3月20日の礼拝の内容です。

教会からのお知らせ

讃美歌は、200(1)484(1)です。教会の竣工式は4月24日です。

礼拝説教       マタイ23:13~22「愛するということ」    2022.3.20

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神のみ言葉をいただいて、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。

 マタイによる福音書を読んでいます。マタイ22章からは、イエス様のエルサレムにおける活動のことが書かれてあります。イエス様はまもなく十字架の時を迎えようとしています。そして、マタイ23章~25章は、最後のイエス様の説教集といわれています。マタイ5章~7章が、山上の説教といわれているのに対応しています。マタイ5章の最初に、幸福についての教えがあります。それと対応しているのが、マタイ23章です。変な言い方かもしれませんが「不幸についての教え」ということができます。これらの幸いや不幸についての教えですが、どのような意味があるのでしょうか。旧約聖書の申命記には次のような箇所があります。

申命記30:15~18

見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。

 この聖書の箇所から分かることは、幸いは祝福であり、命です。不幸とは、災いであり、呪いであり、死です。このように神は、祝福と災い、幸いと不幸、命と死が、イスラエルの人々の前に置かれていて、命を選ぶように、祝福の道を選ぶように勧められています。マタイによる福音書も、イエス様の教えのように、これらの2つの道が示されていて、命の道を歩むようにといわれています。そのイエス様の進められる道を選ばなかったのが、律法学者やファリサイ派の人々だったのです。イエス様は、今日の聖書の箇所で、律法学者やファリサイ派の人々を批判しています。本当に厳しい言葉です。

マタイ23:13.15

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。

 イエス様はここで、律法学者、ファリサイ派の人々に対して、不幸だといっています。それはすべて「あなたたち偽善者は不幸だ」ということです。偽善者とは、どのような意味でしょうか。偽善者という言葉にはもともと俳優という意味があるのだそうです。俳優は演技をする人ですね。人に見せるために演技をするということです。信仰の世界で、演技をしている人々というのは、本当には信仰的には生きていないということになります。神のことを考えて、神への信仰を大切に考えて行動しているように見せかけてはいますが、実は、自分がどのように人から見られているのかを考えて、生きているということです。神のことを考えているような演技をして、実は、自分のことを考えていることが、偽善者、信仰の演技者という意味なのです。そのような姿が、不幸なのであり、命の道ではなく、死を選んだ者の姿です。そのような偽善者が、人々の前で、天の国を閉ざす、自分で入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」と批判しているのです。

 更に、改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだと、イエス様はいっています。律法学者やファリサイ派の人々は、とても熱心でした。彼らは1人の改宗者を得るために、海でも陸でもあらゆる所を巡り歩いて、決して惜しむことがないほどに熱心だったのでしょう。その伝道の熱心さには頭が下がります。ただ、その熱心さがどこに向くのかが問題でした。改宗者が出ると、自分より倍も悪い地獄の子にするような熱心さが不幸なのです。

16節では「ものの見えない案内人」と、イエス様は彼らを呼んでいます。これは信仰的な問題で、霊的には見えないのに、あたかも見えるようにふるまい、人々を救いではなく、誤って導いていることが不幸だといっています。では「ものの見えない」ということは、どのようなことでしょうか。それは、誓いに関することです。

マタイ23:16~22

あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。

 ここで、イエス様が問題にしていることは、誓う、誓約する、ということです。旧約聖書・民数記30章3節「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。」と、あります。一度、誓ったならば、決して誓いを破ってはならないのです。イスラエルの社会では、誓いや誓約は破ってはならないと考えられてきました。長い歴史の中で、律法学者は、破ってはいけないこと、破ってもいいことの中間を考えるようになったといいます。主の名によって近いことは、明らかなように破ってはならない誓約でしたが、言葉を変えると破ってもいいものだというのです。誓いの重さは、主の名からの距離によって変ってくるものでした。神殿、神殿の黄金、祭壇、祭壇の上の供え物が問題になっています。

 誓いや誓約、これらは破ってはならないものでしたが、律法学者は、言葉を変えることによって、破ってもいいとしてしまっているのです。イエス様は、それは愚かなことであり、すべては主に向かって誓っていることになるのだといっています。マタイ5:34「一切の誓いを立ててはならない」ということです。

 イエス様の厳しい言葉は、いったい、私たちに何を語りかけようとしているのでしょうか。表面的な見せかけに惑わされず、本質を見抜く力を持つことが大切なのでしょう。神からそのような力を与えてくださると信じて歩んでいきたいと思います。私たちは人との関係の中で生きていますので、どうしても人の目は気になってしまいます。イエス様は、そのような人の姿を厳しく問われます。そこには、イエス様の深い悲しみと嘆きがあります。それと同時に、私たちに対する深い憐みと同情があります。その憐みと同情によって、イエス様は、私たちのために、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死んでくださるのです。繰り返し、偽善に陥ってしまう私たちを見つめるイエス様のまなざしは、決して「お前たち偽善者は、呪われて滅び去れ」という断罪のまなざしではないのです。イエス様は深い嘆きと悲しみを持って、そして、憐みと同情を持って、私たちのことをいつも見ていてくださっています。

 私たちは、このようなイエス様のまなざしの中で生きています。そして、イエス様のまなざしの中で生きる時に、人の目、人の評価から解放されて、歩むことができるようにしてくださるのです。神は、どのような目で、私たちを見ているのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架で示されています。イエス様の深い嘆きと悲しみ、そして憐みと同情、私たちのために十字架の死を引き受けてくださったそのまなざしこそ、神が私たちを見つめておられるまなざしです。この神のまなざしは、律法学者やファリサイ派の人々にも注がれています。私たちは、イエス様による神の恵みのまなざしの中で、天の国を生き始めていくのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。イエス様の愛する姿をみてきました。厳しい言葉の奥に、どれほどの愛があるのか、教えられました。律法学者やファリサイ派の人々に対する厳しい批判、そこにどれほどの悲しみや嘆きがあり、そして深い憐みや同情があるのでしょう。そのイエス様の愛のまなざしが、私たち1人1人に注がれていることに気づきます。私たちは、イエス様の十字架のまなざしを見つめ、その上で生きていくことができるように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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