4月5日の礼拝の内容です。

body of water under blue sky 礼拝
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4月5日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.57.317.328.78.24です。

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礼拝説教     1コリント15:1~11「最も大切なこと」     2026.4.5

 イースターおめでとうございます。今日はイエス・キリストが十字架で死なれ、墓に葬られ、3日目に墓の中からよみがえられた日です。教会で、一番大切な日といってもいいでしょう。さて、イエス・キリストがよみがえられたこと、復活されたことの意味を考えていきたいと思います。

 私たちは1人1人、この世界に生を受けて、生きています。そして様々な思いを持って過ごしています。その私たちですが、最後には死を迎えることになります。生きている者は、すべて最後は死を迎えることになる。変わることのない現実です。自分の死が最後に待っていると思っていても、日々そのことを考えないで、避けて生きているといってもいいと思います。私は1週間に一度、木曜日の午後に愛知国際病院のホスピスでチャプレンの働きをしています。ホスピスに入院している患者さんと話し合うのですが、「私が死んだらどこに行くのですか。」「ガンでもう時間がないことは分かっています。ここで最後を迎えることになるのですが、死ぬことは怖いのです。」など、人生の最後に、自分の死の現実を突きつけられています。自分はまもなく、この場所で死んでいく。そのような不安を抱える人にどのように答えることができるのだろうかと日々格闘しています。

 ホスピスの現場で、自分の死を前にした人に、どのような言葉をかけたらいいのだろうかと本当に悩みます。できるだけ、本人の思いに耳を傾けます。聞くことを何よりも大切にしています。聞いただけで終わることもあります。実際には何をいう言葉が見つからなかったこともあります。キリスト教では、聖書では、次のように教えていますと話すこともあります。入院して来る多くの患者さんは、キリスト教と関りのない人です。そして、ホスピスで大切なことは次に話すことができると思わないでいることです。その日の会話が最後になることもよくあります。1週間に一度の働きですので、そのようになるのです。その日に話して、次の週に行ったら、すでに退院していたということもしばしばです。

 患者さんの死や、教会での働きの中での人の死、その葬儀の場面で、いろいろな場面があります。同じようなものはありません。その時に、自分がこの人だったら、いったいどう受け止めることができるのだろうと葬儀が終った後に、よく考えます。結論は出ません。そのまま終わってしまうのです。

 30年年以上前ですが、日本でエイズが流行したことがありました。その時に、私は埼玉の教会にいて、東京の清瀬にある病院のホスピス病棟でボランティア活動をしていました。また、東京の駒込にある病院でエイズ患者さんのための傾聴のボランティアをしていたことがありました。そのボランティアをする時の研修として、死の体験旅行というワークショップを受けたことがあります。少し暗い部屋で、10名ぐらいが集まり、20枚近くのカードを渡されて、そこに自分の大切な人や物などを書き込みのです。そして自分のライフワークを進んで行きます。若い時、年を重ねていきます。そして、その途中で病気になって、そして、入院や手術などを経験していく、そして、最後は死を迎えるのです。自分で書いたカードを1枚1枚手放していきます。最後に、残った大切なものを捨てます。そして、その時を迎えていくというものでした。30年以上も前なので、細かいことは忘れてしまいましたが、とても辛い思いをしたことを経験として残っています。

 私たちが死を向き合う時、何を支えとしていけばいいのでしょうか。それが今日の聖書の箇所です。パウロがコリント教会の人々に書いた手紙です。特に、15:3~5です。もう一度、読んでみましょう。

1コリント15:3~5

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 パウロはコリントの人々に伝えている内容は、パウロが考えたことではありません。パウロ自身も伝えられたことを受けたものです。ここには聖書の内容としてとても大切なことが書かれてあります。それは、イエス・キリストの福音そのものです。その内容を、キリストの教会は、そのまま伝えていくのです。内容を変えてはならないものです。そして、それは聖書に書いてあることです。イエス・キリストについてのことです。

 まず、第1に、イエス・キリストは聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死んでくださったのです。旧約聖書には、モーセによるシナイ契約というのがありました。それは、神はイスラエルの人々に十戒を中心とした律法を与えてくださいました。それは、イスラエルの人々が神の民として生きるためには、何よりもその神の律法を守ることが求められていました。イスラエルの人々は、神の律法を守ることによって、神か他の祝福を受けることができます。一方で、神の律法を破れば、神からの裁き、呪いを受けることになります。しかし、イスラエルの人々は、神の律法を守ることができないのです。神の裁きを受けることしかないのです。そこでは神の救いはありません。

 旧約聖書では、それだけでは終りません。ダビデ契約というのがあるのです。今、水曜日の祈祷会では旧約聖書のサムエル記下を学んでいますが、7章にその内容が書かれてあります。ダビデとその家、イスラエルには、どのような罪を犯してもその祝福は変わることがないというものです。ダビデ契約は、ダビデ、イスラエル、そして、すべての人々に関わってくる内容です。それは、神の子イエス・キリストを通して罪の赦しです。私たちが負うべき罪の裁きに、神の子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったということです。

 そのイエス・キリストは墓に葬られたのです。新約聖書の4つの福音書の最後の部分に、イエス・キリストの十字架の死と、イエス・キリストがアリマタヤのヨセフの墓に葬られたことが書かれてあります。確かに、神の子イエス・キリストは十字架につけられて死なれました。そして、墓に葬られたのです。

 そして、聖書に書いてあるとおりに、3日目の復活されたのです。イエス・キリストが葬られた墓は、その墓の前に置かれていた大きな石はどけられていました。墓の入り口は開けられたのです。そして、よみがえられたイエス・キリストはその復活の体で、弟子たちに現れてくださいました。そして、最後にパウロ自身にも現れてくださったのです。イエス・キリストは復活してくださった。墓の中からよみがえってくださった。そのことを聖書は、キリスト教は、教会は伝えて来ました。私たちの教会の使命は、ここにかかっています。聖書に書いてあるとおりに、イエス・キリストは私たちの罪のために死んでくださったこと、そして墓の葬られたこと、そして、3日目に墓の中から復活してくださったことです。イエス・キリストは聖書の中で、大切なことをいっています。

ヨハネ3:16~17

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネ11:25~26

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

ヨハネの黙示録21:3~4

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

ヨハネの黙示録22:20

「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。

 私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによってのみ、救われるのです。救われるというのは、私たちはこの世において、一度は死ぬことになります。その後に、イエス・キリストがこの世界に来ることになります。その時に、私たちはよみがえるのです。死ぬ体から復活の体に変えられます。そして、神の国に招かれて、神と共に永遠の命を与えられて生きることになるのです。

祈り 神よ。イースターのお祝いをすることができましたことを心から感謝します。イエス・キリストの十字架の死と復活の意味をもう一度、確認することができますように導いてください。あなたの救いを深く感謝して受け止め、希望と喜びを持って、生きることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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