2月13日の礼拝の内容です。

blue skies 礼拝
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讃美歌は、510(1)532(1)です。教会の工事が3月末に完成予定です。

礼拝説教        マタイ22:23~33「復活の時」      2022.2.13

 新しい1週間が始まりました。最初の日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉を受けて、1人1人が、喜びと希望に満ちた1週間となりますように、祈ります。

 私たちは生きています。そして年を重ねていきます。その先に死があります。人の死は誰もが避けることができないものです。すべての人が一度だけ体験するものです。周りの人々の死をみて、いろいろな思いになります。できれば避けたいものですが、そうすることはできないものです。私たちは、イエス・キリストへの信仰によって、復活の希望を持っています。これが唯一の支えです。では、私たち自身の復活はいったいどうなるのだろうと考えます。その答えに、すべてではありませんが、一部、イエス様が答えてくださっているのが、今日の聖書の箇所です。

 イエス様の活動の最終局面を迎えています。エルサレムに入られました。まもなく、十字架の時はやってきます。イエス様はエルサレムに入られ、神殿の境内で、両替をしていた両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒しました。イエス様と祭司長や律法学者との対決が本格的になっていきます。今日の箇所では、サドカイ派の人々がやって来て、イエス様と対決します。サドカイ派は祭司階級で、エルサレムの神殿を管理していた祭司長との深いつながりがあります。そういう意味でも、自分たちが管理している神殿で勝手なことは許さないという思いでやってきました。サドカイ派は、保守的でローマの支配を喜んでいました。ローマの支配の中で、特権としての地位を持つことができていたからです。サドカイ派は、旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のモーセ5書と言われますが、それのみを聖書としていました。そして、復活を信じていませんでした。

 サドカイ派の人々が、イエス様との対決で、問題にしようとしているのが復活のことです。繰り返しますが、彼らは復活を信じていませんでした。ついでにファリサイ派の人々は復活を信じていたのです。ファリサイ派の人々は、このサドカイ派の人々と対立していました。サドカイ派の人々は、イエス様に「先生、モーセは言っています。ある人が、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならないと。さて、わたしたちのところに7人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに7人とも同じようになりました。最後に、その女も死にました。すると、復活の時、その女は7人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」と。

申命記25:5~10

兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。「わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。」町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、「わたしは彼女をめとりたくない」と言い張るならば、義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と言うべきである。 彼はイスラエルの間で、「靴を脱がされた者の家」と呼ばれるであろう。

 この特殊な結婚の形をレビラート婚といいます。その家を守るために考えられたものです。長男が妻と結婚しました。やがて、長男が死にました。するとその家を守るために、次男は長男の妻と結婚しなければならないというものです。聖書の中に、ルツの場合やユダの息子たちの場合が出ています。日本でも戦後あったということです。多くの若者が戦死し、多くの妻たちが残されました。それで、そのようなことが行われたのでしょう。身近な所で、男女が結婚して、どちらかが早く亡くなって、残された方が新しい人と結婚する場合もあります。また、死別ではなく、離婚して、再婚する場合も考えられます。

 復活した場合、その時はいったい誰が相手になるのかということです。もしかしたら、私たちも復活後というのを、そのように考えてしまうこともあるでしょう。それで、イエス様が答えています。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と。群衆はこれを聞いて、イエス様の教えに驚いています。サドカイ派の人々も引き下がるしかありませんでした。

 このイエス様の言葉によって、復活の時に、人はどのような状態になっているのかの一部を知ることができます。この世界に生きている時のように、人は結婚したり、しなかったりしますが、復活の時には、そのようなことはないということです。天使のようになるのです。神を信じて、仕えるのです。もしかしたらがっかりする人がいるかもしれません。逆にホッとする人もいるかもしれません。

 次に、復活の時の様子を描いている聖書の箇所をみてみましょう。

Ⅰコリント15:50~53

兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

黙示録21:3~4

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 これらの聖書の箇所より、復活後の様子を一部ですが、知ることが許されています。私たちには、復活後のことのすべてを知ることはできません。しかし、その一部を知ることが許されています。まったく違う体に変えられること、結婚のようなことはなく、天使のように、神に仕えるようになること、そして、神が私たちと共にいてくださること、死や悲しみや嘆きや労苦もなく、わたしたちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるのです。私たちは、やがてくる復活の時を、心から信じ、希望を持ってしっかりと歩んでいきたいと願います。

祈り 神よ、あなたを日曜日に、礼拝することができましたことを、心から感謝します。私たちは今、生きています。いつか死を迎える時がやってきます。とても不安です。苦しむのではないか。激しい痛みがあるのではないか、たくさんのわからない多くの不安があります。イエス様が復活された。そして、私たちも復活する、本当にそうなるのか、分からない。信じることが難しい。そのような思いの中にあります。でも、あなたの言葉は真実です。私たち1人1人の復活とその時の希望をしっかりと信じて、歩むことができる者にしてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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