10月22日の礼拝の内容です。

礼拝

10月22日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.194.361.404.26です。

礼拝説教      使徒5:33~42「変わらないものは何か」   2023.10.22

 今日は、10月の第4日曜日です。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますように祈ります。先週は、教会創立135周年記念の礼拝を守ることができました。神が、この教会を愛し、135年という長きに渡って守り導いてくださったことを感謝しました。これからの教会の歩みも神の導きと守りの中で歩むことができますようにと祈りました。午後には、特別講演会として小さないのちのドアの働きを永原郁子先生よりお聞きすることができました。現代の日本社会にあって、苦しむ人々に寄り添って歩む姿に深い感銘を覚えました。私たちもこの小さないのちのドアの働きを覚えていきたいと思いました。

 この礼拝では使徒言行録を読んでいます。初代教会の様子を知ることができています。イエス様の弟子である使徒たちの目覚ましい活躍の記録です。神からの聖霊が注がれて、その聖霊の力によって、使徒たちは大胆に、イエス・キリストの福音を語っていきました。そのための多くの人々が、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて、教会の群れに加えられていきました。使徒たちによって多くの奇跡も行われました。更に、多くの人々が教会に加わっていったことを書いています。

 この使徒たちの目覚ましい活躍を快く思っていない人々がいました。その人々は、イエス・キリストを十字架につけたのです。使徒たちはその宣教活動の中で、彼らに逮捕されていきました。彼らとは、大祭司であり、サドカイ派の人々、祭司長やファイリサイ派の人々などです。今日の聖書の箇所では、使徒たちは二度目の最高議会に立っています。大祭司が「イエス・キリストの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのにお前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」と尋問しています。使徒たちは「人間に従うよりも、神に従わなければなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエス様を復活させてくださいました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」と反論しています。このことを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうとまで考えています。

 彼らの激しい怒りの中で、立たせられている使徒たちです。そこに予想もしなかった助け手が現れました。ファリサイ派のガマリエルです。ここにいるサドカイ派は財産家であり、祭司の一族であり、いつも名声と権力を保とうとしていました。ファリサイ派は政治的な思いは持っていませんでした。ファリサイとは「分けられた者」を意味します。彼らは律法の最も細かい部分まで厳守しようと、一般の人々から分かれて献身した人々でした。彼らが守ろうとした項目は多くありました。この厳しい生活によって、一般の人々から尊敬を受けていたのです。ここに登場するガマリエルはそれ以上に尊敬されていたようです。他のファリサイ派の人々よりも寛大で親切であり、みんなに愛されていたのです。

 そのガマリエルが議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから議員に話し始めます。「イスラエルの人たち、その者たちの取り扱いは慎重にしなさい」と。その内容は、2つの事例を出しています。1つは、テウダが、自分が何か偉い者のように言って立ち上がり、その数400人ぐらいの男が彼に従ったといいます。テウダは殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなったといいます。2つ目は、住民登録の時に、ガリラヤのユダが立ち上がって、民衆を率いて反乱を起こした事件のことをいいます。住民登録は紀元6年の時に、クレニオが総督の時に行われました。目的は税金を取るためでした。ユダは、神がイスラエルの王であると立場を取って、税金は神にのみに帰すべきで、それ以外は、神を冒涜するものと考えたのです。しかし、そのユダの行動も失敗に終りました。ユダは滅び、つき従った者も皆、ちりじりにさせられたといいます。

 ここからが大切な言葉です。今日の聖書の中心的なメッセージがいわれています。ガマリエルは「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」と、強くいいます。

 この言葉を聞いた者たちは、この意見に従うのです。最高議会は、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエス様の名によって話してはならないと命じた上で、釈放するのです。

 このガマリエルのいった言葉です。「ある計画や行動が人間から出たものであれば、自滅する。神から出たものなら滅びることはない」と。人間にはいろいろな計画や行動があります。それが人間から出たものか、神から出たものか、どのように区別するかといえば、人間からもものは、いつか自滅してしまうということです。神から出たものは滅びることがないということです。だから、その経過を見て行けば、その計画や行動が人間から出たものか、神から出たものかが分かるというものです。人間から出たものは一時的なものであり、神から出たものは永遠なるものということができるでしょう。では、人間から出たものと、神から出たものを、他にどのように見極めればいいのでしょう。

 ガマリエルはここで示した2つの例がありました。テウダの例は、自分が預言者だとでもいって400人の者たちが集まって、力で物事を変えようとしました。ユダの例も、民衆を率いて力で反乱を起こしました。力によって、武器を取って、戦いによって、変えて行こうとしたものが皆、滅んでいったことが分かります。マタイによる福音書を読んでいた時に、イスラエルの人々の思いについて話しました。イスラエルの人々は、神の民として歩んでいきたいと望んでいました。そのことを実践するためには、ローマ帝国に対して、攻撃して、戦争を起して、勝利する必要がありました。使徒たちも、聖霊を受ける前は、そのような思いのあったのです。聖霊が注がれて変えられていきました。

 イエス様の時から40年後に、イスラエルの人々は行動していきました。ローマ帝国と戦争状態にあったのです。いわゆるユダヤ戦争です。長い戦いになりました。この戦争の結果、多くのイスラエルの人々が殺されました。また、多くの捕虜になってしまったのです。このユダヤ戦争の結果、イスラエルの人々は約束の地を失いました。世界中に散らされていったのです。歴史を振り返ると、約2000年間、イスラエルの人々は約束の地に戻ることができませんでした。戻ったとしても、今でも争いの中に置かれています。イスラエルの人々とパレスチナの人々の争いは続いています。この争いが1日も早く終ることを祈りたいと思います。

 では、神から出たものとは何でしょうか。このイスラエルの地から始まったイエス・キリストの福音です。2000年の時を経ても続いています。キリスト教は世界中に広がって行きました。この日本にも伝えられて、この愛知県瀬戸市にも伝えられたのです。そして、その地に立っている教会は、毎週日曜日には、神を礼拝し、そして、この地域の人々にイエス・キリストの救いの出来事を語っています。神の業は、イエス・キリストの十字架の出来事、神の愛による働きです。イエス・キリストの十字架の愛は、罪人である私たちの人間の罪を、自らが負ってくださるということ、自らの命を捨てて、私たちに本当の命を与えてくださいました。復活の命を与えてくださったのです。

イザヤ40:8

草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 神の言葉である聖書、これが神から出たものです。永遠に変わることにないもの、神からの愛のメッセージが書かれてある聖書、私たちに神の言葉である聖書が与えられていることに、心から感謝したいと思います。 祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちにある計画や行動、それに対して、人間から出たものと神から出たものを考えてきました。そのことを私たちが区別することはとても困難なことです。どうか、私たちが、人間から出たものと神から出たものを見極めることのできる信仰の知恵を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。ア

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