2月22日の礼拝の内容です。讃美歌は、307.303.305.306.26です。
礼拝説教 ルカ22:7~13「水がめを運ぶ男」(小椋実央牧師) 2026.2.22
2026年の受難節を迎えました。過ぐる水曜日が灰の水曜日。そして日曜日をのぞく40日間を数えて復活節、イースターを迎えます。
「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」ルカ福音書は緊張感を持って、来るべき時が近づいたことをあらわしています。除酵祭というのは過越祭から続く七日間のお祭りのことです。ですから過越祭とほぼ同じと理解してかまわないと思います。過越祭とは旧約聖書の出エジプト記にその始まりが記されています。かつてエジプトで奴隷として囚われの身であったイスラエルの人々を神さまが救い出してくださった。そのことを記念する国民的なお祭りです。具体的には各々の家庭で羊を屠って食べ、親から子へと救いの出来事を語り継ぎます。親族一同が集まって、互いの子供たちの成長を喜びあいながら、日本で言うところのお正月のような雰囲気なのかもしれません。しかし、ルカがこの言葉を記す時、「過越しの小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」と記す時、一年に一度の行事を楽しんでいるわけではないことは想像がつきます。ルカが記そうしているのは、これから屠られようとしている、神の小羊であるイエス・キリストです。私たちが毎年イースターの喜びにあずかることができるのは、主イエスのただ一度きりの犠牲の上に成り立っています。「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」このみ言葉から、私たちも緊張感を持って2026年の受難節の扉を開けていきたいと思います。
イエスさまと弟子たちが守る最後の食事、過越しの食事が始まろうとしています。この食事を主イエスがどれほど重んじておられたのか。そのことが、今日お読みした箇所に続く15節にこのように記されています。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(15節)みなさまの多くがご存じのとおりに、この過越しの食事の中で、パンと杯を弟子たちとわかちあって、今日私たちが聖餐卓を囲んで守る聖餐式の記念すべき第一回が行われます。主イエスが十字架におかかりになる前に、どうしてもこの過越しの食事を共に守らなければならなかった。弟子たちが自分裏切って離れ離れになってしまう前に。弟子たちが復活の出来事につまづいて疑い深くなってしまう前に。十字架で裂かれる体はこれから私を裏切るあなたたちのためのもの。十字架で流される血は復活を信じることのできないあなたたちを救うためのもの。このことを語らなければならなかったし、主イエスがその場にいて弟子たちと共に味わわなければならなかった。
そうでなければ、今日私たちが守る聖餐式は、ただ今は亡きイエス・キリストを偲ぶだけのセレモニーで終わってしまいます。そうではありません。キリストがかつて弟子たちと共に食卓を囲んでくださったように、今聖霊によってこの食卓に臨在してくださり、なおかつ、やがて私たちが天の国に招き入れられる時には、主イエスが顔と顔を見合わせて食卓を囲んでくださる。今日の私どもの聖餐式は、単なるノスタルジーではありません。厳然たる事実を繰り返し、そして来るべき確かな将来を先取りしています。「あなたがたと共にこの過越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」主イエスの心からの願いによって、私たちの聖餐式が支えられていることもまた受難節のこの時に改めて心に刻みたいと思うのです。
「行って、過越の食事ができるように準備しなさい。」主イエスの切なる願いを実現させるべく、主イエスの大事な二人の弟子、ペトロとヨハネが使いに出されようとしています。この使いに出すという言葉は、イエス・キリストの使徒、使徒言行録の使徒の語源になっている言葉です。派遣の「遣」という字を書いて遣わすと読む言葉です。遣わすというのは、単に外に出かけるのとはわけが違います。神さまが特定の目的のために人を選び、使命を与えて送り出すことを意味しています。それがたとえ一杯の水であろうと、ろばを3000頭用意することであろうと、重要性は同じなのです。何をするのかではなく、どなたがそのことをお命じになったのかが重要なのです。小さじ一杯程度のことを命じられたのだとしても、取るに足らない内容だということにはならないのです。ですから私たちは教会の御用のために、ことの大小にかかわらず、むしろ小さなことにこそ自らが選ばれたことを喜んで力いっぱい応えたいと思うのです。ペトロとヨハネは自分たちが12弟子の中でリーダー的存在であることを意識していました。この時も可能な限り主イエスのご命令にお応えしたいと願っていました。「どこに用意いたしましょうか。」ペトロとヨハネは、主イエスがお命じになる場所が、たとえ火の中、水の中であったとしても、喜んで駆けつけたのではないかと思うのです。
しかし主イエスの言葉は「どこそこに」という場所ではありませんでした。ペトロとヨハネにしてみれば、「どこそこの町の、何々という道の通りにあるお店」とか具体的な地名を期待していたのでしょうけれども、主イエスのお答えは記憶力を試されるような、やや謎めいたものでした。「都に入ると・・・準備しておきなさい。」(10節~12節)二人はでかけて行きました。喜んで従ったかもしれないし、なんだか面倒くさいなぁと思いながらであったのかもしれません。しかし、でかけて行った、ということが重要です。思いはどうであれ、まず行動するのです。信じるから従うことができるのではなくて、従っているうちに信ずるものにされていくのです。弟子たちはこういうことを何度も繰り返しながら、すなわち主イエスのご命令にたとえ不承不承であっても従って行くうちに、弟子として訓練されて、やがて教会のリーダーへと成長していくのです。主イエスが目印にするように、と命じたのは水がめを運んでいる男でした。その男についていけば、すでに過越しの食事をするように整った部屋を見せてもらえる、というのです。過越祭にエルサレムを訪れる巡礼者は何万人、何十万人とも言われています。その雑踏の中でたった一人の水がめを運ぶ男を探す。至難の業のように思われますが、案外そうでもなかったようです。と言いますのも、当時水くみは女性たちの仕事だったために、水を運んでいる男性というのはそれだけでずいぶんと目立っていたのです。
しかも仮に男性が水を運ぶとしたら革袋で運ぶところを、女性と同じ水がめにくんで水を運んでいるとなると、相当珍しい。おそらく唯一無二の存在といっていいと思います。この男性が何故水がめで水を運んでいたのか、もっと言うと、何故この家の主人は女性にではなく男性に水を運ばせていたのか。井戸端会議という言葉があるように、古今東西水のある場所では労働者たちのたまり場となります。女性たちに交じって水をくむのはずいぶんと勇気がいることではなかったのか。隣近所の家からは、あそこの主人はどうして男性に水をくませるのかと、噂になったりはしないのか。色々と想像は膨らみますけれども、これと言った手掛かりがないために何も結論づけることができません。ひとつ有力な推測としてはこのようなものがあります。この家の主人はおそらく主イエスと親しくしていて、あらかじめ場所を提供するように話がついていたのではないか。その時に主イエスたちが迷わずにたどり着くことができるように、あえて分かりやすい目印として水がめを運ぶ男という目印を立てることにしたのではないか、という説です。
しかしよくよく読んでみますと、この水がめを運ぶ男は弟子達とは一言も言葉を交わさないのです。この男が水を汲んで家まで帰っていくところをついていくとようやく目的地にたどり着く。やはりこの男性は常日頃から水を汲んでいるのではないだろうかと思わされます。それに、もし場所を提供するように話がついているのだとしたら、過越しの食事はこの主人が準備をしたのではないかと思うのです。この主人が提供したのはあくまで外側の部屋だけであって、中身は二人の弟子が準備をするのです。過越しの食事の準備というのは、具体的には羊の肉です。神殿で祭司たちによって屠られた肉を手に入れなければならないのです。ほんの数日前に主イエスの一行はやってきて、宮きよめを行ったのです。神殿の両替人や犠牲の鳩を売る人たちを追い出したのです。それなのにもう一度神殿に出かけて行って羊の肉を手に入れるのです。なかなか気まずいものです。しかし弟子たちはどうにかして手に入れるのです。もし主イエスとこの家の主人があらかじめ話がついているのだとしたら、やはり羊の肉の手配もこの家の主人が手配するのではないかと思うのです。
やはりここは聖書が記すとおりに、主イエスに言われてでかけてみると水がめを運ぶ男がおり、彼についていくと過越しの食事の場所が整えられていた。そう読むのが自然なのではないかと思うのです。となると、この男は日常的に水がめで水を運んでいた、ということになります。理由はよく分かりません。主人の意向だったのかもしれませんし、この男が他の女性たちと同じように水がめで運ぶことにこだわっていたのかもしれない。理由はよくわからないけれども一般社会の中では少数派であるこの人物がこの水がめを運ぶ男でありました。主イエスのご命令の一つはこの水がめを運ぶ男についていくことでありました。弟子たちにしてみれば、ややきまりの悪い出来事だったでしょう。大多数の人間についていくのは簡単なことです。しかし世の流れに逆らって、少数派の人間についていくのは勇気がいることです。ペトロとヨハネは内心びくびくしながら、しかし巡礼客でごったがえす町の中で見失うことのないように必死についていったに違いありません。
「都に入ると、水がめを運ぶ男に出会う。その人がいる家までついていきなさい。」このついていく、という言葉は、私たちが主イエスに従う、という時に使う「従う」という言葉が使われています。最初はわけもわからず使いに出されたのです。行きなさいと言われて、巡礼者で込み合うエルサレムの町へと入っていったのです。しかしそこで水がめを運ぶ男をみつけたのならばその人に従って行け。主イエスがお命じになった。ぼんやりと歩いているのでは従うことにはなりません。しっかりとみつめ、頭も足も、一瞬たりともとめることをせずに、ただその一点に心を注がなければ従うことはできないのです。その人物が同じ志を持った人物なのかどうか、どんな人物なのか、全く分からないのです。確かなのは、それが主イエスのご命令である、ということだけ。水がめを運ぶ男と自分たちとの間に神が介在してくださって、事を成し遂げてくださるということだけを信じて弟子たちはついて行きました。弟子たちはこの時、知らないうちに「従う」という出来事を経験したのです。その結果過越しの食事の場所がみつかり、最初の聖餐式、聖餐の制定へとつながっていくのです。
また、別の視点からも水がめを運ぶ男について補足してみたいと思います。「過越しの食事をする部屋」という11節の部屋という言葉は、もともと宿屋という意味の言葉です。クリスマスの時、ヨセフとマリアが泊まることのできなかった、あの宿屋です。ルカ福音書は社会的弱者に目を注いだ書物と言われています。あまりそのことにばかり気をとられて、神の救いの内容そのものから逸脱しては意味がないのですが、社会的に弱い立場の人間に光があてられています。たとえば天使があらわれたのはマタイでは夫であるヨセフのところでしたが、ルカでは妻であるマリアのもとにあらわれます。最初に救い主誕生が告げられるのは、マタイでは社会的成功者である占星術の学者であるのに対して、ルカでは社会の底辺を生きる羊飼いたちでありました。そのルカがことさら水がめを運ぶ男を記したのは、やはり意味があるのではないかと思うのです。社会の少数派である水がめを運ぶ男が、しかしペトロとヨハネを導いて宿屋へとたどり着くことができた。この地上に命を受けた時、主イエスは宿屋に泊まることさえかなわなかった。しかしその生涯の最後の部分で、水がめに運ぶ男に導かれて、ようやく身をよこたえる宿屋へとたどり着くことができた。水がめを運ぶ男がことさら重大なことをした、というわけではありませんけれども、神さまがこの人物に働いてくださって、用いてくださって主イエスのみわざがひとつひとつ成し遂げられていく。救いの出来事がひとつずつ、パズルのピースがはまるようにできあがっていく。その一端を担うのが、いや知らないうちに担わされていたのが、この水がめを運ぶ男であり、そこについていったペトロとヨハネであり、またこの部屋を提供した宿屋の主人でもあるのです。
今年度、教会学校では旧約聖書の学びを続けています。教会学校では3年サイクルのカリキュラムを用いていて、最初の年がイエス・キリストの年。ひとつの福音書を1年かけて読んでいきます。その次に聖書の年。主に旧約聖書を中心に、聖書全体を読むように心がけます。そして最後が、これがなかなか説教者泣かせなのですけれども、教理の年。主の祈り、使徒信条、十戒を学びます。2026年の4月から、教会学校では教理の学びに入っていきます。今年度はふたつめの聖書の年、旧約聖書を学んでいます。先週は列王記の、預言者エリヤの箇所でした。エリヤが突然戦車で連れ去られて天にあげられてしまう、そういう場面です。それまでエリヤに執着をして、どこまでもついていこうとしていた弟子のエリシャでしたが、エリヤが天にあげられた後はエリヤではなくただ神を求めて立ち上がります。口を開けばエリヤ、エリヤ、とばかり言っていた若き預言者のエリシャが、しかしエリヤがいなくなって後には、「エリヤの神、主はどこにおられますか。」と神をたずね求めるようになるのです。春は別れの季節。大好きなお友達や慣れ親しんだ学校とお別れする人もいるかもしれないけど、私たちはエリシャのように神さまを求めていこう。神さまが私と遠く離れたお友達の間にいてくれるよ。一人ぼっちだって思う時にも必ず見守っていてくれるよ、という話をしました。
春は別れの季節であり、また出会いの季節でもあります。見知らぬ人と出会って、言葉を交わすだけでも勇気がいるのに、その人に従って行く、というのは誰にでもできることではありません。ペトロとヨハネが水がめを運ぶ男について行くことができたのは、一重に主イエスへの信頼があるからです。このお方についていけば大丈夫。このお方の言葉に従っていけば大丈夫。その信頼があるから、見ず知らずの、しかもかなり風変りな男についていくことができたのです。そこに神の介入があると信じて、私たちもまた新たな出会いを喜び、水がめを運ぶ男と出会いたいと思います。神が私たちの仲立ちとなってくださって、新しい関係が築かれて、神さまの救いのわざを間近で見る幸いに与りたいと思います。また私たち自身が誰かにとっての水がめを運ぶ男となって、言葉を交わすことがなかったとしても私と誰かとの間に神さまが働いてくださって、その方が救いに導かれるような出来事が起こってほしいとも願います。「過越しの小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」ただ一度きりの、主イエスの犠牲による私たちの救いが与えられた。この動かしがたい事実を心に刻みながら、春のやわらかな日差しの中に新しい出会いを求めて、新しい神の出来事を求めて、受難節の歩みを整えて参りたいと思います。
<祈り>ご在天の父なる神さま。私たちの地上の生涯に、2026年の受難節の恵みが与えられましたことを感謝いたします。あなたは言葉も交わしたこともない隣人と私との間に立って、奇跡を起こしてくださいます。どうぞ私たちを用いて救いの御業を成し遂げてください。水がめを運ぶ男に出会うことを喜び、また私たち自身が誰かにとっての水がめを運ぶ男となることができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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