8月29日の礼拝の内容です。

clear blue shore 礼拝
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讃美歌は357(1)390(1)です。礼拝後に約10分間の建築の説明会を行います。

礼拝説教  ネヘミヤ記13:19~22「神の建築者たち」(小椋実央牧師)  2021.8.29

ネヘミヤは目を上げました。ネヘミヤの瞳にうつっているのは、エルサレムの城壁です。驚くような仕方で城壁再建の道が開かれ、心血を注いだ城壁工事でした。奉献式の、あの喜びの日を一日たりとも忘れたことはありません。しかしネヘミヤが見ているのは、目の前にある都ではありません。ネヘミヤが見ているのは、天上の都、永遠の都です。やがて来るべきお方を、ネヘミヤは待ち望んでいるのです。ネヘミヤ記の13章。この13章をもってネヘミヤ記がとじられます。エルサレム城壁再建のためにネヘミヤが起こされました。数々の妨害にあいながらみなで力をあわせてきた。そして前回お読みした12章では、この城壁工事に携わった多くの人たちによって奉献式が行われます。喜びの声が、エルサレムばかりか、城壁を超え、野山をかけめぐって遠くまで響いていきます。12章で終わってくれていたら。ネヘミヤ記が12章で筆を置かれていたら。ネヘミヤの功績をたたえ、神の都エルサレムの美しい再建物語であったことと思います。もしできることなら、この13章は誰も読みたくはなかった。誰も知りたくなかった出来事です。後味の悪い13章。この13章をもってネヘミヤ記は閉じられるのです。いや、この13章が記されていなければ、ネヘミヤ記は終えることができないのです。

数年ぶりにネヘミヤはエルサレムにやってきました。城壁工事が終了した後、ネヘミヤはペルシャに戻り、通常の務めに戻っていたのです。王の献酌官として、ペルシャの王のもとに戻っていたのです。そして数年の後に、ネヘミヤはエルサレムにやってきました。ネヘミヤの目の前に広がっているのは、いつもと変わらない光景です。エルサレムの城壁、そこを行きかう人々。笑顔が広がっています。バビロン捕囚の後、そしてあの奉献式の後、人々の暮らしは豊かになりました。かつてこの場所で戦争が起きたことなど嘘のようです。しかし、少し目を凝らしてみると、ここがエルサレムのようであって、実はエルサレムの真似事をしている町でしかないことがわかります。神殿はあります。しかし神をほめ称える歌声は聞こえてきません。城壁はそびえたっています。しかしその前を歩く人々の言葉はモアブの言葉であり、アシュドドの言葉です。神がいないのです。いや、神がいないのではない。神はおられるのです。しかし、あたかも神がおられないかのようにエルサレムの人たちは振舞っているのです。そこに神がおられるのに、人々は神を無視して、足蹴にして、神を踏みにじって生活しているのです。神はじっと忍耐しておられるのです。

13章の冒頭に記されるのは、祭司エルヤシブの背信行為です。祭司エルヤシブ、ネヘミヤ記3章によれば、神の都再建工事に真っ先に名前が記されている人物です。ネヘミヤの側近中の側近、ネヘミヤの右腕といってもよい人物です。この祭司エルヤシブがしたことは何か。それは神の領域を侵した、ということです。神殿、礼拝のための祭具、祭司、レビ人。これらの物や人はすべて聖別されています。聖なるものとして日常からは分かたれている。このことの起源は、天地創造の出来事までさかのぼります。聖書の一番はじめ、創世記の最初に記されていること。天地をお造りになった神が、7日目に仕事を離れ、安息なさった。七日目を聖別された。聖別するとは、分ける、ということです。ただ単に安息日は金曜の次の日、日曜の前の日、ということではない。他の6日間とは全く異なる日。6日から切り離され、区別された日、それが安息日です。祭司エルヤシブがしたことは、この聖別をないがしろにした、ということです。神がお別けになったものを、ないがしろにした。礼拝のために聖別された部屋、礼拝のために聖別された道具は、礼拝のため以外に用いられてはならないのです。エルヤシブは、礼拝のために用いられるはずの部屋をトビヤのために流用しました。トビヤといえば、かつてネヘミヤが城壁工事をしている時に妨害した人物です。誹謗中傷だけでなく、武器を片手に工事現場の人たちをおびやかしました。祭司エルヤシブはネヘミヤの元で忠実に働きながら、敵であるトビヤとも内通していました。ネヘミヤは最も信頼していた右腕であるエルヤシブに裏切られたのです。しかしこのことが問題なのではありません。エルヤシブの裏切りなど、ネヘミヤにとってたいした問題ではなかった。問題なのは、礼拝のために用いられるはずのものが礼拝以外のために流用されていた。このことが深刻な問題なのです。

聖なるものが、聖とされていなかった。そのことは瞬く間にエルサレムを崩壊させます。人々は10分の1の献げ物をささげものをしなくなります。また献げたとしても適切な管理がなされていない。そのために、レビ人の生活がままならなくなります。そのことが10節以下に記されています。彼らは飢えを満たすために畑に出ざるを得なくなります。そうなると起こることは何か。礼拝が成り立たなくなります。奉仕をする人がいないからです。そして礼拝が守られない町で何が起こったか。瞬く間に外国から人々がやってきて、安息日に商売を始めます。そして外国人との結婚が起こり、外国の宗教があっという間に広まっていきます。一つのぼたんの掛け間違いが、エルサレムの町全体を狂わせていくのです。

ネヘミヤは速やかに改革を始めました。しかも小さなところから始めるのではなくて、真っ先に中心に切り込みました。かつての右腕、信仰の友であり尊敬するべき祭司エルヤシブを改革の中心に据えます。容赦しません。かつての仲間だからといって大目に見る、ということはありません。話し合って、穏便に解決する、ということをネヘミヤはいたしません。この態度は、13章全てに渡って一貫しています。ネヘミヤの改革は祭司室を再び清めることからはじまって、献げ物の管理人の任命、安息日の順守、婚姻関係の順守と続きます。今日お読みいただいたのは、安息日の順守の部分です。ひとつの改革が終わると、ネヘミヤの祈りが記されます。わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください。祈りと共に、祈りに押し出されるようにネヘミヤの改革が進められていたことがわかります。

その後のネヘミヤの生活は、穏やかな老後ではなかったことが想像されます。ネヘミヤはねたまれ、陰口をたたかれたと思います。ネヘミヤのしたことといえば家族を引き裂いて、エルサレムに亀裂をもたらしたからです。なごやかな風景はなくなりました。城壁のそばをはしりまわる子供たちはいなくなりました。にぎやかな市場はなくなりました。外国人はことごとくエルサレムから追い出されたからです。ネヘミヤは誰にも感謝をされず、相手にもされず、孤独に生きていくことでしょう。彼がこの厳しい改革に着手したのは、冷たいからではありません。神に従順であるがゆえに、自らのことを省みなかった。自らの名声や、今後のことを省みなったがゆえに、大胆な改革にふみきることができたのです。

ネヘミヤはわかっていたと思います。13章に記される自らの改革が不十分であったことを。ネヘミヤがいなくなれば、ただちに人々は神殿をおろそかにし、献げ物をごまかすようになるということを。礼拝がおろそかになり、瞬く間に安息日に様々なものを持ち込まれるようになるということを、ネヘミヤはわかっていたと思います。しかしネヘミヤは改革の手をとめませんでした。そして改革が不十分のまま、ネヘミヤ記は閉じられるのです。ネヘミヤの祈り、わたしを御心に留めてください、わたしを忘れないでください。この祈りによって閉じられるのです。もしネヘミヤ記が12章で終わっていたとしたら。ネヘミヤの美談、成功で終わっていたとしたら。何故、キリストは天のすまいを離れて地上に降りなければならなかったのでしょうか。ネヘミヤの改革で人々が完成されるのだとしたら。何故、キリストはあのようなみじめな形で十字架につかなければならなかったのでしょうか。ネヘミヤ記13章が記されるのは、この不完全な、余分な付録とも言うような13章が示しているのは、終わりへの待望です。まことの神の都の建設は、イエス・キリストを待ち望まなければならなかった。キリストの待望と結びついているがために、ネヘミヤ記の13章が記されなければならなかったのです。ネヘミヤが休まず続けた改革、これを最終的に完成させてくださるお方はイエス・キリストであることを聖書は指し示し続けているのです。

「わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください。」神はネヘミヤを、ネヘミヤの祈りを忘れませんでした。エルサレムを忘れませんでした。ネヘミヤの死後、いや、ネヘミヤが生きている間にも、人々は罪を犯し続けました。礼拝を礼拝たらしめず、安息日を汚し続けました。それでも神はエルサレムをお忘れにならなかった。私たちが神を忘れていても、神は私たちをお見捨てにならなかったのです。このエルサレム。かつては神のものとされた人々が、繰り返し神を離れ、最も神に近い場所で神をないがしろにし続けた町。このエルサレムで主イエス・キリストは十字架にかかり、日曜日の朝、墓の中からおよみがえりになりました。神がまことの王、一回限りでない永遠の王をお与えになったのは、この罪深いエルサレムにおいてだったのです。私たちは、ネヘミヤの絶えざる改革の中を生きています。終わりのとき、キリストが再び来てくださるときに全てを完成させてくださる。私たちを永遠の都に引き上げてくださると信じているから、今日も、明日も、ネヘミヤと共に祈り、罪の中にとどまることをよしとせずに、終わりに向かって進んでいくのです。私たちの目の前には、地上のものしかうつりません。しかし私たちは、ネヘミヤと共に、天上の都を見上げます。やがて、そこからキリストがおいでになり、この絶えざる改革の完成を主イエス・キリストが成し遂げてくださるからです。そのときまで私たちは、ネヘミヤと共に祈り、ほめたたえの歌を、終わりのときまで祈り続け、歌い続けるのです。そのときこそわたしたちはついに、神の建築者としてネヘミヤと共に、名だたる信仰者たちと共に、そして先に召された愛する兄弟姉妹と共に、神の建築者たちとして神の国に名前を連ねることになるのです。

祈り 御在天の父なる神さま。ネヘミヤ記を読み終えました。1章から読み始めた時には、感染症におびえつつカメラやパソコンを駆使して礼拝を守る日が来ることなど、想像することもできませんでした。

しかしどのような方法ではあるにせよ、あなたが絶えざる恵みを注いでくださるがゆえに礼拝を守り続けることのできます幸いを感謝いたします。またこの短い期間に、愛する家族を御許に送らなければなりませんでした。現在工事が進んでおります会堂の完成を共に祝うことができなかったことは残念でなりませんが、神の建築者として、ネヘミヤと共に、私たちよりも先に名前が記されていることと信じます。どうぞ今、私たちの目を終わりの時にむけさせてください。偉大な主イエス・キリストの御力を信じさせてください。なかなか終わりの見えない感染症との戦い、アフガニスタンで自由を奪われている人々、幼い時から戦うことを強いられて学ぶことも病院へ行くこともままならない子供たち、どうぞあなたの御恵みと導きとが与えられ、速やかな解決が与えられますように。言葉には言い尽くせない、一人ひとりの心のうちにある祈りとあわせて、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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