3月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、297.300.402.449.81.27です。
礼拝説教 使徒21:17~26「エルサレムに着いたパウロ」 2026.3.1
3月の第1の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように教会に集まり神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みが豊かなものとなりますようにと祈ります。最初に次の聖書の箇所を読ませていただきます。
1コリント9:19~23
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
以上の聖書の箇所の内容は、パウロの伝道方針ということができると思います。ユダヤ人にはユダヤ人のように、弱い人に対しては、弱い人のようになりました。すべての人に対してはすべての人のようになりました。何とかして、何人かでも福音を伝えるために、自分は何でもするといいます。その流れが、今日の聖書の中にはあります。
第3回伝道旅行を終えて、パウロはエルサレムにやって来ました。エルサレムにいる兄弟たちは喜んでパウロたちを迎えてくれたとあります。次の日に、パウロたちはエルサレム教会の指導者であるヤコブを訪ねるのです。そこにはエルサレム教会の長老たちが集まっていました。パウロは挨拶してから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを詳しく説明します。これを聞いて、教会の人々は皆、神を賛美します。ここではパウロに対するエルサレム教会の人々の誤解があることを伝えています。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人に間にいる全ユダヤ人に対して、子どもに割礼を施すな。慣習に従うなといって、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします」と、ヤコブがいいます。
初代教会には2つの流れがありました。ユダヤ人からキリスト者となったグループと異邦人からキリスト者となったグループです。私はこれまでエルサレム教会は飢饉や迫害があって、非常に困難な状況にあり、それを知ったパウロが異邦人伝道の際に、貧しいエルサレム教会のために献金を集めていたといいました。ここでは幾万人のユダヤ人が信者となって、皆熱心に律法を守っているとヤコブが伝えています。ここから当時のエルサレム教会は幾万人の信者がいたということになります。教会がユダヤ当局からの激しい迫害にあっても、これほどの人数がいたこと驚きであり、本当に困窮していたのかと思うくらいです。エルサレム教会に集っているユダヤ人キリスト者たちは熱心に律法を守っていたのです。
この問題は、使徒15章のエルサレム会議に戻っていきます。イエス・キリストの福音の伝道はもちろん、ユダヤ人からなされていきました。そして、異邦人へと伝えていくのです。そこで、異邦人はいかにして神の救いに預かることができるのかという問題が起り、エルサレム教会に集まって、会議をし、重要な決定をしていったのでした。それは、異邦人が救われてキリスト者となるためには、モーセの律法や割礼をどのように受け止めていのかというのが問題だったのです。その決定では、異邦人キリスト者は、偶像の備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉を、血を避けるようにという内容でした。ここでは、割礼や律法を守ることはなくなっています。これは、異邦人キリスト者の場合です。
使徒21章で、問題となっていることは、ユダヤ人キリスト者はどのように救われているかということです。やはり、割礼やモーセの律法は大切なものとして受け止められていたことが分かります。パウロは異邦人への伝道を進めて来たので、ヤコブがいっているユダヤ人キリスト者のパウロへの誤解は、正しいものでもあり、間違っているということもできるのです。ユダヤ人キリスト者からみれば、モーセの律法や割礼は大切なものと受け止められていました。しかし、異邦人キリスト者はそうではなかったのです。ユダヤ人と異邦人、文化の違いといってもいいでしょう。
パウロが伝えて来た異邦人伝道の方法は、ユダヤ人キリスト者には合わなかったということができるのです。そのユダヤ人キリスト者のパウロへの誤解を解くために、ヤコブはパウロにある提案をします。それは「だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」というものです。ヤコブがパウロの求めているものは、言葉だけはなくて行動そのものです。4人の請願者の彼らのための費用を出して欲しいという提案です。この請願というのはナジル人の請願です。民数記6章にナジル人の請願について詳しく書かれてあります。4人の請願者と一緒に神殿に行って、身を清めてもらい、4人のために頭をそる費用を出すことによって、パウロへの誤解が解けるといいます。そうすれば、パウロの聞かされていることも根も葉もなく、律法を守って正しい生活をしていることがみんなに分かるといいます。
ここでヤコブは異邦人キリスト者のためにも使徒15章で決められた内容を確認しています。ヤコブは「また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」といっています。そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げたのです。
エルサレム教会の指導者ヤコブの「子どもに割礼を施すな。慣習に従うな。モーセから離れるようなことをしている」という懸念について、パウロは、イエス・キリストの福音からすれば割礼も律法もいらないということもできたでしょう。そうすれば、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者は一緒になることはできないのです。パウロはそうはいないのです。共に歩む道を模索していきます。それが、パウロの言葉では。ユダヤ人にはユダヤ人のようになる。律法に支配されている人には、自分は律法には支配されていないのですが、律法を持っている人のようになるということです。すべての人々にイエス・キリストの福音を伝えるためには、パウロ自身何でもするといっています。このパウロの行動によって、神殿の境内にいる時に、アジア州から来たユダヤ人に見つかり、捕えられ、ローマ当局によって、命が守られて、囚人としてローマに行くことになっていきます。
パウロの伝道者としての姿勢は、イエス・キリストの歩みそのものでした。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)イエス・キリストは神の独り子でありながら、私たちと一緒になってくださいました。人間として歩まれ、人間の味わうすべての苦しみを味わい、最後は、十字架への死という道を進まれたのです。教会暦は今、イエス・キリストの受難の時を過ごしています。イエス・キリストの十字架の道を一緒に歩みながら、神の救いを受け止めていきたいと思います。
祈り 神よ、あなたのことを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロは、イエス・キリストの福音を多くの人々に伝えることに命をかけていました。そのために、できるだけ相手の立場に立とうとしています。相手を理解し、尊敬し、神の救いに預かって欲しいという強い願いがあります。ユダヤ人にはユダヤ人のように、弱い人には弱い人のように、イエス・キリストも同じでした。イエス・キリストこそ、十字架についてまで、私たち1人1人を深く愛してくださったのです。イエス・キリストの受難の時を過しています。イエス・キリストの受難の意味を今、深く理解することができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


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