4月21日の礼拝の内容です。

礼拝

4月21日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.361.457.402.88です。

礼拝説教      使徒8:32~40「ここに水があります」    2024.4.21

 4月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝を通して、私たち1人1人の歩みがよりよいものとなりますようにと願います。今日は、礼拝後に定期教会総会を開催します。教会の2023年の歩みのまとめと2024年度の新しい歩みについて話し合います。私たちの教会の歩みがより豊かなものとなりますようにと神に祈ります。

 礼拝では使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は初めての教会の歩みを書いています。聖霊を受けたイエス様の弟子たちが大きく変えられて、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。使徒言行録の最初に次のような言葉が書かれてあります。

使徒1:8

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 この聖書の言葉が、使徒言行録ではその通りに展開していきます。特にステファノの殉教によって、教会はユダヤ教の指導者から激しい迫害を受けるようになって行きました。エルサレムにいた多くのキリスト者はエルサレムを離れユダヤ、サマリア地方に逃げて行きます。逃げながら、各地でイエス様の福音を伝えていくのです。教会への迫害が、教会の伝道の発展につながっていっています。これも聖霊の導きでしょう。サマリア人への伝道はフィリポによってなされていきました。そして、次が1人のエチオピア人への伝道です。ここにこそ聖霊の働きがあります。聖霊はフィリポに命じます。「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と。その道は寂しい道であるとあります。フィリポは聖霊の言葉に従い、すぐに出かけて行きます。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官が、エルサレムに来ていて、帰る途中でした。

 先週も話しましたが、エルサレムからエチオピアまで1500㎞離れています。いくら馬車での移動とはいえ、大変な距離です。このエチオピア人の宦官のユダヤ教への信仰がいかに強いかを意味しています。このエチオピア人の宦官がいかにユダヤ教の信仰を持つようになったのかは分かりません。ユダヤ人ではなく、異邦人であるエチオピア人の宦官がユダヤ教に入ることはとても難しいことでした。でも、それ以上に、この宦官はユダヤ教を通して、神への信仰が強かったのでしょう。時はユダヤ教の祭りでした。そのためにエチオピアからエルサレムに来て、礼拝に来ていたのです。そして、エチオピアに帰る途中だったということです。宦官は馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたというのです。この時に、聖霊がフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」といいます。フィリポが走り寄ると宦官が預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえました。それで、フィリポが「読んでいることが分かりますか」と聞きますと、宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分るでしょう」といい、馬車に乗って側に座るようにフィリポに頼みます。宦官が朗読していた預言者イザヤの書は、イザヤ書53章7~8節です。次のように書かれてあります。

使徒8:32~33

「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。

卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

上の聖書の箇所の元になっているのが、

イザヤ53:7~8

苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。

 宦官はフィリポに「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこういっているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」と聞いています。そこで、フィリポは口を開いて、聖書の箇所から説きおこして、イエス様について福音を告げ知らせたのです。

 私は、この聖書の箇所を読んで、驚きました。新しい発見をした思いです。フィリポはイザヤ書53章とイエス様のことを結び付けています。それが私にとって驚きなのです。イザヤ書53章は、苦難の僕のことがいわれています。苦難の僕とは何でしょうか。今、祈祷会ではヨシュア記を読んでいます。まもなく終えようとしているのですが、先週は、ヨシュアの告別の言葉が内容でした。ヨシュアは、イスラエルの人々に繰り返し、神の教えである律法を守ることをいっています。ヨシュアの前の指導者であったモーセも同じようにいっています。神の民として生きるイスラエルの人々にとって、大切なことは約束の地で平和にそして幸福に生きるためには、神の教えを守ることにつきます。そして、イスラエルの人々に、神の教えを守ることによる祝福があり、それは、約束の地で平和で幸せに生きることができることを意味しています。豊かな収穫があり、家畜の子どももたくさん生まれていく、子どもたちもたくさん生まれてくる。平和に豊かに生活することができるのです。一方で、守らない場合には神の呪いが与えられるというのです。祝福とはまったく反対のことが起ります。実際にはイスラエルの人々は神の教えを守ることができず、様々な苦難を味わうことになっていきます。ここで苦難の僕の考えが出てきます。苦難の僕は、イスラエルの人々が味わう苦しみを代わりに負ってくださる存在です。

 イザヤ書53章に書かれてあるように、主の僕は、イスラエルの人々が味わうべき苦難をすべて身に負っていき、苦難の僕は、羊のように屠り場に引かれていきます。毛を刈る者の前で黙している小羊のようです。僕は卑しめられて、その裁きも行われていません。僕の命は地上から取り去られるからです。フィリポは、イザヤ書53章の苦難の僕は、イエス様ご自身であるといっています。これはまさしく、イエス・キリストの十字架を指しているというのです。聖書はイエス様について、次のようにいいました。

使徒2:23~24,36

このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

 フィリポの語るイエス様についての福音はエチオピア人の宦官の心にしっかりと入っていったのでしょう。道を進んで行くうちに、彼らは水のある場所に来ました。宦官は「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」といいます。そこで馬車を止めさせ、フィリポと宦官は2人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けました。彼らが水の中から上がると、聖霊がフィリポを連れ去りました。宦官はもはやフィリポの姿を見ませんでしたが、喜びにあふれて旅を続けていくのでした。フィリポはアゾトに姿を現し、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行きました。エチオピアに帰った宦官は、自国の人々に、イエス・キリストの福音を語っていったのでしょうか。そして、教会が誕生したのでしょうか。宦官のその後のことを聖書は書いていませんので、分かりませんが、おそらくそうだったと想像することができます。

 フィリポによるサマリア人への伝道、そしてエチオピア人の宦官への伝道、そして異邦人伝道者パウロの登場と使徒言行録は進んでいきます。聖霊の働きはとまることなく、その活動を続けていくのです。やがて、瀬戸永泉教会にも働きてくださり、この教会を通して、多くの人々に、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。それは、私たち1人1人を聖霊が用いてくださり、伝道してくださるということです。私たちは希望と信仰を持って、2024年度の歩みをスタートして行きましょう。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。フィリポのエチオピア人の宦官への伝道の様子を見てきました。ここには不思議な聖霊の導きがあります。苦難の僕は、イエス・キリストでした。私たちのすべての罪をイエス様は十字架で負ってくださっています。それはずっと前から約束されていたことでした。神の御心を知ると共に、神は私たちを用いてくださり、救いの御業を成し遂げてくださいます。私たちは喜んで仕える者となることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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