5月1日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、433(1)461(1)です。5/3に教会で結婚式があります。祝福をお祈り下さい。

礼拝説教       マタイ23:37~39「羽の下に集められる」    2022.5.1

 5月に入りました。5月の最初の日曜日、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。神の御言葉を受けて、よりよい1週間を歩んでいきたいと願います。

 イエス様はまもなく十字架の時を迎えようとしています。ご自身の死が近いことを感じています。それまで律法学者やファリサイ派の人々と激しい論争を続けていました。そして、彼らに対する厳しい言葉を語っていました。そのことをイエス様は深く嘆いておられます。

マタイ23:37

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前たちの子らを何度集めようとしたか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」

 イエス様が、ここでエルサレム、エルサレムと呼びかけていますが、これはイスラエルの人々、特に、対立している律法学者たちやファリサイ派の人々のことを指しています。イスラエルの人々は、神の民として特別に選ばれました。それは、イスラエルの人々が救われることによって、すべての人々が救われることになるためでした。イスラエルの人々の役割はとても大切なものでしたが、実はそれと反対の歩みでした。どれだけ、神に従わず、逆らってきたのかを聖書全体とみると明らかになってきます。いくつかをみていきたいと思います。

 出エジプト記32章には、金の子牛の物語が書かれてあります。長くエジプトに住んでいたイスラエルの人々は、激しい労働に苦しんでいました。その苦しみを知った神は、モーセを遣わし、イスラエルの人々の苦しみを解放するために、エジプトから脱出させました。そして、シナイの荒れ野に来て、神はイスラエルの人々と特別な契約を結ばれたのです。それは、神がイスラエルの人々の神になるということでした。またイスラエルの人々は、神の民になるということでもありました。イスラエルの人々が神の民になるということは、神の御心に従うことが求められています。神の教えが、つまり律法が与えられました。神の民として生きることの具体的なことが書かれてありました。十戒が与えられたのです。神はシナイ山の山頂でモーセを通して、イスラエルの人々に、十戒が書かれた2枚の石の板を授けてくださいました。

 その祝福の時に、シナイ山のふもとでは、モーセが帰って来ないと訴える声があり、また自分たちの神を造ってほしいということで、エジプトで拝んでいた金の子牛の像をつくり、拝むようになってしまったのです。簡単に、エジプトから強い御手で導いてくださった神を忘れて、違った神を拝んでしまいました。「あなたはいかなる像を造ってはならない」という十戒の教えを破ってしまったのです。

 民数記13~14章には、エジプトを出たイスラエルの人々が、荒れ野の旅を続けていく中で、目的地である約束の地を目の前にする所までやって来ました。そのまま入れば、目的は実現するはずでした。その時に、イスラエルの人々は約束の地を知るために、偵察隊を送りました。これから入って行く約束の地を事前に良く知ることは大切なことでしょう。偵察隊が戻って来て報告する時に、「約束の地は良い土地である。乳と蜜の流れる地、地の産物も良く取れるとぶどうの枝を取って来たのです。しかし、約束の地に住む人々は巨人でとても強く、自分たちが入って行き戦えば負けてしまう。だから入るべきではない」といったのです。

 一部の人々は、約束の地は素晴らしい土地であり、そこに住む人々は強く巨人である。しかし、神が共にいて戦ってくださるはずだから、必ず勝利をする。だから約束の地に入るべきだといったのですが、人々は反対し、その人々を石で打ち殺そうとまでなってしまいました。この時に、神は出て来て、激しく怒り、入ることを拒否した人々、すべての人々が荒れ野で40年間さまようことになるといいました。それで、イスラエルの人々は、荒れ野の旅を40年間もさまようことになってしまったのです。

 マタイ23:37に「預言者たちを殺し」とありますが、預言者とは神の言葉をイスラエルの人々に語る役割を与えていました。多くの預言者が神の厳しい言葉を語ることになりました。その1人のエレミヤを取り上げてみたいと思います。

エレミヤ32:1~5

主からエレミヤに臨んだ言葉。ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドレツァルの第十八年のことであった。そのとき、バビロンの王の軍隊がエルサレムを包囲していた。預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある獄舎に拘留されていた。ユダの王ゼデキヤが、「なぜ、お前はこんなことを預言するのか」と言って、彼を拘留したのである。エレミヤの預言はこうである。「主はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する。ユダの王ゼデキヤはカルデア人の手から逃げることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、王の前に引き出されて直接尋問される。ゼデキヤはバビロンへ連行され、わたしが彼を顧みるときまで、そこにとどめ置かれるであろう、と主は言われる。お前たちはカルデア人と戦っても、決して勝つことはできない。」

 預言者エレミヤの時代、イスラエルは南北に分裂し、北はすでに滅んでいました。南ユダだけが残っていて、エルサレムをバビロン軍が包囲していました。エレミヤはゼデキヤ王によって拘留されていました。その理由は、エレミヤの語った預言の内容にあります。エルサレムはバビロン軍の手に渡され、占領される。そして、ゼデキヤ王はバビロンの王に引き渡られるというものでした。南ユダの滅亡とバビロン捕囚を語っているのです。このすべての神による裁きは、南ユダの罪によるものだとエレミヤは強く預言しています。エレミヤは殺されることはありませんでしたが、何度も殺されそうになるのでした。

 このようにイスラエルの人々の歴史は、神への罪の歴史でした。神の民として選ばれても、罪を犯し続けるのです。それでも神は、イスラエルの人々と共にあり、時には裁き、赦し、守り導いてくださっています。神はイスラエルの人々のために、多くの預言者を送りました。しかし、人々は神の元に帰ることはありませんでした。最後に送られたのが、神の子イエス・キリストです。その神の子も、律法学者やファリサイ派の人々の手によって、十字架につけられようとしています。イエス様がここでいっているように、神はめん鳥が雛を羽の下に集めるように、何度も集めようとしてくださいました。しかし、イスラエルの人々はそれに応じようとはしなかったのです。それでも、神はそれで諦めるようなことはせず、何度も何度も羽の下に集めようとされます。これをやめることはしないのです。イエス様は十字架につけられても、自分を十字架につけて人たちのために祈っています。「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」と。

 このようにイスラエルの人々に対する神の愛はとても深いものです。聖書は次のようにいっています。

ローマ3:25~26

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 神はイスラエルの人々の罪を忍耐して来られました。1人でも多くの人々を赦すためでした。イエス様の強く厳しい言葉を聞く時に、イエス様の怒りに、私たちの心が傾いてしまいます。しかし、本当のことは、神の深い愛が、そこにはあるのです。どうしても罪の赦しに預かってほしいという強い思いがあるのです。イエス・キリストの十字架の死をみると、神の罪に対する厳しい姿勢と、私たち人間に対する罪の赦しがあることが分かります。私たちは今日、この聖書の内容によって、神の深い愛、神の私たちに対する深い忍耐を学びたいと思います。心から神の愛に応える者になっていきたいです。

祈り 神よ。このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。厳しい言葉の中に、深い愛が込められていることが分かりました。どうか、私たちが少しでも、あなたの愛を受けとめることができ、感謝して応えることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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