4月26日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会      申命記15章「貧しい者に対する愛の行為」     2023.4.26

 神は、イスラエルの人々を神の民としての契約を結びました。エジプトを出たイスラエルの人々は、40年の荒れ野の旅を終えて、今や、神が与えてくださる約束の土地を目の前にする所までやって来ました。ここで、指導者モーセが、イスラエルの人々に約束の土地に入って神の民として生きるこの意味を語っているのが申命記の内容です。約束の土地において、神の民として生きることは、神が与えてくださった神の教えを守って生きていくことです。神の教えとは、神を愛することと隣人を愛することです。十戒に、その内容が具体的に示されています。今日の申命記15章も、神の教えが具体的なこととしていわれています。神を愛し、隣人を愛していくことです。ここでは特に、貧しい者に対する配慮が書かれてあります。

・15:1~11、負債の免除

 神の民として生きるイスラエルの人々の中でも、貧しい者はいたのです。貧しい者は、生きていくために他の人々に負債を負わなければならない時がありました。その負債(借金)は、本来なら返さなければならないものです。しかし、貧しさのゆえに返すことができない場合があります。そのような時にどうするかですが、7年目ごとに負債を免除することが求められています。イスラエルの人々の中で、誰でも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならないのです。同胞である隣人から取り立ててはならないといわれています。その理由として、主が負債の免除を布告されたからです。神の意志なのです。ここでは、外国人から取り立ててもいいが、同胞である時には負債を免除しなければならないのです。

 主は、イスラエルの人々に与える土地において、必ず祝福されるから、貧しい者はいなくなるといいます。そのためには、イスラエルの人々は主の教えに必ず聞き従い、すべての教えを忠実に守ることが求められています。更に、主はイスラエルの人々を祝福されるから、多くの国民に貸すようになるといいます。逆に借りるようになることはないともいいます。多くの国民を支配するようになるが、支配されることはないともいいます。

 また、主が与えられる土地で、どこかの町の貧しい同胞が1人でもいるなら、イスラエルの人々は、手を大きく開いて、必要とする物を十分に貸すように与えなさいといいます。「7年目の負債免除の年が近づいた」からといって、貧しい人を見捨て、物を断るようなことのないように注意しなければならないのです。貧しい者があなたを主に訴えると、あなたは罪を問われることになると忠告しています。貧しい者に必ず与えなさいといいます。また与える時は、心に未練があってはならないといいます。このために、主は、あなたの手の業をすべて祝福してくださるというのです。この国から貧しい者がいなくなることはないだろうとあります。この内容は、前の4節「貧しい者はいなくなる」ということと矛盾しています。それは、イスラエルの人々が完全に、主の教えを守ればという意味で使っていると思います。ここで、強調されていることは、イスラエルの人々の中で、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく広げなさいということです。

・15:12~18、奴隷の解放

 神の民として生きるイスラエルの人々の中にも、奴隷はいたのです。それが現実だったのでしょう。その現実に目を向けていわれている内容です。イスラエルの人々の中で、男性や女性か、あなたのところに売られて来てと、あります。イスラエルの人々の中で、貧しさがあったのです。貧しさの中で、物を売ったのでしょう。でも、それでも、生活に困り、自分自身を奴隷として、他人に売るしかない貧しさがあったのです。人の歴史の中で、奴隷との歩みというのはどのようなものだったのでしょうか。今日でも、奴隷というものがあるのだと思います。ある家に、同胞の男性や女性が売られて来て、6年間奴隷として仕えたとします。7年目には、自由の身としてその家を去らせることになります。自由の身となることができるとされています。その時には、羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさいといわれています。それらの物は、主によって与えられたものだから、彼に与えなさいといいます。

 もし、その奴隷が、その人と家族を愛し、その人と共にいることを喜び、「わたしはあなたのもとから出て行きたくありません」という場合、その人は錐を取り、彼の耳たぶを戸につけて刺し通すことになります。こうすることで、彼は終生、その人の奴隷として生きることができるといいます。女性の場合も同じことになります。自由の身として、人の家を去る時は、厳しくせず、やさしくするようにといいます。主は、その人の行うすべてを祝福してくださるのです。

・15:19~23、初子の規定

 牛や羊の初子は皆、主に奉献することになります。牛の初子を仕事に使ってはならないのです。羊の初子の毛を刈ってはならないのです。主のみ前で、年ごとに、主が選ばれる場所で、家族と共に食べるのです。初子の足や目、他のどこかに大きな傷があれば、主のささげものとすることはできません。かもしかや男鹿の場合と同じに、どのような者も皆で、町の中で食べることができるといいます。ただし、その血を食べることはできず、水のように地面に注ぎ出すことになります。貧しい者への配慮というのが、丁寧にいわれています。7年目に負債の免除、奴隷の解放など、そして、貧しい者へいかにやさしく対応すべきかがいわれています。今日でも、この内容は素晴らしいものです。イエス様も「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マタイ26:11)といわれています。私たちには、信仰と行いの問題があります。これをどのように考えればいいのでしょうか。

ヤコブ14~17

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。貧しい者への配慮がいかに素晴らしいものであるかを知ることができました。この内容を、私たちの信仰生活の中でいかに考えていけばいいのでしょうか。良い知恵を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)

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