2月11日の礼拝の内容です。

教会からのお知らせ

2月11日の礼拝の内容です。讃美歌は57.303.361.402.27です。

礼拝説教       使徒7:54~60「ステファノの祈り」     2024.2.11

 2月の第の2日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝するっことができますことを心から神に感謝します。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かになりますようにと祈ります。また。2月14日(水)の教会暦は灰の水曜日になります。イエス・キリストの受難を覚える受難節に入っていきます。今年のイースターは3月31日(日)になります。私たちはこの受難節の間に、イエス様の受けた苦しみを覚えながら歩んでいきたいと思います。

 使徒言行録を読んでいます。この使徒言行録は教会の最初の様子が描かれてあります。イエス様は十字架につけられて殺されました。墓に葬られて、3日後に復活してくださいました。復活されたイエス様は弟子たちと共に40日間過ごされたのです。その後、神のもとに帰られました。10日後、神のもとから聖霊が弟子たちのもとにくだりました。この聖霊を受けた弟子たちは、イエス・キリストの福音を理解することができ、福音を伝えていきました。多くの人々がこのイエス・キリストの福音を受け入れて、洗礼を受けて、教会に加わっていきました。最初の教会は目覚ましい成長を遂げるのです。その一方で、教会の活動に反対している人々もいました。ユダヤ教の指導者たちです。

 使徒言行録の6章では、教会の中で問題が起り、そのために7人の者が選ばれて問題の処置にあたるようになりました。その中のステファノが恵みと力に満ちて、素晴らしい業としるしを人々の間で行いました。その行動によって、ユダヤ教の指導者たちはステファノを逮捕し、最高法院に引いて行き訴えています。使徒言行録の7章は、その訴えに答えています。非常に長い説教となります。このステファノの説教は、神の導きによってイスラエルの人々へ祝福が語られています。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセとそれぞれの歩みを通して、いかに神がイスラエルの人々を愛してくださったのかを話しています。その一方で、説教の後半の方では、イスラエルの人々がいかに神に反抗して、罪を犯し続けて来たのかを指摘します。

 ステファノの説教は、聞いているユダヤ教の指導者たちに本当に厳しく罪を迫って来ます。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」「あなたがたはいつも聖霊に逆らっています」「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、1人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました」「そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです」などです。

 ここからが、今日の聖書の内容となります。今日の聖書の内容はステファノの殉教です。ステファノの説教を聞いたユダヤ教の指導者たちは、これを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりしています。激しく怒りと歯ぎしりとありますが、これは心をのこぎりで引かれるという意味だそうです。いかにユダヤ教の指導者たちが、その怒りをステファノに向けているのが分かります。今日の聖書の箇所では、ユダヤ教の指導者たちのステファノに対する激しい怒りと憎しみですか、それを見ることになります。ユダヤ教の指導者たちは、ステファノの指摘を、神に対する冒とくだと信じて疑っていないのです。神を冒とくする者は石で打ち殺さなければならないと律法に書いてあります。この後に、その石打ちの刑を執行します。神の正義のためにステファノに対する石打ちの刑です。ステファノの言葉が続きますが、ユダヤ教の指導者たちは聞きたくないとして、大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノめがけて一斉に襲い掛かり、エルサレムの外に引きずり出して石を投げ始めます。証人たちはとあります。ステファノの説教を聞いた人々でしょう。彼らは自分が来ている物をサウロという若者の足もとに置いて、石を投げつけます。ステファノはやがて眠りについたと書いています。

 ステファノの殉教の時に、ユダヤ教の指導者たちのステファノに対する激しい怒りを見てきました。その一方で、ステファノはどうだったのでしょう。ステファノは怒りに満ちているユダヤ教の指導者たちの顔を見ていないのです。ステファノは聖霊で満たされています。天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」といっています。

 細かいことですが、ステファノが天を見つめています。そこで神の栄光と神の右に立っているイエス様を見つめています。神の右に座っているイエス様ではなくて、立っておられるイエス様を見つめているのです。更に「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」といっています。天におられるイエス様が座っているのではなくて、立っているのです。きっとステファノの目にはイエスさが大きな手を広げて招いているのが見えているのでしょう。

 ステファノの石打ちの間に、ステファノは天におられて、神の右にあって大きな手を広げて立っておられるイエス様に呼びかけます。「主イエスよ。わたしの霊をお受けください」と。それからステファノはひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んでいます。こういってステファノは眠りにつく、つまり死んだということです。

 このステファノの殉教の場面ですが、これがイエス・キリストの信仰を持った者の殉教かと思いました。ステファノは教会の最初の殉教者ですが、この後も教会は多くの殉教者を出しています。おそらく、このようなイエス・キリストに対する信仰を持って、神のみもとに召されていったのでしょう。このステファノの祈りですが、イエス様が十字架上で祈られた内容とまったく同じであることが分かります。

ルカ23:34

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 このイエス様の祈りをステファノは最後の時に、同じように祈っています。ステファノはそのイエス・キリストに対する信仰によって、自分が罪人であり、イエス・キリストの十字架の祈りによって、罪が贖われたことと救われたことを知っていたのです。だから、自分も罪人であり、また自分を殺そうとしているユダヤ教の指導者たちも罪人であることを知っていました。だから、彼らの罪の赦しを祈ることができたのです。

 ここに初めてサウロの名前が出てきます。後のパウロです。ユダヤ教の指導者たちはステファノに石を拾い投げつけるために、自分たちの着ている物を脱いで、石を投げやすくしています。着ている物をサウロの足もとに置いています。サウロは、ステファノの殺害に賛成していたと書いています。サウロがステファノに石を投げつけたのかは分かりません。ただ、ステファノの殉教の様子を、その目で見ていたのです。このステファノの殉教の様子はサウロにとって、決して忘れることができない出来事になったはずです。ステファノの祈りがあって、サウロ、後のパウロの活躍があるのです。

 私たちはステファノの殉教の様子を見てきました。そのことを見ながら、自分の人生の最後を考えるのです。私たちはいつかこの地上の最後の時を迎える時がやって来ます。その時に、いろいろな苦しみがあるのでしょう。様々なことが起るのでしょう。想像することはとても困難なことですが、ステファノのようにありたいと願うのです。ステファノのように、私たちは聖霊に満たされて、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を見上げるのです。天が開くのです。そこにはイエス様が神の右に立って大きな手を広げて、私たちを招いてくださっています。そして、私たちは立っていて大きな手を広げて招いてくださるイエス様に「イエス様、わたしの霊をお受けください」というのです。

 私たちはこの地上に生きています。そして、いろいろな人生の歩みをしています。やがて、人生の終りの時を迎えます。私たちはいろいろな死を想像してしまいます。とても辛い場面を考えてしまいます。現実としてそのようなことは起るのでしょう。しかし、それだけではなくて、天を仰いで、神の右の座にあって座っているのではなくて、立って大きな手を広げて、「わが子よ。私のもとへ来なさい」と招いてくださることを、イエス・キリストの信仰によって、見ていくようになりたいと思います。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを見てきました。ステファノの殉教の様子をみてきました。ステファノの信仰を私たちも持ちたいと願います。神であるあなたを仰ぐこと、天を見上げること、天が開いて、神の右の座におられるイエス様が立って、大きな手を広げて、私たちを招いてくださることをみることができる信仰を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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