2月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.210.493.497.78.24です。
礼拝説教 使徒21:1~6「ひざまずいて祈る」 2026.2.1
先週行われた教会懇談会を振り返ってみたいと思います。今年度の教会懇談会は、教会員から希望があり、テーマが「葬儀について」ということになりました。7月に行われた懇談会で、私は最近に行われた葬儀の実例を通して考えてみました。この時に反省として、聖書から葬儀について学びたいということと、時間が足りなかったということで、聖書から死について学び、昼食をとりながら、ゆっくりと話す時間を持ちました。参加された皆様はどのような感想をお持ちでしょうか。私たちが死を考える時に、死は2つの意味があります。1つは、自然の死です。生きている者として、いつかは死を迎える時が来るということです。これは、人だけではなく他の動物も植物も同じです。もう1つは神との関係です。これが聖書から死を考えることになります。聖書からみると、神は私たち人間を創造されました。完全な創造であり、この時に人には死は存在していなかったのです。人は神から食べることを禁じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そこから、人に罪が入って来て、罪の結果として死が入って来たのです。このようにして、人は神に対して罪を犯したために、死ぬべき者となりました。
神はやがてこの地上の世界を終りにし、新しい世界を造られるのです。この世の終りがやって来ます。その時に、すべてこの世に生きていた者はよみがえらされて、最後の審判に臨むことになります。その人は生きている時にどのように生きていたかによって神の前で裁かれるのです。ある者は神の救いに入り、ある者は神の裁きにあうことになります。神の救いに入るためには、人は自分の努力では入ることはできません。そこで、神の子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、3日目によみがえってくださいました。そのイエス・キリストの十字架は、私たち人間の罪のすべてを解決してくださるものでした。このイエス・キリストの十字架の死と復活が、自分の罪の赦しであり、永遠の命が与えられることを信じる者だけが、神の救いに入ることができるのです。イエス・キリストの再臨があり、神の前での最後の審判の後で、神の救いに入った者は、神が新しく造ってくださった神の国に入ることが許され、永遠の命が与えられて、神との共にあることができるのです。自分たちの葬儀を考えることから、人の死を聖書から学ぶことによって、罪からの解放、死からの解放が、イエス・キリストの十字架から来ることを確認することができました。
使徒言行録に入っていきます。パウロは、このイエス・キリストの十字架の救いを伝えるために、伝道に励んでいます。ここではパウロの第3回伝道旅行もまもなく終えようとしています。聖書地図8・パウロの宣教旅行2.3を見ると、その行程が分かります。ミレトスでエフェソの教会の長老たちと最後の別れをして、コス島、ロドス島、パダラ、そしてシリア州のティルスに到着していきます。パウロは旅を急いでいました。それは、各地の教会で集めたエルサレム教会への献金を直接、エルサレムに行って届けたいと考えていました。五旬節までにはエルサレムに行きたいと願っていたからです。
パウロのエルサレム行きは命がけでした。パウロ自身も、「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています」(使徒20:23)といっています。パウロはエフェソの教会の長老たちに「あなたがたが皆もう2度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」と告げています。シリア州のミレトスで、パウロたちはキリスト者たちを探しています。パウロらはすでにこのミレトスではキリスト者の群れがあることは知っていたのでしょう。ここでパウロたちは1週間過ごすことになります。初めての場所でも、キリスト者の交わりをすることができたのでしょう。初対面であっても、イエス・キリストの交わりです。その時に、ミレトスのキリスト者たちは、パウロのエルサレム行きを止めようとしています。彼らは、霊に、動かされて、パウロのエルサレムに行かないようにいうのです。
考えてみれば、不思議な話です。パウロがエルサレムに行くことは聖霊の導きによるものでした。でも、このミレトスでは、ミレトスに住むキリスト者たちは、聖霊に導かれて、パウロにエルサレムに行くことを止めるようにいうのです。聖霊のいうことが2つあるのです。このことをどのように理解したらいいのか難しい問題です。人間的な視点では、パウロのエルサレム行きには、命の危険があるので止めるようにということはよく分かります。一方で、パウロは、貧しいエルサレム教会のために集めた献金、パウロ自身が献金を呼びかけたこともあって、自分自身が責任を持って、エルサレム教会の人々に直接に届けたいという思いも分かります。パウロはミレトスのキリスト者の思いを受け止めつつも、エルサレムに向かおうとしています。滞在期間が過ぎた時に、旅を続けることになります。ミレトスのキリスト者たちは、妻や子どもたちも連れて来て、町外れまで見送りに来てくれるのです。キリスト者の交わり、家族を交えた交わりであったのがよく分かります。そして、共に浜辺にひざまずいて祈るのです。ひざまずいて祈り合う、ここに深い交わりがあることを感じます。互いに別れの挨拶の後、パウロたちは船に乗り込み、ミレトスのキリスト者たちは自分たちの家に帰って行きます。
この後、パウロたちはエルサレムへ行き、逮捕されます。囚人としてローマにまで行くことになります。パウロがローマについてから使徒言行録は終っていきます。パウロの歩みを見ていると、イエス様の最後の場面とよく似ていると感じます。イエス・キリストがエルサレムに行き、そこで逮捕されて、裁判にかけられて、十字架刑が決まります。イエス・キリストもエルサレムでは命の危険といいますか十字架刑が待っていたのです。十字架を前にしたゲッセマネの祈りがあります。
マタイ26:39
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
イエス様は、3人の弟子たちを連れて、ゲッセマネで祈りました。十字架を前にした祈りです。イエス様は悲しみもだえ始めていきます。自分は死ぬばかりに悲しいと弟子たちに訴えています。イエス様は、最初に、神よ、できることなら、この十字架をわたしから過ぎ去らせてくださいと祈っています。十字架につきたくないといっているのです。それは、人間的にとても辛い苦しいことだからです。神の子であっても人間としての辛さがあるので、避けたいと願っています。しかし、です。次に、イエス様は、わたしの思いではなく、神の御心のままになさってくださいと祈ります。
パウロ自身も、イエス様と同じような祈りをしていたと思います。できれば、エルサレムには行きたくない。どうか、この杯を去らせてくださいと祈ったのでしょう。でも、それ以上に、神の御心が、自分にエルサレムに行くように導いていることを知って、受け止めて、エルサレムを目指して歩んで行こうとしています。パウロはエルサレムに行きます。そこで、ユダヤ人から逮捕されて、苦しい裁判を受けて、殺されそうになりながらも、聖霊に守られていきます。やがて、囚人としてローマまでに行き、そこでパウロの働きも終えることになります。
振り返ると、イエス様のゲッセマネの祈りは、ひざまずいた祈りは誰のためだったのでしょうか。それは、私たちのためでした。私たちの罪をすべて解決するために、十字架で死ななければならなかったのです。パウロのひざまずいた祈りは誰のためだったのでしょうか。それも、私たちのためでした。すべての人々の罪の赦しを伝えるためだったのです。私たちは死ぬべき存在です。でも恐れることはありません。死は解決されているのです。イエス・キリストの十字架によって、罪からの救い、死からの解放がなされています。パウロのひざまずいた祈りによって、イエス・キリストの十字架の福音を、私たちは聞くことができたのです。神は、イエス・キリストにあっての十字架、その十字架を伝えたパウロ、そして多くの伝道者、キリスト者の手によって、福音は伝えられて、私たちは教会に招かれ、キリスト者として歩むことができています。今度は、私たちの手によって、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。
祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活の福音を聞き、救いを受け取ることができました。深く感謝します。今度は、この福音を隣人のために伝えていくことができますように導いてください。弱い私たちを励ましてくださり、救いの喜びを伝えていく勇気と実行力を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


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