の子はスリとか窃盗とかしなければ生きていけないのです。女の子は、ある程度の年齢に達すると、売られていくのです。1人の少女を助けるために、香川豊彦の妻が、命をかけて守るシーンがありました。相手は、その少女の父親でした。生き延びるために、自分の子どもを売るのです。子どもは嫌だと、自分の家を逃げて、香川の家に隠れます。それを知った父親が、手に刀を持って、迫るのです。香川の妻は、命をかけて、その少女を守ろうとします。一時的には、売られることはなくなりましたが、結果的に、その少女は、家族を助けるために、自分の身を売っていくのです。本当に悲しい現実がそこにはありました。
周囲の人々から、神の救いの対象外と考えられていた人々、洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に勇気を与えていました。「すべての人々は悔い改めなければならない。回心しなければならない。」ということは、「どんな人でも悔い改めれば、回心すれば、神の救いにあずかることができる」ということです。洗礼者ヨハネの示した救いは、悔い改めて、回心して、洗礼を受ける道でした。正しい行いをする以前に、何よりも自分の罪深さを認め、神に立ち返る道です。イエス様は、これこそが神との正しい関係の在り方だといわれるのです。
一方、当時の社会・宗教の指導者たちは、洗礼者ヨハネのメッセージに心を動かされることはなかったのです。彼らは洗礼者ヨハネのメッセージは悪いことだとは思いませんでした。しかし、自分たちはきちんとやっていると思っていて、洗礼者ヨハネの呼びかけは、自分たちに向けられたものとは真剣に受け止めなかったのです。回心すべき人々は、自分たちではなく、他の人々だと思っていました。考えれば、彼らは自己満足と優越感の世界にあって、生きる神との関係と人と人のつながりも見失っていたのです。このたとえ話で、弟は「承知しました」といいながら、なぜ、ぶどう園に出かけなかったのでしょうか。父の呼びかけにまともに受け取らず、本気で父と共に生きようとはしなかったのかもしれません。
「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとはしなかった」(32節)の「それ」は、「徴税人と娼婦たちは信じた」です。当時の指導者たちは、2回の悔い改め、回心のチャンスがありました。1つは、洗礼者ヨハネが回心を呼びかけたこと、もう1つが、罪人のレッテルをはられ、神の救いから外されていた人々が、洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、神に対する信頼と希望を取り戻していった姿をみたことです。人が神と本当に出会うことの難しさを感じます。
私たちはいったい、どちらでしょうか。改めて、考えてみたいと思います。まもなく、イエス様は十字架の道を歩んでいかれます。そして、私たちすべての罪を背負って、十字架で死んでくださるのです。そして、イエス様の十字架の上の言葉を聞くのです。「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。」と。洗礼者ヨハネの言葉を拒否した人々のためにも、祈ってくださっています。そして、私たち1人1人のためにも祈ってくださっています。
祈り 神よ、聖書の言葉をありがとうございます。どうか、私たちが、徴税人や娼婦たちと共に、悔い改めて、あなたの救いを受け入れることができる悔い改める心を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
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