8月17日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.352.402.474.27です。
礼拝説教 使徒17:28~34「神の中に生きている」 2025.8.17
8月13日~16日までは、日本ではお盆でした。日本の大切な仏教行事として毎年、この時期に守られています。お盆は先祖の霊を迎え、供養するのです。先祖が浄土から現世戻って来る期間とされています。このように日本に住んでいるといろいろな宗教の影響を受けていることが分かります。特に、神道や仏教の影響下の中で生きているといってもいいと思います。その中で、キリスト者として生きる意味を考えていきたいと思います。
使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は、イエス・キリストの福音がエルサレムから当時の中心地であったローマにまで伝えられる内容が書かれてあります。今日の聖書の箇所は、パウロの第2回伝道旅行の中のアテネでの伝道の様子が書かれてあります。当時のアテネの町はギリシャ哲学の中心地でした。アリストテレス、ソクラテス、プラトンなど有名な哲学者が生まれました。またエピクロス派やストア派などの学派も誕生しました。その一方で多くの神々もあったのです。その中には名前がついていない神も多くありました。前に、アテネの町を疫病が蔓延し、多くの人々がなくなったということがありました。このようにアテネの町は哲学と宗教の盛んな環境にあったのです。
そのアテネの町に、パウロは1人で入りました。聖徒言行録ではパウロはアテネの町に入って、至る所で偶像があるのを見て憤慨したと書いています。イエス・キリストの福音を伝える必要性を強く感じたのでしょうか。パウロはアテネのアレオパゴスの真ん中に立って、アテネの町の人々にイエス・キリストの福音を語り始めます。アテネでの説教といわれるものです。それまでのパウロの説教は、ユダヤ人や神をあがめる人々へのものがほとんどでした。ところが、このアテネでは、旧約聖書のことを全く知らない人々が対象となっていて、そこでの説教として非常に注目されています。
パウロはまず、アテネの人々が多くの神々を信じていること、また神に名がついていないことをあげて、アテネの人々が信仰のあつい方だと認めて、話し始めていきます。多くの神々の祭壇があること、知られざる神と刻まれている祭壇を見つけて、あなたがた知らずに拝んでいるもの、それをお知らせしましょうと始めていきます。ここからパウロは聖書の神をそのまま伝えていきます。神は天地を創造された方であること、この世界とそのすべてを造られた方、神は天地の主だから、人の手で造った神殿には住むことはないこと、人の手によって仕えてもらう必要もないこと、すべての人間の命と息を与えてくださった方、神は1人の人からすべての民族を造り出して、地上の至る所に住まわせ、季節を決め、人々の居住地の境界を決められたということです。このことは人に神を求めさせるためであり、人々が神を探し求めさえすれば、神を見出すことができるということです。パウロはここであるギリシャの詩人の詩を引用して「我らは神の中に生き、動き、存在する」「我らもその子孫である」といっています。
人々が自分の中を見つめると、神を見い出すことができるといっているのです。そして、ここで私たちは神の子孫であるといっています。私たちはまさしく神から生まれ、神の子、神の子孫です。だから、神である方を、人間が造った金や銀、石などの像と同じものと考えてはいけないというのです。私たち人間は、神によって造られたのです。そのことを人間の罪は、自分を本当に造ってくださった方を忘れてしまっています。そのことが長く続きました。神はこのような無知の時代を、大目に見てくださっていましたということです。しかし、今は、どこにいる人でも皆、悔い改めるようにと、命じているとパウロはいいます。この悔い改めの意味は、悪いことをやめて、良いことをするということではありません。方向転換を意味しています。今まで、人間は自分中心にいきていましたが、本来は、神を中心に生きていくということです。
パウロは、「神が先に選ばれた1人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」といっています。神によって選ばれた1人の方というのは、イエス・キリストであることがすぐに分かります。
私たちの住む世界にはいろいろな宗教があります。身近なところでは、神道や仏教です。私たちの日常生活はそのような宗教の影響を受けて生活しています。その宗教の影響を避けることはできません。この世界にはいろいろな多くの宗教が存在しています。私たちがキリスト教で生きるというのは、それがすべてになってしまいます。キリスト教だけが、この世界にあって唯一の救いなのだということです。神が先に選ばれた1人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからだといいます。聖書によると、神は私たちを造ってくださいました。私たち人間は神に似せて造られたのです。神から特別な存在として創造されたのです。神を愛するために、人間は創造されたといってもいいと思います。しかし、人間はアダムとエバの時代に、神を愛さない道を選びました。神から離れて生きる道を選んだのです。そのことを罪といいます。罪を犯した人間に死が入って来ました。人間は自分の犯した罪によって死ぬことになったのです。そのようなわけで、私たち人間は死ぬ存在となり、誰もが死んでいきます。
人が死んだらそれで終りと考えてしまいますが、実はそれでは終らないのです。最後の審判というのが待っているのです。それが、イエス・キリストがこの世を正しく裁く日を決められたという意味です。マタイの25章に分かりやすく書いてあります。
マタイ25:31~34,41,46
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。
人の子であるイエス・キリストが再臨する時に、この世の終りが来て、最後の審判が行われるのです。この世に生きた1人1人が、イエス・キリストの前に出て、どう生きたかが審判されていくのです。右に分けられた人は神の国へと招かれます。左に分けられた人は、永遠の火、永遠の罰を受けるとあります。最後の審判があることをパウロはここでいっています。すべての人間は罪人であり、右に行くことができる人は誰もいません。すべての人が左に行くことになります。永遠の火、永遠の罰を受けるということです。永遠の火、永遠の罰とはどのような世界なのでしょうか。
イエス・キリストに選ばれて、右に行くことができる人がいます。それがキリスト者です。私たちは罪人であり、誰一人神の赦しを得ることができません。しかし、イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださいました。そして、3日後に復活してくださったのです。このイエス・キリストの十字架による罪の贖い、赦しを信じることによってのみ、私たちは赦されて、右に行くことができ、神の国に入る資格を与えられるのです。イエス・キリストを信じることによって救われるといわれますが、最後の審判の時に罪が赦されて、神の国に入り、永遠の命と復活の命を与えられていくのです。
神は私たち人間を創造された時、神に似る者として造られたといいました。それは、私たち1人1人に自由意志が与えられているということです。その与えられた自由意志で、私たち自身1人1人の責任がここで求められています。私たちがキリスト教を信じて生きるということは、絶対的なものを持って生きるということです。その上で、いろいろな宗教と共に生きることが求められています。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちはいろいろな宗教の中で生きています。でも、あなたのみを唯一の神を信じて生きています。イエス・キリストを信じることによってのみ救われることを確信して生きることができますように導いてください。また、いろいろな宗教のある中でどのように生きていけばいいのか知恵を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


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