7月25日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は7(1)390(1)です。本日15時より、教会学校の夏の集いが行われます。

礼拝説教   ネヘミヤ記12:47~47「喜びの日」(小椋実央牧師)   2021.7.25

喜びの歌が聞こえてきます。シンバルや竪琴の音が、高らかに鳴り響きます。

子どもたちの歓声があがります。人と人の間を喜びが満たし、エルサレムが、全地が喜びに包まれていきます。この喜びの声をあげているのは、重荷を負った人々です。外国で築き上げた生活をいったん捨てて、裸一貫でエルサレムにもどってきた人たちです。城壁工事のために多くの人が命を落としました。サマリア人をはじめとする近隣の有力者からの攻撃があったからです。家族は引き裂かれました。体には傷を負いました。ここには傷ついていない人は、一人もいません。何も失わなかった人は1人もいません。みなが傷つき、大切にしていたものを失い、あるいは破壊され、やっとの思いでここに立っているのです。何故それが可能なのか。何故、これだけ悲惨な経験をしながら、不平不満をつぶやくのではなく、神をほめたたえることができるのか。それは、この奉献式が人々の手によってではなく、神に押し出されて、神の力によって成り立っているからです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この御言葉は、今ここで実現しています。手をにぎりしめて、いつまでも自分自身にしがみついている時、私たちは重荷から解放されることはありません。しかし手をゆるめて、神にむかってその手をのばし始める時、重荷を与える方が、その重荷を取り去る力がある、それがおできになる方であることを私たちは知るのです。そして、傷ついたわたしたちの手に、神さまはこぼれおちるほどの恵みを与えてくださることを、わたしたちは知るのです。

ネヘミヤ記の御言葉に聴き続けてまいりました。本当ならば全部をくまなく読みたいところですが、なかなかちょうどよいところで区切ることができないために、いつも中途半端な長さで読むことになりました。今日が12章ですから、すでに10回以上ネヘミヤ記を読み続けていることになります。ネヘミヤの召命にはじまって、外部からの妨害、また内部からの裏切りを乗り越えながら、ようやくここまでたどりつきました。どなたも疑問に思われる点があるかもしれません。それはすでに6章の終わりで城壁の完成が記されていながら、なぜ城壁の完成を祝う儀式が12章に記されているのかということです。しかもその間、すでに礼拝は再開していて、律法が朗読され、とても長い罪の告白の言葉もご一緒にお読みしました。奉献式の時期がずいぶん遅いのではないか。本来ならば完成したらただちに奉献式をするほうがよいのではないだろうか。そういう疑問を持たれる方がいてもおかしくないと思うのです。

奉献式が遅い、ということに関して、二つの理由が考えられます。一つは、長い準備期間を置いた、ということです。この盛大な儀式のために、ネヘミヤは丁寧に準備をいたしました。12章の最初は祭司とレビ人の長い名簿から始まります。これも奉献式の準備の1つだとも言えます。祭司とレビ人は神殿に仕える人びとです。当然奉献式の重要な部分を務めました。教会の週報にも奉仕の分担が記されています。来週の分、再来週の分まで説教者が誰で、奏楽者は誰それ、と記されている。それは担当者が忘れないように備忘録として書いてあるのではありません。みなさんにこのことを祈っていただきたいのです。祈りをわかちあっていただきたいのです。奉仕者が、自分の奉仕のために祈るだけでなくて、奉仕にあたっていない人も奉仕者を覚えて祈っていただきたい。祈りつつ、また祈られつつ、準備をしていただきたい。ネヘミヤ達は祭司やレビ人を筆頭に、祈りつつ奉献式の準備を進めました。そしてそれだけでは足りずに、レビ人や詠唱者を近隣から集めてまいりました。手紙を送り、伝令を走らせたのです。当然練習も必要だったでしょう。ネヘミヤはこつこつと準備を進めてきたのです。そのために、城壁が完成してから奉献式までの間、時間を必要としたのです。

そして奉献式が遅かった二つめの理由はこれです。これらの人々が礼拝者として整うまでにある一定の時間がかかった、ということ。言い換えますと、城壁の再建は手段であって、神がなさろうとしていたことは神の民を整えることであった。城壁の工事が目的ではなく、城壁の工事という出来事を通して、神の民をもう一度礼拝者として整えなおすことが、神の目的だったのです。神は異国の地から人々を連れ戻しました。エルサレムに帰って、礼拝を再開させる。その志をひとりびとりに与えたのです。ペルシャから帰ってきた人々は、つるはしを持ち、スコップをかかえ、男も女も工事に参加しました。石を積み上げ、釘一本、ねじの1つをしめるところまで協力したのです。その1人1人が、あの扉を取り付け、この石を積み上げたあの人、この人が奉献式に集い、喜びの声をあげているのです。神の国に無関係な人は1人もいない。誰もが神の国の建設に召されているのだ。この大きな恵みに1人1人が気づく必要があったのです。

城壁が完成するまでに、52日間かかりました。中には52日間、一日も休まなかった人もありましょう。中には、志はあっても体が動かないために、建築作業から帰ってきた人にコップ一杯の水を差し出すのがやっとの人もいたのかもしれません。神はこのコップ一杯の水を差しだす人をも、招いてくださるお方です。新約聖書にぶどう園のたとえ、というたとえ話があります。主人がぶどう園の収穫のために労働者を集めた。朝から働いた人もあれば、夕方の5時頃やってきて、ほんの少ししか働かない人もいた。しかし主人は朝から働いた人にも、夕方から働いた人にも同じ給料を与えたという話です。神は同じ愛を与えるのです。ここに神の公平さがあります。私たちの目から見ると、それはずいぶん不公平です。しかしそのことはさほど問題ではない。私たちにどう見えるかということは問題にはなりません。1時間でも5分でも、ぶどう園のために働いた。神にとって、そのことが重要なのです。52日間働いた人も、コップ一杯の水を差しだした人も、神の目からご覧になればぶどう園の労働者と同じです。だから神は、コップ一杯の水を差しだすかどうかをご覧になっていた。あの人も、この人も、神の国の労働者にふさわしい。そのことを城壁の建設が進む間、そしてそれが終わってからも神はずっと待っておられた。それが、この奉献式が遅れた2番目の理由です。

本日、最も心にとめていただきたいと思う御言葉は43節の御言葉です。1節の中に喜びという言葉が4回も繰り返されます。この奉献式が喜び以外の何ものでもない、ということが分かります。この喜びに喜びを重ねるような祝いの時に、注目したいのは次の一点です。神は大いなる喜びをお与えになった。神が大いなる喜びをお与えになった。喜びの源、始まりは神であったとネヘミヤは記すのです。人びとはかさかさになって節くれだった手をじっとみつめたことでしょう。家族を失い、家を失い、傷ついていない人は一人もいない。この状況の中で、すべての喜びは神が与えてくださったと告白するのです。神は城壁工事という事業を通して私たちをもう一度呼び集め、神の民の群れとして参加することをおゆるしくださった。この偉大なわざをはじめてくださったのは神ご自身である。私たちの痛みも、苦しみも、神の喜びの中に記憶されていくのだ。人びとが重荷を神にゆだねた時、私の悲惨な経験ではなく、神の出来事として受け止めなおした時、神の喜びが人々を満たしたのです。神の喜びは広がっていきます。43節には女も子供も共に喜び祝った、と記されています。旧約聖書の時代、新約聖書の時代においてもそうですが、女子供というのは人数に数えることがありません。女も子供も共に喜び祝ったということは、一人残らず喜んだ、ということです。神の喜びが、すべての人を満たしたのです。そしてその喜びの声は城壁を超え、野山をかけめぐって遠くまで響いたのです。改めて奉献式を思います時に、こう言い換えることができると思います。ネヘミヤ達の奉献式とは、神のわざを遠くまで告げ知らせること。私たちが喜びを分かち合うことを通して、その喜びを与えたもう神を告げ知らせることなのです。

先日、建築委員会のメンバーを中心に、瀬戸永泉教会の工事を請け負ってくださっている中島工務店の材木工場を見学に行ってまいりました。永泉教会に使われる木材がきちんと準備されていて、教会のどの部分に使うのか、どのように加工して用いるのか、木が持つ特性など、丁寧な説明を受けてきました。改めて、名前も知らない、互いに顔も見たことのないような多くの人々が、しかし神の招きによって呼び集められて、この会堂が建てられていく。柱の一本一本に、ガラス一枚、釘の一本にいたるまで、この礼拝堂を整えようとする神さまのご意志を見たような思いがいたしました。この工事が終わる時に、私たちもまたネヘミヤたちと同じように献堂式を迎えることとなると思います。ヘブライ語、旧約聖書が記されているヘブライ語には、感謝と賛美の区別がありません。同じ一つの単語で感謝と賛美の二つのことをあらわします。神様に感謝をささげるということは同時に神さまをほめたたえるということでもあります。ちょうどネヘミヤ達の奉献式の喜びがエルサレムを超えていったように、私たちがやがて迎えるであろう献堂式も、神の喜びをいただき、その喜びをみなで分かち合って、やがてその喜びが瀬戸永泉教会の扉を出て、あの町、この町と広がっていくことと思います。やがて来るその喜びの日を心に抱きつつ、神がこの喜びの日を与えてくださるお方であることを信じ、一切の重荷を神にゆだねて共に歩んでまいりましょう。

<祈り>御在天の父なる神さま。暑さが続く中、健康が守られ、また会堂の工事も守られて、礼拝にあずかる幸いを感謝いたします。傷ついたもの、多くを失ったものが、ネヘミヤたちの喜びの日を迎えることができました。どうぞ私たちも会堂の完成を心待ちにして、多くの方と共に喜びの日を迎えることができますように。会堂が土台から1つずつ組み上げられていくように、私たちの信仰もまた、あなたが1つずつ整えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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