祈祷会 サムエル記上21章「逃げるダビデ」 2025.10.1
イスラエルの王サウルが、命を狙っていることをヨナタンから告げられたダビデは、ここから逃亡生活に入ります。やがて、サウル王の死後に、ダビデはイスラエルの王となっていきますが、王としてふさわしい歩みをするために、逃亡生活という厳しい試練を受ける必要があったのでしょうか。神からの訓練と考えることもできます。
ダビデはサウル王の手から逃げるために、最初に行った場所は、ノブの祭司アヒメレクのところでした。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは「なぜ、1人なのですか。共はいないのですか」と尋ねます。ダビデはアヒメレクにウソをいいます。「王はわたしに1つのことを命じてお前を遣わす目的、お前に命じることを誰にも気づかれるなといわれました。従者たちは、ある場所で落ち合うようになっています」と告げます。更に、ダビデは「何か、パン5個でも手元にありませんか。他に何かあるならいただけませんか」と聞きます。祭司は「普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が身を清めているなら差し上げます」いいます。ダビデは「いつものことですが、わたしが出陣する時は、身を清めています。従者たちも身を清めています」と答えます。祭司は聖別されたパンをダビデに与えました。パンを取り替える日で、焼き立てのパンに替えて、主の御前から取り下げました。この聖別されたパンについて、次のように書かれてあります。
レビ記24:5~9
あなたは上等の小麦粉を用意し、それぞれ十分の二エファの分量の輪形のパンを十二個焼く。それを一列に六個ずつ二列に並べ、純金の机の上に置いて主の御前に供える。各列に純粋の香料を添える。それはパンのしるしとして燃やして主にささげる。アロンはイスラエルの人々による供え物として、安息日ごとに主の御前に絶えることなく供える。これは永遠の契約である。このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである。燃やして主にささげる物のうちで、これは彼のものである。これは不変の定めである。
このレビ記を読むと、聖別されたパンを食べることができるのは祭司だけでした。ダビデは祭司に、パンを求めただけでしたが、祭司が聖別されたパンを渡したのです。祭司アヒメレクは、ここでは律法を破ったことになります。ただ、困窮しているダビデを助けるために、柔軟な対応をしたという前例になっていきます。この出来事が、新約聖書で、イエス様の対応が書かれてあります。
マルコ2:23~28
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
祭司アビメレクのダビデの対応を参考して、イエス様は、ある安息日に弟子たちは空腹だった時に、麦畑で歩きながら麦の穂を食べたことを批判するファリサイ派の人々に答えています。
ダビデは更に「ここに槍か剣はありますか。王の要件が急だったので、自分の剣も武器も取って来ることができなかったのです」と祭司に願っています。祭司は「あなたが討ち取ったペリシテ人ゴリアトの剣がある」と答えます。ダビデは、ゴリアトの剣を手にすることができました。サウル王のもとから逃げて行くダビデは食糧と武器を手に入れることができました。それでもダビデは安心することはできませんでした。ダビデは、その日のうちに、サウルから逃れ、ガドの王アキシュのもとに行きます。何と敵であるペリシテ人の陣地に逃げて行くのです。ペリシテ人の地に行けば、ひとまず安心だと思ったのでしょう。それだけ、ダビデは追い詰められていたと考えられます。しかし、ペリシテ人としては適いません。イスラエルの戦いが続いている中で、最も恐れるべき敵はダビデだったからです。そのダビデが、ゴリアトの剣を持って、自分たちの陣地に来たのですから、警戒することになります。
アキシュの家臣は、すぐにダビデだと分かりました。ダビデはそのことを知って、ガドの王アキシュを大変恐れます。そこで、ダビデは人々の前で変わったふるまいをします。ペリシテ人に捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らし、城門の扉をかきむしったりしました。アキシュはダビデが狂ったものだと思い込み、遠ざけました。ダビデは危機を乗り越えることができました。この時の出来事をダビデは詩編34編、56編で歌っています。ダビデの神への信仰が出ています。
ダビデのこのような試練は、後のダビデ王として歩むために必要なことだったのでしょう。神に祝福されながらも、自分の命が狙われているという危機を感じ、苦しみつつ、神に対する信仰は深まっていくのです。私たちの歩みの様々な試練の中にあります。神よ、どうしてですかと問いたくなる時もあります。きっとその試練は、私たちが神への信仰を深めることが必要なことなのでしょう。そのような思いを持って歩むことができれば、今の試練は少し軽いものとなるかもしれません。
祈り 神よ、聖書の学びと祈りとの時を与えてくださり、ありがとうございました。ダビデの逃亡生活についてみてきました。私たちが厳しい試練の中にあって、神を信じていく大きな導きを感じることができますように見守ってください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


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