5月22日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、197(1)405(1)です。5月29日に竣工式を予定しています。

礼拝説教      マタイ24:29~31「天からのしるし」     2022.5.22

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉をいただき、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。

 テレビや新聞で、ウクライナ情勢が伝わってきます。戦争の悲しさが伝わってきます。そして、見ているだけで何もできないことに無力感を感じています。今の日本は平和なのでしょうか。それは戦争が起こっていないということです。私は戦争を経験したことはありませんので、戦争の現実を知りません。テレビやインターネットで、ウクライナの戦争の様子をリアルタイムで見ていますが、一方で、どこか遠い所での出来事と思ってしまいます。

 マタイによる福音書を読んでいます。イエス様がエルサレムに入られました。律法学者やファリサイ派の人々と激しい論争がありました。そして、エルサレムを出て行こうとされました。ふと振り返ると、エルサレムの神殿が目に入って来たのです。弟子の一人がイエス様にいいました。「何と素晴らしいのでしょう。」と。すると、イエス様はすぐに、エルサレムの神殿にこれから起こることを話されたのです。それは、神殿の破壊のことです。すると、弟子たちは、イエス様に、世の終りについてどのようなことが起るのかを聞いています。偽預言者が現れること、戦争が起こること、飢饉や地震が起こること、教会のへの迫害が起ることなどを話しています。そして、弟子たちに最後まで耐え忍ぶことを求めています。

 それから大きな苦難が来ることを教えています。マタイによる福音書を読んでいる人々が、このイエス様の言葉をどのように受け止めたのでしょうか。意識されたのは、70年に起ったローマ帝国に対するイスラエルの人々の戦争です。ユダヤ戦争といわれています。何年かに渡る戦争になりました。この戦争で、イスラエルの人々の多くが厳しい状況になってしまいました。10万人が捕虜になり、110万人が戦死したといわれています。ローマ軍は兵糧攻めを行いましたので、イスラエルの人々は飢餓に苦しむことになりました。その飢餓の厳しさの中で、母親が自分の子どもを食べたといわれています。イエス様は弟子たちに対して、このような危機が迫ったら、山に逃げなさいといい、それをキリスト者は従って助かったということでした。

 マタイによる福音書の24~25章は、小黙示録といわれているものです。この世の終りのことが、イエス様によって語られています。この流れを知るために、教会とローマ帝国の関係について知る必要があります。イエス様の時代、また使徒パウロの時代は、ローマ帝国は教会に対して、とても好意的だったと思います。特に、パウロは、ローマの平和と呼ばれていた時代を背景にして、積極的なキリスト教の伝道を行うことができました。当時の世界を安全に自由に行動することができたといえます。時代が進んで、ネロ皇帝時代は、ローマの大火があり、その責任を、ネロはキリスト者の仕業だといい、迫害を受けました。でも、それは限定的だったということができます。

 ローマ皇帝による教会の迫害が本格的になるのは81~96年にかけて、ローマ皇帝ドミティアヌスの時でした。このローマ皇帝は、自分自身を神と呼び、皇帝の像をつくり、人々に皇帝礼拝を求めたのです。それは政治的なものだったといわれています。年に一度、ローマ皇帝の像に頭をさげれば、それでよかったというのです。だから、ローマ皇帝に対する信仰はなくても形だけの行動をすれば、それですんだといえるでしょう。しかし、教会は、キリスト者は、真の神は、天地をつくられた方のみである。私たちは、ローマ皇帝を礼拝することはできないとしました。それで、ローマ帝国は教会に対して、キリスト者に対して、徹底的な大迫害を行ったのです。

 キリスト者は、ローマ皇帝の像の前で、拝むか拝まないかの選択を求められました。拝むならば、その場で解放されたでしょう。拝まないとすれば、その時には処刑されるのです。また、激しい拷問などがあり、拝むように強要されました。迫害の激しさの中で、多くのキリスト者が殉教していったといわれています。新約聖書の最後あるヨハネの黙示録は、そのようなローマ皇帝による教会への大迫害を背景として書かれてあります。特別な時だったということができるのでしょうか。

 キリスト者にとって、このヨハネの黙示録の時代には、信仰を守り抜くためには、死を覚悟することになりました。この世における喜びや希望をすべて捨てて、神の国への希望を持つことだけがすべてになっていきました。イエス様が、今日の聖書の箇所でいわれていることも、このような迫害下になる教会のキリスト者を考えて、いわれているのです。大きな苦難がやってきます。70年に起ったローマ軍によるイスラエルの人々の戦争、そこで起った悲劇を背景にしています。そして、ローマ皇帝礼拝をめぐる迫害下にあって、いかに神への信仰を保っていくことができるかが大きな課題でした。

 そのために、イエス様は教会に、キリスト者に、その苦難の日々が終ることを告げます。それはこの世の終わりのことです。マタイは独特な黙示的な表現を使っています。「その苦難の日々の後、たちまち、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」と。その時に、人の子のしるしが天に現れるといいます。そして、地上のすべての人々は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

 この世の終りが来る。それは、地上のすべての民族は悲しみます。それは、神の裁きを受けることになるからです。しかし、一方で教会にとっては、キリスト者にとっては、救いの到来です。人の子は大きなラッパの音を合図に、その天使たちが遣わされます。天使たちは、天の果てから果てまで、人の子によって選ばれた人たちを四方から呼び集めます。この世が終ること、人の子であるイエス・キリストの再臨を告げるのです。そして、神によって、新しい神の国が創造されて、キリスト者を招いてくださるのです。

 昨日は、1人の兄弟の1年の記念会を教会で行いました。人がこの世に命を与えられて生きていきます。そして、神に召されて、その地上の生涯を閉じます。生きることと死ぬこと、それは、私たちの人生そのものです。この世の命が限られていることを、人の死は改めて教えてくれます。あの人は神に召されていった。やがて、自分も神のもとへ召される時がやって来る。そのようにして、私たちの人間の歩みは繰り返されてきました。時の流れは、早く過ぎていきます。二度と戻って来ることはありません。その時、その時を、その一瞬をその一瞬を、私たちは生きています。その人生の歩みをしています。

 イエス様が語られたこの世の終りについて、私たちが住む世界の終りを告げています。世界全体をどのように考えるのかということになります。神が、この世界をつくり、この世界を閉じていく。神によって始まって、神によって終っていくのです。それは、私たち1人1人の人生についてもいえることです。あなたのこの世の時間が始まり、この世の時間が終っていくのです。私のこの世の時間が始まり、この世の時間が終っていきます。私たちは信仰者の視点で、そのこの世の終りと、それぞれの人生の終りを考えます。

 いえることは、私たちの人生がいつか終ること、そして、この世界もいつか終るということです。そして、その先に、人の子のしるしが現れるのです。人の子は大いなる力と栄光を帯びて、天の雲によって来るのを私たちは見るのです。そして、私たちは天使たちに呼び集められて、人の子のもとに集まるのです。そして、人の子と共に、私たち信仰者は、神が新しくつくってくださった神の国へ入るのです。神の国、または天の国において、神と共に新しい命を持って、歩んでいくのです。私たちは、そのイエス・キリストの再臨を信じて、この世の歩みをしていきます。この世界の先にあるものをしっかりと神への信仰と希望を持って歩んでいきましょう。

祈り 神よ。あなたのことを礼拝することができましたことを、心から感謝します。この世の終りと、その先にある世界をしっかりと信仰の目を持って歩むことができますように、導いてください。この世の希望ではなく、永遠に変わることのない世界を持ち続けて、地上の生涯を歩んで生き、地上の時を終えることができますように、導いてください。これらのすべての願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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