11月30日の礼拝の内容です。

11月30日の礼拝の内容です。讃美歌は、242(1).241.231.248.26です。

礼拝説教  ルカ1:26~38「ガブリエル来訪」(小椋実央牧師)  2025.11.30

「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」クリスマスの訪れを告げる、天使ガブリエルによるおとめマリアへの受胎告知です。まだとうてい母親になるとは思えないような幼い少女の元へ、天使ガブリエルが重大なしらせを持って訪れます。「あなたは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」これを聞いた時のマリアの驚きを、或いは恐怖を、そして新しい命が宿るという喜びを、想像するだけで私達の胸が高鳴ります。

2025年のアドベントを迎えました。主イエスのご降誕をお祝いする準備は整っているでしょうか。心の中に、主イエスをお招きする余地は十分に備わっているでしょうか。仕事も、家庭も、なかなか断ることのできない務めや、ややこしい人間関係を何もかも投げ捨てて、主イエスをお招きすることだけに心を注ぐことができたとしたら、どんなに平安な心で満たされることでしょうか。残念ながら、私たちの中にはただの一人もそのような人はいません。どうにかこうにか平日をやり過ごして、重たい体をひきずって、日曜日に教会に駆けつけて、なんとか心の隙間を作り出して、2025年のクリスマスを祝いたいとここに集っています。そのことはおそらくこのおとめマリアも同じでした。彼女はガブリエルの訪れを待っているつもりはさらさらなくて、家の手伝いか、或いは小さな町の若いおとめらしく、似たような年頃の娘たちとささやかな楽しみごとをしていたか、全く想像がつきませんけれども、何かをしている最中にガブリエルをお迎えしたのです。お迎えをした、と言うよりは、ガブリエルが一方的にやってきたのです。しかしこちらの側が不十分な備えであったとしても、神は、また天使ガブリエルは行き当たりばったりにやってきたわけではありません。何年も、何十年も、もしかしたら何百年も前から淡々と準備を進めて、マリアの元へとやってきたのです。クリスマスの時期にこのマリアへの受胎告知を読まずにはクリスマスを終えることができない、避けることのできない箇所です。この物語をみなさんとご一緒になぞりながら、長いようで短いアドベントの期間をどのように過ごしたらいいのか、その手掛かりを探してみたいと思います。

「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」ルカによる福音書は、これが六か月目に起きたことだ、ということをはじめにはっきりと記しています。六か月目、何から数えて六か月目かというと、ガブリエルが祭司ザカリアの元を訪ねてから六か月目です。つまりこのマリアへの受胎告知は、独立した一つのお話ではなくて、ちょうどひとつ前のページに記されるザカリアへの告知。洗礼者ヨハネの誕生の物語とつながって読むべきお話だ、ということをルカ福音書は示しています。すでにご存じの方がほとんどでしょうけれども、簡単におさらいをしますと、マリアへの受胎告知の1ページ前に記されているのは洗礼者ヨハネの誕生にまつわる物語です。主イエスが宣教活動を始める少し前に、悔い改め運動をすすめていたのが洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは主イエスにもヨルダン川で洗礼をさずけました。その洗礼者ヨハネがどのように生まれたのか、その誕生以前の物語がマリアへの受胎告知の1ページ前に記されています。洗礼者ヨハネはイエスさまのちょうど半年前に誕生します。イエスさまと洗礼者ヨハネは母親同士が親戚関係ですから、同じ親族関係にありました。洗礼者ヨハネの父親は神殿の祭司を務めておりまして、その名前をザカリアといいます。そのザカリアの元へ、天使ガブリエルが洗礼者ヨハネの誕生を告げにやってくるのです。それが今日お読みしたマリアへの受胎告知の1ページ前に記される出来事です。その六か月目に、すなわち洗礼者ヨハネの父親であるザカリアのところに来たガブリエルが今度はマリアのところに来た、というのが今日の話です。

お時間のある時に、1章の部分をおさらいしていただくとよいと思うのですが、1章の時には、ザカリアとその妻エリサベトのことが丁寧に紹介をされています。そしてそのザカリアの元へとガブリエルがやってきた。ザカリアとその妻エリサベトの長年の願いを神は聞いておられて、あなた達の子どもが欲しいという願いは聞き入れられた、というのがガブリエルのはじめの言葉になります。一方で、本日お読みしたマリアへの受胎告知は、ザカリアのそれとはやや違います。勿論、この福音書を記したルカが、同じことを重複しないように簡略化して書いたのかもしれませんが、ガブリエルが祭司であるザカリアの元へやってきた、というのとは対照的に、このように始まります。「天使ガブリエルはナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」ガブリエルはガリラヤに来たのだ。そしてしばらくしてから、そのおとめの名前はマリアというのだ、と付け加えるように紹介するのです。1ページ前の、ザカリアとエリサベトのことを丁寧に紹介している文章と比べると、マリアの紹介というのはあまりにもあっさりしすぎています。ザカリアとエリサベトは子どもがいないという悩みから始まって、ザカリアが神殿でどんなことをしているのかという様子が事細かに記されています。ご丁寧に、天使ガブリエルが香壇の右に立った、という方向まで記されている。一方本日の箇所では、マリアがヨセフのいいなずけだったということと、その名前がマリアだった、ということだけ。勿論、人生の後半戦にさしかかっているザカリアに比べると若いマリアのことは紹介するものがこれといってない、ということなのかもしれませんが、「六か月目にガブリエルが来た」、すなわちザカリアへの告知とひとつのつながりのある物語として読むためには、マリアのどのあたりに注目したらよいのでしょうか。

手掛かりになるのはガリラヤという地名です。1ページ前では、ガブリエルがザカリアを目指してやってきたのに対して、本日の箇所では「天使ガブリエルはガリラヤの町に神から遣わされた。」と書いてあるのです。少し大胆なことを言わせていただくと、主イエスの母となるのはマリアでなくてもよかったのかもしれません。しかし、ガブリエルが訪れるのはガリラヤでなければならなかった。マリアがザカリアと同じエルサレムにいたら、このことは起きなかったのです。マリアはどうしてもガリラヤにいてもらわなければならなかった。何故なら、神はあえて「ガリラヤ」という町を選んでガブリエルを遣わしているのです。ガリラヤといいますと、みなさんがすぐに思い浮かべるのはイエスさまが伝道されたガリラヤ湖、湖のことだと思います。ペトロたちが漁師をしていたガリラヤ湖、またこの湖の上を歩いたり、湖のほとりでお話をされたり、福音書でたびたび出て参ります。本日の箇所で出てくるガリラヤというのは、ガリラヤ湖もそうですが、イスラエルの北側全体をあらわす呼び名です。少し歴史的なことを振り返ってみますと、この地域はアッシリアに占領されていた時期もありました。大きな道路が通っていて、交通の要所ということもあって、イエスさまの時代にも多くの異邦人が住んでいました。と申し上げると、何やら活気がありそうな雰囲気ですが、イスラエル全体から見ますと、外国に占領されたこともある、どちらかと言えば忌まわしい場所でもありました。この場所について、預言者イザヤはこのように語っています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの町、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。」(イザヤ8:23)同じ言葉がマタイ福音書にも記されています。イエスさまが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣教活動を始める箇所です。(マタイ4:15-16)

ゼブルンとナフタリというのは12部族の名前です。後ほど後ろの聖書地図をゆっくりご覧になるといいかと思いますが、ゼブルンとナフタリという二つの部族が住んでいたあたりが後のガリラヤ地方になります。預言者イザヤが語っているのは、ゼブルン、ナフタリの地、すなわち北イスラエルはアッシリアに侵略されて辱めを受けるけれども、後にガリラヤが栄光を受ける。ガリラヤに光が差し込むのだ、という預言です。そのガリラヤにガブリエルがやってきた、とルカ福音書は記すのです。イザヤの預言が成就するために、ガブリエルはどうしてもガリラヤに来なければならなかった。この文脈で申し上げると、マリアはどうしてもガリラヤにいてもらわなければならなかった、ということになります。先ほど、本日の箇所は「六か月目に」というつなぎ言葉で始まる、ということを申し上げました。そして、最初はザカリアの元へやってきたけれども、今日の箇所はマリアよりもガリラヤという土地を目指してガブリエルがやってきたのだ、ということを申し上げました。もう少しだけザカリアのお話におつきあいください。ザカリアのことは個人的に詳しく紹介されていて、ザカリア個人をめがけてガブリエルがやってきた、と先ほど申し上げました。ザカリアの何について詳しく記されているか、と言えば祭司の務めです。その妻エリサベトはアロン家の娘であったと紹介されています。アロンと言えばモーセの兄のアロンです。エジプトを脱出した後にイスラエル12部族の中で、モーセとアロンが属するレビ族が礼拝の務めを、すなわち祭司としての働きを担うようになります。祭司の務めの中でも、一番重要な部分をレビ族のアロンの家系の祭司たちが担っていくのです。アロンの家系はレビ族の中ではエリート中のエリート、祭司の家系としては俗っぽい言い方をするとトップクラスでした。ザカリアは、その祭司の中でもトップクラスの血筋をひくエリサベトを妻としていた。そして、ザカリアがどのような手順で祭司の務めをしていたか、どのように香をたいていたか、ということが丁寧に紹介されていきます。

ザカリアの話はもうこれぐらいにしたいと思います。私が何を申し上げたいのか、その輪郭をすでにみなさんはとらえておられると思います。つまり、ガブリエルが六か月前に来たのは、神殿の礼拝の真っ最中、最も神さまに近いと思われるところにやってきた。かたや、六か月目に来たのは異邦人のガリラヤとよばれるナザレの町。神さまから最も遠いと思われる場所にやってきた。こういうことじゃないでしょうか。神さまが救いのしらせを伝えるのは、この神を神とする礼拝のただ中であるのと同時に、世界の片隅の、およそキリスト教的でもなんでもない場所にも届けてくださる。神さまは善人にも、悪人にも雨を降らせてくださるお方ですから、神さまの福音が届かない場所は、この地上のどこにもないのだ、ということを、「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」という1行が教えています。少し先を急ぎます。ガブリエルから男の子誕生のしらせを聞いたマリアの言葉に注目したいと思います。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」このマリアの言葉から多くの人がマリアの人となりを思いめぐらしました。たくさんの画家がこの場面を描いています。うやうやしくガブリエルの言葉を聞くマリアであったり、驚いて身をひるがえすようなマリアであったり、私達も想像がふくらみます。

今回改めてこの言葉に注目してみたのですが、「どうしてそのようなことが」の「どうして」と記されている言葉は英語で言うと「何故、Why?」ではなく「どのように、How?」であることが分かりました。マリアはガブリエルに何故を問うているのではなくて、いかに、を問うている。どのようにそのことが起こるのか?どのように可能となるのか?マリアは何故私から子どもが生まれるのか、と問うているのではなくて、結婚もしていない私が一体どうやって子どもを産むことができるのか、とガブリエルに尋ねているのです。これは一歩踏み込んだ質問です。ガブリエルの告知に対して、どうしましょう、困ったわと逃げているのではなくて、むしろガブリエルの発言に食いついている。一体、そんなことが私の身にどうやってそれが起こるの?マリアの素朴な質問です。マリアの側に、この天使は本当かどうか怪しいから、質問をして試してやろうなどという意地悪な心はなかったと思います。ただ、純粋に、心に浮かんだ疑問を述べたのだと思います。しかし結果としてガブリエルは説明を求められました。どのように結婚もしていないおとめが男の子を授かることができるのか。それは聖霊の力によるものだ、と。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」マリアの質問に誘導される形で、ガブリエルの説明が続きます。この後エリサベトがすでに男の子を身ごもっていることを語りますけれども、もしかしたらこれはマリアが質問をしたからガブリエルが答えたのかもしれません。

「何故、そのようなことがおこるのか」ではなく、「いかに、そのようなことがおこるのか」というマリアの質問はガブリエルを動かしました。勿論、聞かれなくてもガブリエルは説明するつもりだったのかもしれませんが、この会話を見る限りではガブリエルの一方的な受胎告知をマリアがおとなしく聞く、という構図ではなくて、マリアとガブリエルの立場はほとんど対等のように見えます。これまで、無力でおとなしい少女という印象しかなかったマリアの姿が、分からないことを分からないままにしない、探求心が旺盛な積極的な女の子という姿に見えてくる気がします。次の言葉からも、マリアの人となりを知ることができます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」はしためというのは女性の奴隷という意味です。神に仕える女の人、という意味で使われています。今回改めてこの箇所を繰り返し読んでみた時に、「お言葉どおりに成りますように」ではなくて、「お言葉どおりに、この身に成りますように。」というのはどういうわけだろうか、と考えました。神さまのお考えになることが、或いはガブリエルが語った言葉が、「お言葉どおりに成りますように。」でも十分だと思うのですが、「この身に成りますように。」という言葉にはどんな思いが込められているのか。勿論、男の子が生まれると言われているのだから、産むのは自分しかいませんから、「無事に男の子が産まれるように」という願いを込めて言っているのかもしれません。原文を見てみますと、「わたしは主のはしためです。」の前に、頭の部分に注意を促すこと言葉が挿入されています。学校の先生が生徒に大事なことを言う時に、あるいは親が子どもに注意する時に、「いいですか、よく聞きなさい」と頭につける言葉。英語でしたら「Attention please」ですね。これから何か大事なことを言うぞ、という枕詞です。そのまま言葉にすると不自然なのですが、直訳をすると「見なさい」でしょうか。「見なさい、主のはしためを」ここにはガブリエルとマリアしかいないのです。そこでマリアはガブリエルにむかって「私を見なさい」と言うのです。「見なさい、私はこんな主のはしためなのです。しかし可能であるなら、あなたが語ったとおりのことがこの私に起こるように。」

先ほど、ガブリエルはガリラヤの町へ来たのだ、ということを申し上げました。異邦人のガリラヤと呼ばれる町に喜ばしいしらせを伝えるために来たのです。その知らせを聞いたマリアは「お言葉どおりこの身になりますように。」とこと答えました。ガリラヤの町に告げられた言葉を、自分への言葉として受け止めました。手をのばして、積極的に、前のめりになって神さまの恵みをつかみとろうとしました。神さまの救いのメッセージを、この私が受け止めましたよ、という神さまへの応答が、「お言葉どおりになりますように」ではなくて「お言葉どおりこの身になりますように。」という言葉になりました。これを聞いたガブリエルは彼女から去っていきます。聖書には天使は去って行った、としか記されていませんが、原文にははっきりと天使は彼女から去ったと記されています。くどいようですが、ガブリエルはガリラヤの町へやってきたのです。マリアのことはおまけのようにしか記されていなくて、ガブリエルはガリラヤに神から遣わされてきました。しかし、帰る時には、ガリラヤを離れたではなくて、彼女から去った。つまりガブリエルはマリアとの会話があり、コミュニケーションがあって、ガブリエルとマリアとの間には関わりの変化がありました。ガブリエルに変化をもたらしたのは、受け身の姿勢ではない、マリアの受け答えにありました。どのようにそのことが起こるのか、踏み込んだ質問がありました。お言葉どおりにこの身に成りますように、前のめりの発言もありました。おそらくガブリエルは、ガリラヤを目指してやってきた時とはだいぶ違う心持で、ザカリアから離れる時とはだいぶ異なる思いで帰っていったのではないかと思うのです。神さまがガブリエルに託した言葉、救いのしらせを、マリアがしっかりと受け止めた。「神さまの語られた言葉が、この私におこりますように。」そのマリアからの伝言を、マリアの祈りを携えて、ガブリエルは帰っていった。天使が去ったということは、神の出来事がマリアに委ねられた、ということです。この後、イエスさまが病人をいやしたり、たとえ話をする時にガブリエルがいちいち手伝いにくる、ということはないのです。ガブリエルがマリアの元を去ったということは、神の出来事が完全に人の手に委ねられたのです。

2025年のアドベントを迎えました。今日から一本ずつろうそくをともして、主イエスのご降誕を待ち望みます。マリアも私達と同じように、決して十分な備えでガブリエルを迎えたわけではありませんけれども、ガブリエルの告知から逃げることなく、疑問を投げかけ、まるで友人と語り合うかのように言葉を交わしあいました。私たちもまた、神さまが伝えてくださる救いの喜びから逃げずにいたいと思います。そして、この2000ページ近くある分厚い聖書に語られる福音が、他でもないこの私に向けられているのだ、ということを受け止めたいと思います。神さまの救いがお言葉どおりに成りますように、ではなくて。神さまの救いがお言葉どおり、この身に、成りますように。他人まかせにせずに、しっかりと自分の手をのばして、神さまが私達に与えてくださる恵みを受け取りたい。そのことを再確認するクリスマスをご一緒に迎えたいと思います。

<祈り>ご在天の父なる神さま。ガブリエルとマリアの物語に耳を傾けました。み言葉から逃げずにあなたに問う探求心を起こさせてください。クリスマスの出来事が、この私のためにおこったのだと信じさせてください。クリスマスの喜びに専念することができますように。そこから生まれる豊かな実りを、共に分かち合い、共に喜びあうことができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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