12月14日の礼拝の内容です。讃美歌は、242(3).241.466.483.24です。
礼拝説教 使徒20:13~16「エルサレムをめざして」 2025.12.14
イエス・キリストの誕生を待つアドベント第3主日を迎えました。来週はクリスマス礼拝となります。クリスマスを毎年毎年お祝いしています。同じクリスマスですが、その時その時によって、いろいろな思いで過ごしていると思います。今日は、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださった神の思いを考えていきます。どんな思いで神は、私たちにイエス・キリストを送ってくださったのでしょうか。私たちが大切な人にプレゼントをする時に、どんな思いでプレゼントを選び、送るのでしょうか。
私はこの礼拝の中で使徒言行録を読んでいます。今日の聖書の箇所は、パウロの第3回伝道旅行の後半の部分です。私たちが持っている聖書の後ろの聖書地図があり、8.パウロの宣教旅行2・3を見てください。トロアスからミレトスまでの部分です。地図では短く感じます。この時に、使徒言行録の著者であるルカも同行しています。
使徒20:13~14
さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。
ルカは他の仲間と共に船でトロアスからアソスまで船で航行していることが分かります。しかし、パウロだけは、このトロアスからアソスまで徒歩で旅行していると書いています。パウロ自身が徒歩で移動することを他の仲間たちに伝えているとルカはいっています。そして、アソスで合流し、パウロも船に乗って移動して、次の場所に行っています。パウロはここでなぜ、徒歩で移動しているのでしょうか。トロアスからアソスまでどのくらいの距離だったのでしょうか。地図を見るとそれほど距離はないように見えますが、実際歩いていくとまた違った印象を持つかもしれません。問題は、なぜパウロは徒歩で行ったのかということです。
この時に、パウロは旅を急いでいたことが分かります。「パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。」(16節)とあるように、五旬祭、つまりペンテコステまでにはエルサレムに行きたかったのです。パウロはこの伝道旅行で、それぞれの伝道地の人々に、貧しかったエルサレム教会への献金をお願いしていました。その献金をパウロと7人の仲間で、直接エルサレム教会に届ける計画を立てていたのです。ペンテコステには、ユダヤ人の祭りですから多くの人々がエルサレムに集まっている、祭りの時でもあるので、区切りとしてそのようにしたかったのでしょう。
パウロの伝道旅行ですが、まもなく3回に渡る伝道旅行を終えようとしています。次には、ローマに行く計画を立てています。「わたしはそこに行った後、ローマを見なくてはならない」(使徒19:21)といっています。そのローマ行きの目的は、イスパニアへの伝道です。でも、実際には、この後でエルサレムに行きます。そこでユダヤ人から逮捕されて、囚人としてローマに行くことになります。そして、ローマでパウロはその生涯を閉じることになっていきます。使徒20章では、この後で、パウロはミレトスで、エフェソの教会の長老たちを呼んで、大切な話をしています。それは今後の予定、エルサレム行き、それがいかに困難な旅になるかを伝えています。
使徒20:22~24
そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
パウロのエルサレム行き、エルサレム教会に献金を届けることですが、実際には投獄と苦難が自分を待ち受けていることを認識しています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、神の恵みの福音を伝えることを強く決心しています。パウロは、自分がこれから行くべき道、イエス・キリストを伝えていくこと、それがいかに投獄と困難があっても進んでいくとあります。そうであっても、心の中では深い動揺があったと思います。そのために、1人になる時間が欲しかったのです。トロアスからアソスを徒歩で行くことによって、限られた時間ですが、1人になって神と向き合う時間だったのです。1人で歩きながら、これから自分に起ることを想像し、その苦難を乗り越えていく力を、神からいただいているのです。
これは、イエス様の十字架を前にしたゲッセマネの祈りに似ていると私は思います。私たちの罪を贖うために、自らが十字架につくことを考えての祈りです。ここにイエス様の苦しみが出ています。
ルカ22:42~44
父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
イエス・キリストが十字架を前に、ゲッセマネで祈られました。この祈りがいかに苦しいものであったのか私たちは想像することができると思います。イエス様は神に祈りながら、苦しみもだえ、いよいよ節に祈っています。汗が血の滴るように地面に落ちています。私たちの想像以上に、苦しく辛いことだったのです。イエス様は十字架の上で祈られました。
マルコ15:33~34
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」私たちは、このイエス様の十字架の叫びをどのように聞くのでしょうか。神の子が、父である神に向かって、祈り叫んでいるのです。私たちも人生の中で、神を信じながら、人生における不条理を受けることがあります。突然に、重い病気になる。突然、地震や津波、火事や事故によって命を落としてしまう。どうしても受け止めることができない状況が生まれることがあります。「どうしてですか。なぜですか。どうして、私がこのような試練に合わなければならないのですか」など、祈る時が起って来ます。私たちのすべてのそのような苦しみの叫びを、イエス様が自ら負ってくださって、祈ってくださっているのが十字架上の祈りです。
では、神ご自身は、イエス様の祈りをどのように受け止めておられるのでしょうか。それは、私たちには分かることができないことです。ただ、分かることは、神は私たちを愛してくださっているということです。
ヨハネ3:16~17
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
この聖書の言葉によって、私たちは神の愛を知るのです。イエス・キリストを私たちの住む世界に送ってくださった。それは、イエス・キリストを十字架につけるためでした。私たちを深く愛し、私たちの罪を救うためです。私たちの復活の命、永遠の命を与えるためです。
祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。アドベント第3主日を守ることができました。来週はクリスマス礼拝です。イエス・キリストが誕生してくださる。その誕生は、私たちの罪のために十字架につくためでした。あなたの思いを考えます。あなたの深い愛に、本当に気づくことができますように導いてください。クリスマスを心からお祝いすることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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