12月31日の礼拝の内容です。

教会からのお知らせ

12月31日の礼拝の内容です。讃美歌は、259.263.247.262.26です。

礼拝説教    マタイ2:1~12「博士たちの旅」(小椋実央牧師)  2023.12.31

2023年、最後の主日を迎えました。過ぐる週には、御子イエス・キリストのご降誕を覚えて礼拝をささげました。暦の上では今日は一年の最後の日ではありますけれども、しかし御子イエス・キリストをお迎えして、私たちの新しい旅路が始まったばかりでもあります。私たちの1年の歩みはどのようなものだったのでしょうか。神さまは私たちの歩みをどのようにご覧になっておられたのでしょうか。そして新しい年、2024年の歩みは、誰と出会い、どんな言葉を語り、何を手に入れて、そして何を失うのでしょうか。願わくは平穏無事な人生であってほしいと思いつつも、将来のこと、世界情勢、自分自身の健康のこと、悩みはつきないものです。自分自身は何一つ問題を起こさずに生きているつもりであっても、家族や隣人から、問題が持ち込まれることもあります。

今日開かれた聖書箇所は、占星術の学者たちが訪れる、という小見出しのついた箇所です。クリスマスには羊飼いたちと並んでおなじみの箇所といってもいいかもしれません。御子イエス・キリストが生まれたというしらせを聞いて、はじめに貧しい羊飼いたちがやってきました。次にやってきたのが外国からやってきた学者たちです。この学者たちの旅路をひとつずつたどりながら、私たちも2024年の旅支度をこの礼拝の中でご一緒に初めて参りたいと思います。

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(1~2節)ローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤのエルサレム。エルサレム神殿があり、ヘロデの宮殿もあったでしょうけれども、諸外国から見れば小さな町です。そこに外国人の一団がやってきた。贈り物を携えて、おそらくお付きの人々も従えて、行列をなしてやってきた。瞬く間にエルサレムの町の人たちのうわさになりました。

ページェントなどでこのクリスマスの劇を演じる時に、貧しい羊飼いとは対照的に、学者たちはきらびやかな衣装を着せられていることが多いものです。学者なんだから立派な服を着ているだろう、と想像もできますし、この後彼らが取り出す3つの宝物、黄金、乳香、没薬からしてもただものではないという気配を感じます。実際、この占星術の学者たちは裕福な暮らしをしていたであろうと思われます。占星術というのは文字通り星占いのことで、天体の動きを観察して、そこから悩める人々に色んな助言をしていた。人々の悩みというのは、病気を治してほしいという個人的なものから、国家の将来を左右するような何万人という人々の命運がかかっているようなものまでさまざまでした。人々はこれらのことを学者たちに占ってもらって、そのお礼として金銀を置いていくのです。町の人の悩みを聞いているぐらいではあまり儲からないでしょうけれども、しかし国の政治を担う人たちの相談役ともなれば話は違います。その占いの当たる確率が高ければ高いほど、学者たちが受け取る報酬は相当なものであったことが想像されます。

学者たちが高い報酬をもらって、しかしその立場に甘んずることなくこつこつと研究を重ねていたであろうことは、この発言からも分かります。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」毎日のように星を観察していなければ新しい星に気づくことはなかったでしょうし、発見した新しい星をそのままにすることができずに行動を起こしてエルサレムまでやってきてしまった、というあたりからも、彼らの熱心さを伺い知ることができます。

彼らは新しい王が誕生したに違いない、と知って、エルサレムまでやってきました。注目したいのは次の言葉です。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」この後、学者たちは幼子イエス・キリストを探し出して文字通り御子を拝むのですけれども、幼子の顔を見てから、ユダヤの王さまは素晴らしい、せっかくだから礼拝しよう、となるのではなくて、はじめから拝むつもりではるばる旅をしてきた、ということが分かります。この旅行の目的は珍しいものをみつける、という旅ではない。何やら不思議な星が輝いているけれどもなんだろう、ちょっと見てみよう、そういう興味本位の旅ではありません。これは新しい王がうまれたに違いないから、拝みに行こう。はじめから拝むことが目的の旅です。勿論拝む対象はまだよく分かりませんし、それが実在するのかどうか、この時点では定かではないのですが、しかし自分たちは拝むために旅をしてきた、と自己紹介をするのです。潔い言葉だと思いました。果たして自分は神さまを拝むために教会に来ました、と胸を張って言えるだろうか。日曜日だから、日曜日になると教会に行く、というスイッチが入って教会で礼拝を守ることが習慣になっているかもしれません。日曜日だから、教会に行って神さまを拝む、ではなくて。神さまを拝むために、日曜日に教会へ行く。単なる言葉の順序の問題かもしれませんが、この学者たちの言葉から大事なことを問われているような気がしました。

学者たちは星を研究しながら、そしてそれを基にして人々にアドバイスをしながら、常に不十分さを感じていました。本格的に研究すればするほど、人々が求める答えをぴたりと言い当てることはできない。今自分たちができることにあぐらをかいて、適当な仕事をすることもできたでしょう。適当なことを言って、救いを求める人たちからお金をだましとることもできたかもしれません。しかし学者たちは不十分だと感じていました。もっと星を研究をすれば、もっと星は応えてくれる。研鑽を積む中で発見したのがこの不思議な星の輝きでした。放っておくことはできませんでした。学者たちの心の奥底まで訴えかけるような光を放っていました。この星をたずねもとめれば、自分たちが求めているような答えがあるかもしれない。この星を知りたい。この星の力にあやかりたい。この星の不思議な力を知って、自分たちの仕事に役立てたい。ユダヤ人の王を拝みたい、というきっかけは、あわよくばその力を手に入れたいという不純なものだったのかもしれません。しかし「拝むために来ました」と胸を張ってエルサレムに来た理由をのべる学者たちの姿からは何か、清々しいものを感じます。まぎれもない求道者の姿です。

この後、学者たちはエルサレムを離れ、ベツレヘムへと向かいます。小さな町とは言えエルサレムには神殿があり、店が並び、人々が行き交っています。一方ベツレヘムへ向かう道はどんどん寂しくなっていく道です。不安になりました。星だけが頼りでした。東の国で見た星だけが彼らを励まして、少しずつ、少しずつベツレヘムへと導いたのです。とうとう幼子のいる場所の上で星がとまったとき、学者たちは喜びにあふれました。喜びにあふれた、という学者たちの感情をあらわす言葉が記されるのは、今日お読みした箇所の中ではここだけです。後は全く記されていないので、学者たちがどんな思いでエルサレムまでやってきたのか、新しい王に会えるからうきうきとしていたのか、ヘロデに会っておどおどとしていたのか、長旅に疲れてうんざりしていたのか、まったくよく分かりません。しかしここで喜びにあふれた、ということは、おそらくここにたどりつくまでは暗く、不安な雰囲気が漂っていたことは想像できます。本当にこんな片田舎に王さまがいるのだろうかという不安、はるばると旅をしてきたけれども本当にこれでよかったんだろうかという迷い、一言では言い表すことのできない複雑な思いがあったのだと思います。幼子のいる場所の上で星が止まった時、学者たちは喜びにあふれました。まだ幼子に会ってもいないのに、まるでもう幼子の顔を見たかのように喜んだのです。おそらく、自分たちの研究が間違いではなかった、ということに喜んだのでしょう。自分たちが発見して、これは新しい王の出現に違いない、と思ってここまで旅をしてきて、それが証明されたような気がして喜んだのかもしれません。学者たちはこの瞬間も自分たちの仕事、星を研究し、それを基にして人々にアドバイスを語るという仕事を忘れてはいなかったのです。

毎年のように、クリスマスがめぐってくるとこの学者たちが幼子をたずねたというマタイの2章を、礼拝で、また教会学校の礼拝で説教の機会をいただいています。自分が記憶しているだけでも3回ぐらいは自分の説教の内容を覚えていますし、おそらくすでに忘れているものもいれれば10回ぐらいは説教をしているのかもしれません。しかしわりと長い間、少なくとも去年までは、学者たちはすべてを捨てて、つまり星占いという仕事はもうやめて、家族や財産を手放してイエスさまのもとに来た、という見解を私は持っていました。実際当時の旅の事情、というものを考えますと、命がけの旅にならざるをえない。生きて帰るという保証がない、片道切符かもしれない。仕事をやめるとは言わなくても2年や3年の仕事の中断は避けられなかったと思います。ところが今年改めてこの箇所を読む限り、学者たちはとことん星の研究家でいることにこだわっているな、と考えさせられました。星を研究しているから、新しい星を発見することができたし、自分たちが追い求めていた星がここまで導いてくれたことが、やはり自分たちの見立てが間違っていなかった、という喜びにつながった。学者たちは学者であることをやめて旅に出たのではなくて、とことん学者であることを貫きながら旅を続けてきた、と言うことができるのではないか。そしてそのことは、次の宝物をささげる、というところからも同じように読み解くことができます。

学者たちは家の中に入り、幼子と出会います。幼子を拝んだのちに、黄金、乳香、没薬をささげます。はじめのところで学者たちは裕福だったと申し上げましたが、この宝物からも彼らがいかに恵まれていたか、ということが分かります。黄金、乳香、没薬は日頃持ち歩くようなものではありませんし、どれ一つとっても大変高価なものだからです。何故宝箱に入っていたものが黄金、乳香、没薬だったのか。実はこの3つは彼らの商売道具だったのではないか、と言われています。黄金は文字通り金ですが、乳香、没薬は薬の類です。聖書の辞典などを開きますと、没薬は人がなくなった時、遺体の防腐処理などに使うと書いてあります。どうしてそんなものが星占いに必要なのか、と思われるかもしれませんが、当時占いは同時に医療行為も行っていました。星占いとお医者さんと全く違うじゃないか、と思われるかもしれませんが、当時は病気になると祈祷師のようなところに行って祈ってもらって病気を治したりもしたのです。ですからこの学者たちが同じように薬をつかって人々の病気やケガを治したり、呪術行為をしていたとしても不思議ではありません。

ですから学者たちは自分たちの仕事道具をささげたのです。ここから二つの可能性が考えられます。一つは自分たちの商売道具をすっかりささげてしまって、もう自分たちは星占いはしない、という選択をした、という可能性。そしてもう一つは、このささげる瞬間まで、自分たちはまだまだ星占いという商売を続けるつもりでいた、ということ。旅の途中で、旅先で、星占いをするつもりでいた、ということ。先ほど星を見て喜びにあふれたのは、研究者として喜んだのだ、ということを申し上げました。この時もまた、宝物をささげる瞬間もまた、すっかり占星術の学者という仕事から足を洗ったというわけではなく、やはり学者として自分たちの一番大事な商売道具をささげた。どのような心持にせよ、今自分たちが持てるもので最も大切なものをささげました。このこともまた、「拝むために来た」と言い切るのと同じぐらいの潔さを感じます。大切なものであればあるほど、思い切ってささげることはとても難しいことだからです。

ここまで苦労をしながらも一つの目的にむかって、「新しい王を拝む」という目的達成のため、苦しくとも希望に満ちた旅を続けて参りました。そして晴れて幼子と出会うことがゆるされました。その幼子との会見から一転して、12節は不穏な空気で満たされています。お告げを聞いて、急にそそくさと自分たちの国へ帰ってしまうのです。夢でお告げがあった、とありますから、どこかに泊まって眠ったのかもしれません。ヨセフに受胎告知を告げるとき、またエジプト行を告げるとき、神さまはたびたび夢を通してかたりかけます。ここでは間違いなく、神ご自身が学者たちに語りかけます。学者たちにとって初めての語りかけ、初めての神の言葉と言ってもいいかもしれません。これまで学者たちが神の言葉を聞いたことはなかったのです。しかしここで初めて神の言葉を聞くのです。幼子を拝み、礼拝にあずかるものが神の言葉を聞くのです。それは「ヘロデのところへ帰るな」という時の権力者に逆らいなさい、という大胆なメッセージでした。彼らはエルサレムを出る時に、幼子のことを知らせてくれとヘロデ王に頼まれていたのです。この言葉に従うということは、つまりヘロデ王を敵にまわす、ということをあらわしていました。しかし彼らは迷いません。すぐに旅立って、後ろも振り返らずに自分たちの国へと帰っていきます。神の言葉に従って生きるのです。星を調べ、直前まで星に従って生きていたにもかかわらず、ここからは神の言葉に従って生きるように変わるのです。12節以降は空白になっています。しかしここからが大事です。ここから、学者たちの新しい物語が始まるのです。新しい物語は私たちの手にゆだねられています。私たちにもそれぞれの、ヘロデのところへ帰らない、別の道を通っていく物語があるのです。これまでの経験や知識に頼らず、ただ神の言葉を頼りとして生きるそれぞれの物語があるのです。

学者たちの旅を神さまの側からみるとどのような旅と言うことができるでしょうか。神さまは初めから語り掛けるのではなくて、言葉ではなくて星を通して語り掛けました。その時彼らが最も信じているものを利用して、神さまは辛抱強く語りけたのです。学者たちは星を対象とした偶像崇拝者です。それも熱心な、真剣な偶像崇拝者です。だからこそ神さまは、この学者たちを選んだのかもしれません。神さまは偶像崇拝を包み込むかのように、ぎりぎりのところまで星を通して学者たちを幼子の元へと導きます。かなり手の込んだやり方です。珍しい星を配置したところで、学者たちは気づかないかもしれないし、気付いても神さまの招きに応じなかった可能性もあります。学者たちにとって、幼子イエス・キリストを探し出すのは大変な旅だったことには間違いありませんが、神さまにとってもこれは大胆な旅でした。しかしそこまでして神さまはこの学者たちを必要とされたのです。彼らを選び、根気強く導き続けたのです。回り道をしながら、迷いながら、しかし神さまは寄り添い続けてくださるのです。

クリスマスを迎えて、私たちの新しい旅が始まりました。神さまの招きは小さくささやかなこともあれば、大胆に決断をせまられることもあります。しかしあの手この手で私たちに寄り添い、私たちの行き先を示してくださいます。神を拝むために召されている私たち。日曜日ごとにみ言葉に聴き、これまでとは違う、別の道を通って、それぞれが神さまに与えられた使命に生きる旅路を歩んで参りたいと思います。

<祈り>ご在天の父なる神さま。クリスマスの恵みを、2023年最後の礼拝の恵みを感謝いたします。

あなたは私たち一人ひとりに目をとめて、道を備え、共に歩んでくださいます。どうかいつもあなたを忘れることなく、自分ではなく、あなたを頼って生きることができますように。2024年を歩む一人ひとりの旅路を守り、導いてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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