聖夜礼拝の内容です。

礼拝

聖夜礼拝説教    ヨハネ1:6~14「すべての人を照らす光」    2023.12.24

初めに創世記1:1~3を読ませていただきます。

創世記1:1~3

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 私たちが住んでいる世界、その始まりはどのようなものだったのでしょうか。聖書によりますと、初めに神は天地を創造されたとあります。何よりも神が最初からいて、その神によって、この世界は創造されたとなっています。混沌とか、闇という言葉が出てきます。私なりに想像すると、真っ暗な夜のような世界でしょうか。何も見えない。何の存在もない、そのような状態を考えることができると思います。そして、神は言葉によって「光あれ」といわれます。すると光が出てきます。闇の中で光が出てきました。この創世記の最初とヨハネによる福音書の最初がよく似ていることに気づきます。

ヨハネ1:1~5

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 初めに神がいて、神には言葉があったのです。神はその言葉によって、天地のすべてを造られたのです。神の言葉には命がありました。その命は人間を照らす光でした。最初、この世界は闇が覆っていました。何も見えない、何も存在しないような世界でした。神の言葉によって、光が生まれ、闇の中に、その光は輝くようになりました。けれど闇は光を理解することができなかったとなっています。

 私たちが住む世界はどのように見えているのでしょうか。光輝く世界でしょうか。それとも闇の中にあって、何の希望を見い出すことができない世界でしょうか。今、世界を見渡しますと各地で紛争が起っています。テレビや新聞やインターネットの世界を通じて、今、世界で起っているリアルを見ることになります。その紛争の世界を、映像を見て、悲しくなります。どうして、人は戦争を起し、人同士が殺し合わなければならないのかと絶望な気持ちになります。人の攻撃によって、病院や学校が壊され、中にいる子どもたちや病人が死んでいく、どうしてこのような悲劇を、人は犯してしまうのか、どうして世界はその紛争を止めることができないのかと思う日々です。

 私たちの身近な世界でも、闇の部分があります。また、一方で光の部分もあります。私は今年の6月から愛知国際病院のホスピス病棟のチャプレンとして働くようになりました。毎週木曜日の午後の3時間だけですが、入院されている患者さんや患者さんの家族の方々と話すことをしています。私はスタッフミーテイングにも参加を許されています。このホスピス病棟で大切にしていることですが、入院されている患者さんやご家族の方々が限られた日々をいかに、自分らしくいい時間を過すことができるかということに尽きると思います。ホスピス病棟にはガン末期の方々が入院されています。現実問題として、人の死と向き合うことになります。本人の死、家族の死ということです。その意味では、闇の世界ということができるでしょう。でも、人の死の問題は、その人やご家族だけの問題ではなくて、私たちすべての問題です。私たち1人1人が、人の死、自分の死と向き合うことになります。死を避けることは誰にもできません。私たち人間には死が待っているということは闇の世界にいるということができるでしょう。

 ヨハネによる福音書に戻ります。神から遣わされた1人の人がいました。それがヨハネです。よく洗礼者ヨハネといわれています。ヨハネは証しするために来たのです。光について証しするためです。また、すべての人が光によって信じるようになるためです。ヨハネは光ではありませんでした。光について証しするために来たのです。

 その光は、まことの光です。私たちの世界に来て、すべての人を照らすのです。神の言葉はこの世界にありました。しかし、この世界はその言葉を認めませんでした。神の言葉は、自分の民のところに来ました。しかし、民は受け入れませんでした。しかし、神の言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えられるのです。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってではなく、神によって生まれたのです。言葉は肉となって、私たちの間に宿られました。私たちはその栄光を見たのです。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていました。

 ヨハネによる福音書は独特な言葉を使っています。このままではあまり理解することが難しいです。光というのはイエス・キリストのことをいっています。イエス様の誕生、クリスマスです。イエス様が誕生する前に洗礼者ヨハネという人が活動を始めました。ヨハネは人々に神のもとに帰るように伝えました。人はそれぞれ自分勝手な道を歩んでいました。その自分勝手な道ではなくて、神のもとに帰って、神と共に生きるようにと訴えたのです。そのヨハネは、イエス・キリストがまことの救い主であることを指示していくのです。イエス・キリスト、この方こそ、まことの救い主であるといいます。

 人は闇の中を歩んでいました。人は神によって造られたのですが、神から離れて、自分勝手な道を歩むようになりました。それが罪といい、罪の結果として、人に死が入って来たと聖書は語るのです。人が死を乗り越えるためには、その罪を神に赦してもらう必要があります。旧約聖書では、自分が犯した罪を自分で負うことはできませんでした。死ななければならないからです。そのために、神は別の道を用意してくだしました。それが、自分の罪を、身近な家畜、例えば、牛や羊やヤギなどに負わせて、罪を赦してもらうことができる道です。旧約聖書の神への礼拝は、このように自分の罪を家畜に負わせて、罪を贖うことを繰り返しやって来ました。家畜を使っての罪の贖いは罪を犯すごとにすることなりました。不完全なものだったのです。

 新約聖書に入って、まさしく光であるイエス・キリストがこの世界に来てくださいました。まさしくクリスマスの出来事です。イエス・キリストは神の子です。神のたった独り子です。イエス・キリストの使命は、十字架について死ぬことです。それは、家畜に代って罪を贖ったように、完全な罪の贖い、罪の赦しになっていくのです。イエス・キリストはやがて十字架につかれて死んでしまいました。でも、それが私たち人間の罪の赦しとなっていくのです。この十字架の死は、そのままでは終りませんでした。イエス・キリストは死んで、墓に葬られて、3日目に復活してくださったのです。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、告白し、洗礼を受けることによって、罪の赦し、新しい命、復活の命をいただくことができるのです。

ヨハネ3:16~17

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 イエス・キリストの誕生は、闇の中にいる私たちに完全な光となってくださいました。イエス・キリストは、私たちすべての人を照らす光そのものです。どうぞ、イエス・キリストと出会ってください。そうして、死を乗り越えるもの、罪の赦しと永遠の命を得て、本当の希望を持って歩んでいきましょう。

祈り 神様、クリスマスをありがとうございます。あなたは、本当の光を私たちに与えてくださいました。死という闇の中に歩んでいる私たちに、復活の命、永遠の命を与えてくださる、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることができ、死を前にしても、死を乗り越えることができる復活の信仰を与えてください。闇の中にいる私たちに本当の光を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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