1月8日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、18(1)194(1)436(1)26です。寒い日が続きます。皆様のご健康を祈ります。

礼拝説教    マタイ27:45~56「神の子としてのイエス様」   2023.1.8

 新しい年になって、2回目の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。神の言葉を受けて、1週間の歩みがよりよいものとなりますように願いします。

 私は、この瀬戸永泉教会に来て、この礼拝でずっとマタイによる福音書を読んできました。それもまもなく終えようとしています。イエス様の十字架の場面が続いています。今日は、イエス様が十字架につけられて死んでしまう場面です。イエス様は十字架の上で7つの言葉をいったといわれています。しかし、このマタイは、1つだけを書いています。それが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という言葉です。これは、イエス様が使っていた言葉をそのままのせています。その意味は、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか。」というものです。マタイは、なぜ、この言葉だけをのせているのでしょうか。どうして、他の言葉はのせていないのでしょうか。ただ、いえることはマタイ自身、特に大切だと考えていたものだということでしょう。神の子が、神に見捨てられているのです。いったい、どれほどの苦しみなのでしょうか。

 旧約聖書に、人間の苦しみを扱ったものがあります。それはヨブ記です。ヨブは、神を信じ、正しく生きていました。多くの財産を持ち、家族にも恵まれていました。人間の幸せの理想像といっていいのかもしれません。そのヨブに、突然に苦しみが襲いました。ヨブはたくさんの家畜を持っていました。その家畜の全てを失いました。ヨブの苦しみはそれだけでは終りませんでした。ヨブの家族は、ヨブと妻、そして10人の子ども達がいました。その子ども達が一緒の家に集っていていました。強い風が吹いて、その家がつぶれてしまって、子ども達全員が下敷きになって死んでしまったのです。ヨブ自身も体全体が激しいかゆみが襲いました。ヨブは全財産を失い、すべての子ども達を失い、自身も重い病気になってしまったのです。

 ヨブは、その苦しみの中で、神に訴えています。神よ、どうして、私が苦しまなければならないのですか。どうしてですかと繰り返し、訴えているのですが、神は何も答えようとしないのです。ヨブの叫びは、イエス様の十字架上の叫びを同じだと思います。「わたしの神よ。わたしの神よ。どうして私を苦しめるのですか。どうして、わたしの苦しみの声を聞いてくれないのですか。どうして、わたしをお見捨てになるのですか」と。

 ヨブの叫びは、私たち自身の叫びにもなります。私たちの人生は、いろいろな苦しみを味わうことになります。その苦しみの中で、私たちは、神に問うのです。「神よ。どうして、わたしがこんな苦しみを味わわなければいけないのですか。どうして、このような重荷を背負わなければならないのですか。神よ、神よ、どうしてですか、答えてください。」と、叫ぶのです。

 イエス様の十字架までの歩みを振り返ってみたいと思います。イエス様と弟子達は、エルサレムに入られました。それは、過越祭を祝うためでした。イエス様の命を狙っている人々がいました。祭司長たちや民の長老たちです。イスカリオテのユダの手引きによって、イエス様は祭司長たちに売られることになります。その前に、イエス様はゲッセマネの祈りをしています。十字架の前の祈りです。この時までは、イエス様は十字架から逃げることができました。イエス様は人間的な思いでは、十字架から逃げたいのです。それは、十字架の死はとても辛いものだからです。しかし、神の御心は、イエス様が十字架につくことでした。イエス様は神の御心に従って、十字架の道を進んで行かれます。イエス様は祭司長たちに逮捕されて、大祭司の家に連れて行かれて、裁判を受けます。十字架刑にするための裁判です。そして、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれて、十字架刑が確定します。

 イエス様の十字架刑が決まると、イエス様は裸にされて、鞭で打たれます。ローマの鞭打ちは過酷なものでした。死ぬ手前まで打たれるのです。そして、瀕死の状態にされて、重い十字架を背負い、刑場まで歩いて行かなければなりません。イエス様は最後まで運ぶことができず、途中で倒れてしまいました。近くの人に代わりに背負ってもらい、自分はふらふらとやっとの思いで、刑場に着きました。刑場に着くと、十字架につけられます。十字架刑は、人間が考えた死刑の方法で最も過酷なものだといわれています。それは、最も長く苦しめて殺していく方法だからです。イエス様も十字架につけられて、死ぬまでそのままにされてしまいます。

 マタイは、ここで昼の12時から午後3時までのことを書いています。この間に、全地が暗くなっています。世界中の悪が、人間のすべての罪が、この時に表現されているのでしょうか。暗闇が世界を覆っています。イエス様の十字架の苦しみを理解することができるでしょうか。この間に、イエス様は十字架の上で、苦しみ悶えています。激しい苦痛が、イエス様を襲っています。そして、あの言葉を叫ばれるのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」です。まもなく、イエス様は、再び大声を叫び、息を引き取られたと、マタイはイエス様の死を告げています。

 イエス様の十字架の死、これは聖書の最も大切な場面です。神の子が、十字架について死んでしまったのです。イエス様の十字架の死を巡って、2つのことを考えていきたいと思います。1つは、いったい誰がイエス様を十字架につけたのかということです。マタイによると、祭司長たちや民の長老たちだということができるでしょう。または、イスカリオテのユダだったり、弟子のペトロだったり、ローマ兵だということもできるでしょう。でも、本当に、イエス様を十字架につけたのは、私たちです。この私です。そうなのです。

 そして、2つは、イエス様の十字架の死を巡って、いったい誰が、十字架につけられなければならないかです。祭司長たちや民の長老たちだといえるかもしれません。イスカリオテのユダヤペトロといえるかもしれません。でも、実際は私たち自身なのです。私自身なのです。本当にそうなのです。自分の罪を見つめて、どれだけ、自分の罪が深いものか、自分の罪で十字架につかなければならないか、いつも、想像しながら、イエス様の十字架の場面を思い出します。十字架の上で苦しんでいるイエス様、その苦しみが私のためなのだと思うのです。心の底からその通りだと思います。ただただ、イエス様の憐れみにすがるのです。このような不信仰の私のためにも、イエス様は十字架についてくださったのです。

ヨハネ3:16~17

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 この聖書の言葉をききたいと思います。自分の本当の罪の姿を知り、イエス様の十字架の死をしっかりと受け止めることができるようになりたいと思います。最後に、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」の意味を受け止めていきたいと思います。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」というものです。イエス様の十字架の苦しみの中で、神は沈黙されています。イエス様の叫びに何も答えていません。このイエス様の叫びですが、これは神に向っての叫びです。神へのまったき叫びです。信頼の叫びです。天地を創造された方への叫びです。全知全能の方への叫びです。私は思います。人生の苦しみの中で、その苦しみの叫びを、神に向って叫ぶのです。「神よ、神よ、どうしてわたしをお見捨てのなるのですか。」と。私たちのすべての罪の救いのために、大切な独り子であるイエス・キリストを十字架につけられた方に向って、です。神は、私たちがそう叫ぶのを許してくださいます。どうか、そのような叫びをすることができるようになりたいと願うのです。人生のどん底にある時に、神に向って、「神よ、神よ、なぜ、わたしをお見捨てになるのですか。どうして、このような苦しみを味わわなければならないのですか。」と叫ぶ者でありたいと。

祈り 神よ。あなたの御子イエス・キリストの十字架の死の場面を聖書から見てきました。この十字架の死の意味を、自分のこととして受け止めることができるように導いてください。そして、イエス様が十字架の上であなたに向って叫ばれたように、私たちもその人生の苦難の中で、あなたに向って同じような叫びをすることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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