1月1日の礼拝の内容です。

landscape photograph of skies 礼拝
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1月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.58.368.467.26です。

礼拝説教         イザヤ43:8~20「私たちの神」     2026.1.1

 新しい年が始まりました。2026年は私たちにとってどのような年となるのでしょうか。期待もありますが、それよりも不安の方が大きいと感じています。皆さんにとって2025年はどのような年だったのでしょうか。それぞれの思いがあると思います。私にとってとても早い1年でした。気づかないうちに終りという思いだったのです。

先日のことですが、ある出来事がありました。今週の月曜日、12月29日ですね。毎年、12月28日から1月3日まで、越冬炊き出しが行われているのです。私は毎年、この時だけ炊き出しに参加しています。12月29日は、聖公会の方々の担当でした。私は教団の愛知西地区ですが、勝手にお手伝いに行かせていただきました。夜の7時から、名古屋教会の近くの公園で炊き出しが始まるのです。いつもはごはんやおかずの盛り付けを担当しているのですが、今回はマイクを使って、並んでいる方を5名づつ呼ぶ係を担当しました。今まではそれほど気が付いていなかったのですが、並んでいる方の表情とか見て、どのような生活をされているのだろうと思ったのです。何も知らない私が勝手に想像してしまうのはいけないと思いつつ、実際に大変な生活をなさっているのだろうと思うのです。

また、聖公会の方々の担当といいましたが、カトリック布池教会の隣にある福信館で炊き出しの準備をするのですが、13時30分から野菜などの刻みなどを行い、16時からは煮込みをします。18時に出発して現地に向かうという流れです。20名ぐらいで準備をしていきました。その中で炊き出しの責任を持っている方がいるのですが、高齢の女性の方で、足が不自由で、杖をつきながら作業をなさっているのです。私は13時20分ぐらいに福信館に行きましたが、その方はもう来て準備をされていました。刻み、煮込み、配食とずっとされているのです。終ったのは夜の8時過ぎです。すごいなあと勝手に思ってしまいました。困っている方のために努力をされている素晴らしいことだなあと1人感じて帰って来ました。ふと、自分のことを振り返ると、自分のことを中心に考えています。炊き出しのことから、隣人への関心をもっと持つ必要が自分にはあるなあと感じたのです。人が生きることは様々なことを経験しながら生きていくことになります。1人1人違う歩みです。人が味わういろいろな苦しみはどのような意味があるのでしょうか。

今日は、元旦礼拝にあたってイザヤ書を選びました。イザヤ書43章ですから第2イザヤの部分になります。第2イザヤは、イスラエルの人々の歩みの中で、最も厳しい中で活躍しました。いわゆるバビロン捕囚といわれるものです。今のイスラエルの地は、イスラエルの人々にとって約束の地、自分たちに神から与えられた特別な地として考えられていました。イスラエルの人々は神から選ばれた民として、永遠にこの約束の地に住むものだと信じていたのです。それが、バビロニアが攻めて来て、イスラエルは敗北してしまいます。エルサレムや神殿は破壊され、燃やされます。役に立つと思われた人々は、奴隷として遠くバビロニアの都バビロンに連れて行かれるのです。イスラエルの人々にとって、神から見捨てられたと感じる出来事でした。

イスラエルの人々は、その歩みの中で、神に選ばれた民として歩んでいました。神の民として歩みということは神に与えられた律法を守ることを意味していました。神の前で正しく生きることを求められていくのです。神の教えである律法を完全に守ることが求められていました。しかし、イスラエルの人々は律法を守ることができず、繰り返し神に背いてばかりでした。神の民としてふさわしい歩みをすることができなかったのです。その結果として、神の裁きが下されました。それがバビロニアによる裁きでした。イスラエルにバビロニアが攻めて来て、敗北していくのですが、それが神の裁きであるとイザヤ書は語っているのです。第2イザヤは、バビロンの地に奴隷として生きているイスラエルの人々に向けて、神の言葉を語っていきます。そこで語られている内容は、神の憐れみや救いのことがいわれています。

イザヤ43:8~9

引き出せ、目があっても、見えぬ民を、耳があっても、聞こえぬ民を。国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ、初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し、聞く者に、そのとおりだ、と言わせうる者があろうか。

 イスラエルの人々に、神はもう一度、自分が神であることを語ろうとしています。目が合っても見えぬ民を、耳があっても聞こえぬ民を、引き出せというのです。約束の地に住んでいた時には、神のことを聞くことができなかったけれど、バビロンの地では、神のことを聞くことができるというのです。バビロン捕囚という厳しく悲しい経験をした時に初めて、イスラエルの人々は、神のことを求めることができるようになる。神の言葉を聞くことができるようになるというのです。

イザヤ43:10~12

わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう。わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え、あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と主は言われる。わたしは神。

 第2イザヤは語ります。神の証人はあなたたちだ。神が選んだ神の僕だ。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するだろうと。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はいない。わたしは予め告げた。救いを与え、イスラエルの人々に、ほかに神がいないことを知らせた。あなたがたがわたしの証人だといわれるのです。イスラエルの人々にとって、かつてあった出エジプトの出来事がありました。「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方」(イザヤ43:16~17)この葦の海の奇跡は、神がイスラエルのために出エジプトの時に起した奇跡で、神の民であると意識を大きくしたものでした。

 更に、神は新しいことを行うというのです。「わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(イザヤ43:19)バビロンからエルサレムまで、今度、神は荒れ野に道を引き、砂漠に大河を流れされるというのです。バビロンの地に補修としているイスラエルの人々に、再び、故郷エルサレムに帰還することができるという希望を語っています。それはやがて実現していくのです。

 新しい年に入っていきました。2026年はどのような年になっていくのでしょうか。最初にいいましたが、期待よりも不安が大きいと。このように感じる方は多いのではないかと思います。老いていくこと、病の中にあること、いろいろな不安が私たちの周りには満ちています。そのような中で新しい年を生きていく希望はどこにあるのでしょうか。イザヤ書43章を読みました。ここではイスラエルの人々が経験した辛い体験がもとになっています。その辛い経験を通して、神を知るということを教えていただきました。このような辛い経験をしなければ神との出会いをすることができないということも、そうでありましょう。できればそのような辛い経験はしたくないというのが私たちの正直な思いだと思います。自分もそうです。このイザヤ書43章が、私たちに伝えたいことは、神を知るということです。私たちの神を知るということです。それがすべてです。

 私たちがどのような歩みをする時でも、辛い歩みの中にあっても、神は私たちの神なのです。神を知ることによって、本当の平安を得ることができるようになるのです。慰めと希望、生きる勇気を神から与えられていくのです。私たちは神と更に深い交わりをしていきたいと思います。神の言葉によって、私たちは新しい年を生きていく希望と勇気を持つことができるようになっていきます。

祈り 神よ。新しい年が始まりました。その日に、このように皆様と一緒に神を礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたは私たちの神です。また、私の神でもあります。あなたとの出会い、そして、イエス・キリストの出会いは深めて、新しい年の歩みの前に、生きていく希望と勇気を持つことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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