12月18日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、242(4)403(1)452(1)27です。午後3時より、教会学校のクリスマスがあります。

礼拝説教     マタイ27:32~44「十字架につけられる主」    2022.12.18

 待降節第4主日を迎えました。来週は25日で、クリスマス礼拝となります。イエス様の誕生日を祝うクリスマスを心から待ち望みたいと思います。イエス様が私たちのところに来て下さるのです。素晴らしいことです。

 今日は、クリスマスを前にする日曜日ですが、マタイによる福音書の箇所は、イエス様が十字架におつきになる場面です。十字架につけられる場面です。イエス様ご自身は、自分が十字架につくことをどのように感じ、考えていたのでしょうか。今日は、そのことから考えてみて、イエス様の十字架の場面をみていきたいと思います。イエス様が、この世にお生まれになられたこと、クリスマスの出来事は、十字架を意味していたのです。イエス様が、この世に来てくださったのは、十字架で死ぬためでした。イエス様の生涯は、十字架を目指しての歩みだということになります。イエス様ご自身は、いつごろから、自分の十字架のことを意識していたのでしょうか。

 私たちの罪を救うために、神の働きを始めた時には少なくても意識されていたと思います。イエス様がご自身の十字架をどのように感じていたのかを知る場面があります。

マタイ16:21~25

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

 この場面は、イエス様がガリラヤでの働きを終えて、エルサレムに向かう時です。ここで、イエス様は初めて、自分の弟子たちに、自分の十字架のことを語るのです。最初の受難予告です。このイエス様の受難予告を聞いた弟子たちは、この意味を理解することができなかったと思います。弟子たちが期待していたメシア像とまったく違っていました。弟子たちは、イエス様に力強いダビデのような王を期待していました。それが、エルサレムで十字架につけられることはあってはならないことでした。そのことをペトロがはっきりとイエス様に告げています。すると、イエス様はペトロに対して、激しい言葉を語っています。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。ここで分かるのは、イエス様が動揺していることです。ご自身の十字架のことを、受け止めることができないでいた、ペトロの「あってはならないことです」に、強く反応してしまったのです。十字架から逃げたいという思いが見えてきます。ご自身が、十字架につくことを悩んでいるのです。できれば、十字架につきたくない思いがここでは見えるのです。

マタイ26:36~39

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

 この場面は、ゲツセマネの祈りです。十字架を前にした時です。ここでは、イエス様は十字架から逃げることもできました。しかし、ここで逃げないと十字架につかなければならないのです。イエス様の激しい祈りが見えてきます。悲しみもだえ始めています。近くにいる弟子たちに、嘆願して「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていてほしい」と。そして、イエス様は祈られます。「父よ、できることなら、この十字架をわたしから過ぎ去らせてください。わたしは、十字架につきなくないのです。十字架で死にたくはないのです。苦しいからです。辛いからです。」と、神への祈りで、自分の苦しみを訴えています。イエス様は十字架につきたくない気持ちがあったことは、ここからも分かります。しかし、最後には、「わたしの願いではなく、あなたの御心のままにしてください。わたしは十字架の道を進んで行きます」と、決断されるのです。

 今日の聖書の場面は、イエス様が十字架につけられるものです。ここで忘れてはならないことは、イエス様にとって、十字架につくことは大きな悩みであり、苦しみであったということです。神の御子だから、十字架の死も大丈夫ということはまったくなかったのです。私たちと同じように、十字架にはおつきになりたくないと考えていたのです。そして、そのような行動もありました。その上で、十字架の道を歩まれて行くということです。

 十字架刑が決まって、イエス様は鞭で打たれて、瀕死の状態でした。そして、ローマ兵に侮辱されて、十字架を背負って、刑場まで歩かねばなりませんでした。多くの人々の目にさらさられて、歩かれるのです。途中で、重い十字架を担ぐことができなくなりました。代わりの者がその十字架を負ってくれました。刑場に着きました。最初、苦いものを混ぜたぶどう酒をローマ兵は、イエス様に飲ませようとしました。しかし、なめただけで、飲もうとはされませんでした。そのぶどう酒は、少しでも十字架の苦しみを和らげるためのものでした。それを、イエス様は拒否されたのです。十字架の苦しみを自ら受けようとされています。イエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが掲げられていました。二人の強盗と一緒に十字架につけられるのです。イエス様は中央の十字架につけられました。

 そこを通りかかった人々は、頭を振りながら、イエス様をののしりながら「神の子なら、自分を救ってみろ。そして、十字架から降りて来い」といいました。祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエス様を侮辱して、「他人を救ったのに、自分は救えない。今からすぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と。一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じように、イエス様をののしっています。このイエス様の十字架の姿を見て、イザヤ書を思い出します。

イザヤ53:3~5

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 このイザヤの預言の苦難の僕のように、イエス様は、十字架から降りようとすれば降りることはできました。しかし、降りることをしなかったのです。それは、イエス様の十字架の死によって、私たちの罪のすべてを贖い、赦すためでした。私たちのために、私たちの救いのために、十字架から降りることをしなかったのです。イエス様の十字架のすべては、私たちのためでした。私たちが、罪から赦され、天の国へ招かれ、永遠の命を与えられて、神と共にいるためでした。

ヨハネ3:16

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

祈り 神よ。あなたの愛を、イエス様の十字架の出来事を通して、改めて知ることができました。あなたは、私たち一人一人を深く愛してくださっています。私たちが罪によって滅びることを願ってなく、救われることを考えておられて、大切な独り子を、この世に送ってくださいました。そして、十字架につけてくださったのです。すべては、私たちのためであったことを知りました。深く感謝します。いつも、あなたと共にあることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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