1月16日の礼拝の内容です。

empty highway overlooking mountain under dark skies 礼拝
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讃美歌は、510(1)521(1)です。教会の増改築工事は3月末で完成予定です。

礼拝説教       マタイ21:33~46「ふさわしい実を結ぶ」    2022.1.16

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉をいただいて、素敵な1週間を過していきたいと願っています。新型コロナウィルスの感染が急拡大しています。新しい株による影響だと思いますが、一日も早い収束を祈ります。

 マタイによる福音書を読み続けています。マタイ21章からは、イエス様のエルサレム入城から始まっています。これからイエス様は十字架を目指して歩みを続けていきます。十字架の時はもうすぐです。イエス様がエルサレムに入られ、神殿の境内で、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。その時に、イエス様は「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきなのに、あなたがたは強盗の巣にしている」と強く非難しました。この避難の相手が、神殿の管理者だった祭司長や民の長老たちでした。

 イエス様に批判された祭司長や民の長老たちは、すぐに来て、「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威をあたえたのか」と迫って来ました。すると、イエス様は、彼らに問い返して、「ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」といいます。彼らは、イエス様に「わからない」と答えています。神殿の管理者だった祭司長や民の長老たちが、気にしていたのは神ではなく、群衆の目でした。イエス様と祭司長と民の長老たちとの激しいやり取りが続きます。イエス様は、この祭司長と民の長老たちに、3つのたとえを語ります。最初が、「二人の息子」のたとえでした。ある人に、二人の息子がいました。兄と弟です。ある人はこの兄と弟に「子よ、明日、ぶどう園に行って働きなさい」といいます。すると兄は、「いやです」と答えましたが、後で考え直して、出かけて行きました。弟は「お父さん、承知しました」と答えましたが、出かけませんでした。イエス様は、このたとえで、兄は当時の社会で嫌われていた徴税人や娼婦たちで、ヨハネの言葉を信じた。弟は祭司長と民の長老たちだといい、ヨハネの言葉を二度も聞くチャンスがあったのに、それでも聞こうとしなかったと強く批判するのです。

 そして、2回目のたとえが、今日の聖書の内容になります。「ぶどう園と農夫」のたとえです。このたとえ話を聞く時に、イエス様が話しているのが、まもなく十字架につけようとしている祭司長や民の長老たちであることを確認したいと思います。たとえ話が始まります。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中にしぼり場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出ました。このような話は、当時のイスラエルの人々には当たり前の日常だったのでしょう。しかし、私たちにはなかなか理解するのが難しいものです。昔の日本の地主と小作人のことでしょうか。地主が土地を持っていて、小作人がその土地を借りていて、農業をするということです。地主の力がとても強く小作人は立場が弱いものだったと思います。イスラエルでも同じようで、ぶどう園の主人はとても強く、その土地でぶどうを作っている農夫はとても立場の弱い者でした。しかし、イエス様のたとえでは、このぶどう園の主人は気前がよく、非常に寛容で、農夫たちを信用していたような感じです。

 さて、収穫の時が近づいてきました。収穫を受け取るために、主人は僕たちを農夫たちのところに送りました。けれども、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、1人を袋だたきにし、1人を殺し、1人を石で打ち殺しました。普通なら、これだけでも主人は行動すると思いますが、この主人は行動しないで、僕を送り続けます。けれども、農夫たちは、同じように殺してしまいました。そこで、最後に主人は「わたしの子なら敬ってくれるだろう」といって、自分の息子を送りました。農夫たちは、その息子を見て話し合います。「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」といって、息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまったというたとえ話でした。

 イエス様はたとえ話を終えて、祭司長や民の長老たちに「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と聞くのです。すると彼らは「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに貸すに違いない」と答えます。

 更に、イエス様は続けます。聖書に書いていることを読んだことがないのか。「家を建てる者の捨てた石、それが隅の親石になった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」という旧約聖書の言葉を引用していうのです。そして、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまうだろうと、強くいいます。イエス様にここまでいわれて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、このたとえが自分たちに向けていっていることに気づきます。彼らは、イエス様を捕えようとします。しかし、群衆の目に気になりました。群衆は、イエス様のことを預言者だと思っていたからです。

 この「ぶどう園と農夫」のたとえは、イエス様と祭司長と民の長老たちとの対立の中で語られています。まもなく、イエス様の十字架の時は近づいています。その時はまもなくです。このたとえで、ぶどう園の主人は神であり、農夫はイスラエルの人々です。旧約聖書におけるイスラエルの人々の歩みを語っています。その歩みは神に従わず、罪を犯し続ける姿です。それでも、神はイスラエルの人々のところに神の僕である預言者を次々に送るのです。神は忍耐されるお方です。そして、最後には、神の独り子であるイエス・キリストを送るのです。主人は息子を送れば、敬ってくれるだろうといっていますが、息子は捕まり、ぶどう園の外に放り出して殺されてしまいます。そうです。イエス様は、彼らに捕まり、十字架の道に導かれるのです。

 イエス様と対立している祭司長や民の長老たちは、ふさわしい実を結ぶことができなかったということになります。でも、実は、ふさわしい実を結ぶことができたのです。それはどういうことかをいいますと、祭司長たちファリサイ派の人々は、イエス様を十字架につけることがふさわしい実を結ぶことになるのです。イスラエルの人たちが、本当に救われるためには、神の子であるイエス・キリストが十字架について、罪の贖いをしてくださらなければ、罪の赦しはないのです。

 旧約聖書を祈祷会では読んでいますが、いかに人間が罪深いのかが書かれてあります。そして、罪が赦されるためには、命の贖いが求められています。神に自分の命をささげることです。そうしてしまうと人の救いがなくなるので、家畜によって、罪の贖いがゆるされていました。旧約聖書では、繰り返し、家畜による罪の贖いが何度も行われています。それは不完全な罪の贖いでした。神は完全な罪の贖いを備えてくださっていました。それが、神の子であるイエス・キリストが十字架につくということです。悲しいかな、イエス様が十字架についてくださらなければ、私たちすべての罪の赦し、罪の贖いはないのです。イエス・キリストは、私たちの罪の赦しのために、十字架につくために来られたのです。

 イエス様と祭司長と民の長老たちとの戦いが続いていきます。それは、イエス様の十字架を近づけるものでした。十字架の覚悟を持ちつつ、イエス様は対応されています。そして、自分を十字架につけようとしている祭司長と民の長老たちとファリサイ派の人々を深く愛されているのです。だからこそ、このような強い言葉になっているのです。ここにおいて、私たちはいったい、どこにいるのでしょう。祭司長と民の長老たちと一緒にいるのです。私たちの罪が、イエス様を十字架につけてしまうのです。逆に、そのことが私たちの罪の完全な赦しになっているのです。死からのよみがえり、天の国に入り、永遠の命が与えられるのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができますことを心から感謝します。イエス・キリスト、このお方が私たちのすべての罪の赦しのために、十字架にかかってくださったのです。私たち自身で、神の御心に適うふさわしい実を結ぶことはできません。あなたの一方的な恵みによって、このふさわしい実を結ぶことができるようにしてくださるのです。イエス様の十字架を仰ぎ見て歩むことができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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