祈祷会 士師記1:1~21「ヨシュアの後で」 2024.5.8
ヨシュア記の学びを終えて、今日から士師記の学びに入っていきます。士師とは「さばきつかさ」といわれています。指導者ヨシュアがなくなってから、サムエルの時代に、サウル、ダビデ、ソロモンとイスラエルの国家ができるまでの間、イスラエルでは士師が活躍していきます。士師はイスラエルの人々の中では、戦いの時には軍事的な指導者であり、平時には政治的宗教的な指導者ということができます。
ヨシュア記23章には、ヨシュアの告別の言葉が書かれてありました。その内容は、①神はイスラエルの人々を守り導いてくださった。②だから、神の教えを忠実に守り、実行することが大切である。③イスラエルの人々の中にいる先住民と交わってはいけないこと、それは、先住民の拝んでいる神々を拝むようになり、神から離れてしまうことになるから、ということでした。それで、ヨシュア記24章のシケムの契約では、イスラエルの人々は何度もヨシュアに、「わたしたちは神に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」と告白しています。でも、ヨシュアは人々に「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼしつくされる」(19~20節)と警告しています。
士師記1章の最初で、「ヨシュアの死後」となっています。イスラエルの人々は新しい段階に入っていきます。ヨシュアの時代が終わり、士師の時代に入っていくのです。ヨシュア記は、イスラエルの人々が、神が与えてくださる約束の土地を手に入れることと、土地を部族ごとにくじ引きで分けて住むことが書かれてありました。神への信仰的な表現では、神は完全に先住民を追い出してくださり、イスラエルの人々のものとなったとあります。しかし、現実は多くの先住民が残っていたのです。士師記の1章にもカナン征服のことが書かれてあります。ヨシュアの死後、イスラエルの人々は、主に問うていいます。「わたしたちのうち、誰が最初に上って行って、カナン人を攻撃すべきでしょうか」と。それで、ユダ族が行くことになりますが、シメオン族の人々にも声をかけて、一緒に戦いに出て行くことが書かれてあります。
実は、この士師記1章の内容は、ヨシュア記15章と同じ内容になっています。士師記1:1で、「ヨシュアの死後」とありますので、その後かと考えますが、そうではなくて、ヨシュアがまだ生きていた時の内容なのです。特にヨシュア記15:13~19の内容です。主の命令に従って、ヨシュアはカレブにヘブロンを与えています。カレブはアナク人の子孫の3氏族を追い出してヘブロンを自分の手で得たことになります。次に、デビルを攻めるのですが、カレブ自身、高齢のためにデビルを攻め落とすことが困難に見えて、カレブは「デビルを撃って占領した者には、娘アクサを妻として与えよう」と約束します。するとカレブの兄弟ケナズの子オトニエルがそこを占領しました。カレブは娘アクサを妻としてオトニエルに与えています。結婚した後で、娘アクサは父カレブから、ネゲブの地の上と下のため池をもらいました。
また、ヨシュア記15:63では、ユダの人々はエルサレムの住民エブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの人々と共にエルサレムに住んで今日に至っているとなっています。約束の土地において、イスラエルの人々は、多くの先住民を追い出すことができず、一緒に住むようになっているのです。ヨシュアがイスラエルの人々に警告したように、この近くに住んでいる先住民が、イスラエルの人々を苦しめることになっていきます。
今後の士師記の学びのことで、士師として有名なのが、ギデオンやサムソンだということができるでしょう。士師は全部で12人いるのですが、これもイスラエルの12部族と重ねているのだと思います。士師記の神学といっていいと思いますが、次のような流れになっていきます。イスラエルの人々が神から離れて、先住民の神々を拝んでいきます。すると外敵がイスラエルの人々を襲って来ます。外敵として、アンモン人やペリシテ人が有名です。外敵によって、イスラエルの人々は苦しい状況になります。すると、イスラエルの人々は、その苦しみから神に助けを求めます。神への悔い改めが起って来ます。神は、救助者として士師を送り出します。士師が現れて、イスラエルの人々を助けます。士師の活躍によって、イスラエルの人々は平和で豊かな生活に戻って行きます。士師は死んでいきます。また、この平和と豊かな生活の中で、イスラエルの人々は神を忘れ、外国の神々を拝むようになります。すると、神は怒り、外敵を送って、イスラエルの人々を苦しめます。その外敵の苦しみがあって、イスラエルの人々は神の助けを求めて行きます。このような流れが繰り返し繰り返し起って来ます。
この士師記の神学をみてみると、私たちの生活にも関わってきます。私たちの人生の中では困難や悲しみや悩みがあります。このような人生の苦しみはなぜ起って来るのでしょうか。その答えの1つとして、人生の苦しみを通して、神と出会うことができるということです。人は苦しみを通して、神を求めていくということにつながっていきます。実際に、私たちはこの苦しみの意味をどう考えるのでしょうか。
祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。士師記の学びに入りました。ここでは、罪深い人間が、いかにして神を求めることができるかということだと考えます。人生の歩みの中で順調な時には、人は神を求めることはしません。苦しい時、辛い時に、人は神を求めます。人の苦しみの意味を考えてしまいます。どのような時でも、神を信じ、求めていくことができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)
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