12月28日の礼拝の内容です。

礼拝

12月28日の礼拝の内容です。讃美歌は、259.261.263.247.39‣6です。

礼拝説教   ルカ2:15~20「主よ、憐れみたまえ」(小椋実央牧師) 2025.12.28

2025年最後の日曜日、そして降誕後第一主日を迎えました。あらためて、クリスマスおめでとうございます。お正月の足音が聞こえてきて、もうクリスマスどころではない、という方もおられるかもしれませんが、キリスト者である私達はこういう時こそ世間に流されずに、教会歴に固く立って、しぶとくクリスマスを楽しみたいと思います。毎月、特に事情がなければその月の最後の礼拝の説教を私が奉仕させていただくことになっています。イースター、ペンテコステ、クリスマスに近い時はその出来事にちなんだ箇所で、そうでない時は今年はエレミヤ書を、ご一緒に読んで参りました。ふだんは聖書の箇所を決めて、それにふさわしい賛美歌、交読文、礼拝招詞、そして週報に載せる説教題という順番に決めていくのですけれども、この12月の、1年に最後の礼拝だけは順番が逆転します。聖書ではなくて、賛美歌を選ぶところから始めます。何故賛美歌から選ぶのかといいますと、2025年のクリスマスに、歌いそびれたクリスマスの賛美歌があるかもしれない。今日歌った賛美歌のいくつかは聖夜礼拝でも歌いましたが、すべての方が聖夜礼拝にいらっしゃるわけではないので、あえて聖夜礼拝と重なっている賛美歌もあります。もろびとこぞりてなど有名な賛美歌を歌わないままに2025年のクリスマスが終わってしまった、ということにならないように、誰かにお願いされたわけでもないのですが、個人的に使命感に燃えて今日の賛美歌を選ばせていただきました。

通常教会歴では公現日まで、年明けまでクリスマスは続くのですけれども、どうも日本の文化にはなかなか根付かないところがありまして、聖夜礼拝が終わると、とたんに店じまいのように新年に向けて片付けたくなってしまうのが私達の現状です。しかし今日だけは、せめてこの礼拝だけは、せめてこの時間だけは、クリスマスの恵みをとことん味わっていただきたい。お料理に例えるなら、アドベント中はオードブル、クリスマス礼拝と聖夜礼拝あたりがお肉とお魚のメインディッシュで、今日はデザートとコーヒーぐらいになるのかもしれませんが、しかしクリスマスの余韻をしっかりと楽しんで、分かち合って、心に刻んで、新しい年2026年の良いスタートを切ることができればと思っています。

本日ご一緒に読みましたのは、羊飼いたちのクリスマス、後半部分です。「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」天使のお告げを聞いた羊飼いたちが、生まれたばかりのイエスさまを探しにでかけます。そして自分たちが見たこと、聞いたことを全てマリアとヨセフに語ってきかせました。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた。」今日、クリスマスの余韻を楽しもうとしている私達に与えられた聖書の一節はこのみ言葉です。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた。」ルカによる福音書2章19節の言葉です。個人的なことを申し上げると、私自身の信仰の歩みと共に、マリアに対する印象は変わってきました。まだ私自身が洗礼を受けて間もない頃、聖書を読み始めて日が浅い頃には、マリアというのは突然神の子を託されて人生を翻弄される、無力なか弱い少女という印象がありました。やがて自分自身が年を重ねて子どもを持つようになってから、母親という視点で見てみると、マリアというのはずいぶんと気が利かないぼんやりとした人だと思うようになりました。何故なら、生まれてすぐに羊飼いやら東方の学者たちやらがたずねてくるのですけれども、さして疑いもせずに招き入れている。時は住民登録でざわついている時ですから、強盗やら人さらいがいたっておかしくはありません。少し小難しいことを言えば、女性は出産した後40日間は汚れの期間にあるわけですから、人と会うことは避けるのが普通です。しかしそういうそぶりも全くない。もっとも、12~3歳の少女ですから自分の意志というのはほとんどなくて、周りの大人や男性に言われるがままに受け入れざるを得なかった、というのが現状でありましょう。しかし今回改めてマリアという人となりを考えてみた時に、私がこれまで思っていた以上に思慮深く、積極的な女性という印象を受けました。

ヒントになったのは「思い巡らす」という単語です。思い巡らすという日本語は、頭の中に思い描いているだけで何もしていない、という受動的な印象のある言葉ですが、議論をする、とも訳すことのできる言葉です。議論をすると言っても、羊飼いと議論したわけではありません。ここにはマリアの言葉は一言も記されていません。はたから見れば、ただ押し黙っているだけの、何もせずにぼんやりとした少女にしか見えなかったでしょう。しかし数か月前にガブリエルが来た時には、「いかにして未婚であるわたしが男の子を産むことができるのでしょう?」と堂々と質問をすることのできたマリアです。マリアは神と議論したのです。議論と言うと穏やかではない感じがしますが、要するに心の中で神に問い、言葉を交わしたのです。何故このようなことが私の身に起こるのか、そして神がそのようにしてくださる私とは一体何者なのか、と繰り返し問うたのです。神に対して、そして自分自身に対して。マリアはそれらすべてのことを心に納めます。日本語では心に納めるというと、いいことも悪いことも蓋をして我慢をする、なかったことにする、という意味もありますが、ここではそうではありません。ちょうど大切なものを保管するように、大事にしまっておく、という意味の言葉です。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた。」ガブリエルから聞いたこと、ヨセフと話し合ったこと、男の子が生れたこと、羊飼いたちの言葉、ありとあらゆることをマリアは心の中に大切にしまい込みました。

そして私達が時折大切な宝物を取り出して眺めるように、マリアは繰り返し心に納めたものを取り出して考え、神に問い、自らに問いかけることを常としたのです。このことは少年イエスが成長して12歳になった時に、両親は迷子になったと思っていたら神殿で見つかったという事件が起きた時にも、同じようにマリアは心に納めた、とあります。ルカによる福音書の2章の51節の言葉です。ある人は「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた。」というこの部分で、マリアはイエス・キリストを自らの生涯の中心に添えたのだ、と説明をしました。まだ結婚すらしていない幼い少女にそれほどの考えがあるのかどうか、私には定かではありませんが、しかし何かを心に刻んだことには違いありません。マリアの信仰の核になる部分がこの時しっかりと打ち立てられたのです。マリアは自らの身の上に起こる出来事に翻弄されるだけの無力な少女でもなければ、気の利かないぼんやりとした母親でもなく、あらゆることを熟慮して、投げやりにならずに根気よくこつこつと神との対話を重ねていくことのできる女性だったに違いありません。マリアがこの時何を心に刻んだのか、何を自分自身の核としたのか、もう少しだけ手掛かりを探し求めてみたいと思います。

冒頭で今日の礼拝は賛美歌を選ぶところから始まっているということをお話させていただきました。改めて今日の賛美歌を見てみますと、259いそぎ来たれ主にある民では来たりて拝め、もろびとこぞりてでは「いざ、むかえよ」迎えなさい。誰を?といえばイエスさまを迎えなさい、そしてほめたたえなさいと歌います。あらののはてにでは、「世界の民よ、喜び歌え」喜ばしいことだから歌いなさいと誘います。説教後の247「いまこそ声あげ」では、こちらも歌いなさい、と歌う。賛美歌の歌詞を部分的に取り上げると、拝みなさい、ほめたたえなさい、歌いなさいと、拝め、歌えとやけに命令口調が続きます。私自身はこれが慣れっこになってしまってなんとも思いませんけど、今日初めてこの賛美歌をご覧になる方がおられたら、「拝め」だの「歌え」だの、教会というのはずいぶん威圧的なところだなぁと思われるかもしれません。一見すると威圧的にすら思えるこの賛美歌を、しかし歌わなければならない理由が私達にはあるのです。「拝め」「歌え」と言わずにはおれなくなる理由があるのです。賛美歌の前の方、30から35までに「キリエ」と呼ばれる賛美歌があります。私達の礼拝で歌うことはほとんどありませんけれども、カトリック教会ではこれがはじまりの賛美歌、最初に「キリエ」を歌うのだそうです。

キリエは「キリエ・エレイソン」と続きます。ギリシャ語で「主よ、憐れんでください」という意味です。カトリック教会は長らくラテン語で礼拝を守ってきました。しかしこの「キリエ・エレイソン」だけはラテン語にはせずにギリシャ語の聖書に記される言葉のままで用いられてきました。「主よ、憐れんでください」という言葉は道端で病人が繰り返し主イエスに投げかける言葉です。例えば10人の思い皮膚病の人たちが、イエスさまから遠く離れた場所から「主よ、憐れんでください」と叫び声をあげます。イエスさまに近寄ったら汚れがうつってしまうから近づくことはせずに、しかし病気を治してほしい、救ってほしい、という願いを込めて大声で「主よ、憐れんでください」と叫ぶのです。他にも盲人や、子どもが病気の母親が「主よ、憐れんでください」と叫ぶのです。主イエスの癒しを信じて、憐みを願って、救いを求めて、「主よ、憐れんでください」と言うのです。

その同じ言葉を、カトリック教会では最初に歌います。「あなたは私達を憐れんでくださる素晴らしいお方です」とほめたたえて歌うのではなくて、盲人や重い皮膚病の患者になりきって、「主よ、憐れんでください」と2025年を生きる現代人が声をあわせて歌うのです。その理由は、私達はあなたから、神さまから憐みを受けなければいけない存在だ、ということを最初に告白するためです。私達は神の憐みによって生きています。神によらなければ一歩も立つことができません。光を見ることもできません。神に装って頂かなければ醜い姿のままであり、神の助けがなければ人間関係をこじらせて共同体の中で生きることもできないのです。それなのに最も忘れてはならない神さまの部分をいとも簡単に切り捨ててしまうのです。ですから、「主よ、憐れんでください」と神さまにお願いするのと同時に、自分自身にも「私は神さまの憐みがなければ生きることのできない存在なのだ」ということを繰り返し言って聞かせる必要があるのです。「主よ、憐れんでください」というのは正確に言うとお願いです。いつも私達が祈るお祈りを思い出していたけると良いかと思いますが、お祈りの基本はまず最初に神さまに呼びかけて、次にほめたたえて、その次にお願いごとを言うと習った方は多いと思いますし、そのように祈る方が多いと思います。しかしカトリック教会の礼拝の最初の歌が、賛美の歌ではなくてお願いごとから始まる、というのは面白いと思いました。最も、歌う方は毎回お願い事をしているつもりはなくて、主は必ず救ってくださる方だという確信があるから「憐れんでください」と歌うことができる。

「主よ、憐れんでください」というお願いの言葉が、しかし同時に「神さまは必ず私達を救ってくださる」という神さまをほめたたえる言葉になっている。神さまのとの信頼関係の中で、いつも私達の願いに耳を傾けてくださる主イエスをほめたたえる歌が「キリエ・エレイソン」という賛美歌なのだそうです。マリアが羊飼いたちの突然の訪問の後に心に刻んだことのひとつはこれではなかったかと思います。「主よ、憐みたまえ」神さまが自分という人間にどれほど憐みを与えようとしてくださっているか。自分がどれほど憐みを受けなければならない存在であるか。マリアはこの夜の出来事を何度も思い起こし、心の宝箱から繰り返し出しては眺め、自らに言い聞かせるように、そして神に訴えかけるように、「主よ、憐みたまえ」と歌い続けたに違いありません。だとするならば私達も、自らに言い聞かせるように、「拝みなさい」「歌いなさい」とクリスマスの賛美歌を歌うのです。主の憐みなくして私達が生きることは決してできないのだということを忘れないために。そしてベツレヘムの片隅で産声をあげた幼子イエスさまが必ず私達を救ってくださるということを自らに繰り返し言い聞かせるように、何度も、何度も賛美歌を歌うのです。そして私達だけでなく私達の隣人をも救おうとなさっている主イエスのみわざを信じて、2025年のクリスマスを祝いたいと思います。

<祈り>天の父なる神さま。2025年の最後の主日の礼拝に、心ひとつとして礼拝にあずかることのできます幸いを心から感謝いたします。「主よ、憐みたまえ」この短くて、しかし壮大な祈りの言葉をマリアと共に歌わせてください。あなたの憐み深さをもっとよく知り、そしてあなたの前に膝まづいて憐みを乞い願う慎み深さをこの礼拝堂に満たしてください。この願いと感謝を主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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