讃美歌は、231(2)242(2)434(2)91(1)です。無事に配信できますように祈ります。
礼拝説教 マタイ27:15~26「ピラトの決断」 2022.12.4
12月に入りました。今日は、12月の第1日曜日です。待降節第2主日となります。また、1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉を受けて、よりよい1週間の歩みをすることができますように、心から願います。
マタイによる福音書を読んでいます。まもなくイエス様の十字架のことが近づいてきます。今日は、当時のローマ総督ピラトのことを中心にみていきたいと思っています。私たちは毎週の礼拝の中で使徒信条を告白しています。その中に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と、あります。このピラトは、私たちの教会の歩みの中で忘れることができない人になってしまいました。
当時、イスラエルの人々はローマ帝国の支配下にありました。いわれるユダヤ地方はローマ帝国の直轄地になっていました。その責任者がローマ総督といわれる人でした。それが、ピラトでした。ローマ帝国が大切にしていたことは、できるだけ植民地に自由な自治を許していました。その地域が不安定になることを嫌っていました。暴動とか反乱などが起ることは許さないことでした。ローマ総督ピラトの役割は、社会的政治的な暴動が起らないように注意することでした。
イエス様は、過越し祭を祝うために、エルサレムに入られました。そして、祭司長たちや民の長老たちに逮捕されてしました。最初に、大祭司の家に連れて行かれて裁判を受けられました。イエス様を十字架につけるための裁判です。多くの人々がイエス様の不利な情報を話しました。イエス様は沈黙していました。最後に、大祭司が「お前は、神の子メシアなのか」と聞くと、イエス様は「そうである」と答えるのです。これで、神を冒涜したことになり、十字架刑が決まったということですが、当時のユダヤ人には、十字架刑を執行する権利はなく、ローマ総督にあったのです。祭司長たちは、ローマ総督のピラトの許可、つまりイエス様を十字架刑にするということですが、それをもらうために、イエス様をピラトのもとに連れていきました。
ピラトの前で、イエス様は沈黙を守っていました。ローマ帝国には1人の王がいました。ローマ皇帝です。そこで、イエス様はユダヤ人の王として訴えられているのです。祭司長たちや民の長老たちから訴えている間、イエス様は何も答えられませんでした。するとピラトは「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」といっても、イエス様は何も答えなかったので、ピラトは非常に不思議に感じたのです。ピラトは、多くの政治犯といいますか、反乱や暴動を起こす者たちを見て来たのでしょう。自分の目の前にいるイエス様が「ユダヤ人の王」として訴えられていることが不自然に見えたのでしょう。直観として無罪だと感じたのだと思います。この後で、ピラトは、イエス様が無罪になるように努力していきます。
その一つとして、祭りの度ごとに、ローマ総督ピラトは、ユダヤ人が希望する囚人の1人を釈放することをしていました。これも、ユダヤ人から関心をもらうためでした。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいました。このバラバは、ユダヤ人の王として、ローマ帝国に対して、暴動を起し、反乱罪で捕まってしまっていました。バラバが起こした事件は、ユダヤ人の間で有名になっていたのでしょう。自分たちの思いを実現しようとした人であると共感されていたのかもしれません。ピラトは、人々が集まっている時に聞きます。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」と。ピラトはユダヤ人たちが自分にイエス様を引き渡したのは、ねたみだと分かっていたからだということです。
イエス様を無罪にするために、助け船が出てきました。ピラトの妻です。ピラトが裁判についている時に、妻からの伝言で「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨晩夢で随分苦しめられました」いう内容でした。ピラトは、何とか、イエス様を無罪にしたいことがよくわかってきます。しかし、そこまででした。
20節で「しかし」という言葉が出てきます。祭司長たちや民の長老たちの思いはとても強いものでした。彼らはバラバを釈放して、イエス様を処刑してもらうようにと群衆を説得しました。そこでピラトが「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」といいますと、人々は「バラバを」といいました。ピラトは、「では、メシアといわれるイエスの方はどうしたらよいか」と聞きますと、皆は「十字架につけろ」といいます。ピラトが「いったい、どんな悪事を働いたというのか」といいましたが、群衆は聞く耳を持っていませんでした。群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けるのです。
ピラトは、これ以上言っても無駄なばかりか、かえって暴動が起りそうなのを見るのです。ローマ総督ピラトは、イエス様の十字架を決める裁判の中で、自分の良心としては、イエス様の無罪であることは確実なことで、無罪にしたかったのです。ピラトにとって、自分の良心以上に大切なことがありました。それは、自分がローマ総督であり続けることでした。前にもいいましたが、ローマ総督にとって、最も大切なことは、自分の治める地域が平和であることでした。暴動や反乱が起きないことでした。支配地域で、ローマ帝国に対する暴動や反乱が起きることは、その地域を治めるーマ総督がダメであることを示すことになるのです。今や、自分の目の前で、その暴動が起こりそうになっていることをピラトは敏感に感じたのでしょう。
わざわざ水を持って来させ、群衆の前で手を洗っていいました。「この人の血について、わたしに責任はない。お前たちの問題だ」と答えます。ピラトの精一杯の抗議でしょうか。人々はこぞって答えました。「その人の血の責任は、我々と子孫にある」と。そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエス様を鞭打ってから、十字架につけるために引き渡しました。
このピラトの行動について、人間の弱さとは何かと深く感じることができます。ピラトは、自分の良心としてはイエス様がねたみで訴えられていると感じ、十字架刑ではなく、無罪だと信じ、そのように動こうとしました。そのままユダヤ人の思いのようにはさせないと強い思いで進むこともできたはずでした。しかし、これ以上、ユダヤ人たちにいっても無駄だ、かえって暴動が起こりそうになることを感じ、ユダヤ人の暴動が起れば、ローマ皇帝から、ローマ総督の地位を失うかもしれないと感じ、イエス様の十字架刑を承認したかのような行動に出るのです。ユダヤ人の目の前で、水を持って来させ、手を洗い、イエス様の十字架刑の責任は自分にはないと言い切っています。ユダヤ人よ、お前たちの問題だといっています。最後の最後で、ピラトは自分の役割を放棄してしまったかのように見えます。しかし、十字架刑を決めたのはローマ総督ピラトであることには変わることはありません。私たちの告白する使徒信条がいっているとおりです。
このピラトと、私たちは違うのでしょうか。同じだと私は思います。話は変わりますが、今、カタールでサッカーのワールドカップが行われています。私は見ないよという方もいるかもしれません。日本がドイツと戦った時です。勝った時にはとてもうれしかったです。奇跡のような感じがして、興奮してしまいました。しかし、2戦目のコスタリカ戦で負けた時にはショック状態で、もう決勝トーナメントにはいけないと思いました。3戦目のスペイン戦は負けると勝手に思い込み、見ませんでした。ショックが大きいからです。しかし、最後の10分ぐらいから見ていました。勝っていました。何かの間違いかなと思いましたが、そのまま勝ったのです。そして、とてもうれしかったです。このような自分で、非常に自分勝手だなと思います。まあ、スポーツだからいいだろうというのでしょうか。きっと、これは自分のいろいろな人生の場面で出ていると思います。やはり、自分が大切なのです。
前にもいいましたが、イエス様の十字架の死は、誰が主人公かといえば、ユダヤ人ではありません。ピラトでもありません。それは神ご自身です。神の御心によって、御子イエス・キリストが十字架につくことが決まっていました。このイエス様の十字架の死と復活によって、私たちの罪の赦しが完成するからです。イエス様の十字架の死がなければ、私たちの罪の赦し、つまり、私たちの救いの完成はないわけです。イエス様の十字架の死は、神の御心でした。ここにこそ、私たち人間に対する神の愛が現れているのです。今、教会暦はイエス様の誕生を待つ待降節に中にあります。私たちの救いのために来て下さるイエス様の誕生を心から待ち望みましょう。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。イエス様が十字架についてくださることはあなたの御心でした。それは、あなたが私たちを深く愛してくださるからです。罪の滅びることを許さず、罪から解放し、永遠の命を与えてくださるのです。イエス様の救いの出来事を、心静かに待ち望むことができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
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