2月8日の礼拝の内容です。

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2月8日の礼拝の内容です。讃美歌は、194.403.433.532.91‣1です。

礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。先週は機器に不具合が起り、オンライン配信はできませんでした。今回は無事にできますようにお祈りください。

礼拝説教      使徒21:7~16「神の御心を求める」    2026.2.8

 私たちが信仰生活をしている時に、悩みや苦難とぶつかった時に考えることがあります。それは、神の御心は何かということです。人生にはいろいろなことが起って来ます。人生が順調な時は、考えることはないと思いますが、逆境にある時に、苦難にある時になぜ、このようなことが自分に起って来るのだろうか。この苦難は神の御心なのだろうかと考えて悩むことがあります。答えのない答えのようで途方に暮れてしまうのです。

 使徒言行録を読んでいます。今日の聖書の箇所は、パウロの第3回伝道旅行の終りの部分です。使徒20章の後半で、パウロはミレトスでエフェソの長老たちを呼んで、別れの言葉を告げています。パウロはここで自分がこれからエルサレムに行くこと、それは投獄と困難が待っているということを告げ、もう二度と会うことはできないといい、涙の別れをしています。ミレトスからエルサレムに向かって旅を続けて行きます。今日の聖書の箇所は、ティルスから船でプトレマイオスに着き、そこで1日を過すのですが、同じ信仰者の群れと出会います。次の日にはカイサリアに行きます。ここでは使徒6章で7人が選ばれていますが、その1人フィリポと出会います。使徒8章で、このフィリポがサマリア伝道している様子が出ています。ここではエチオピアの女王カンダケの高官でエチオピア人の宦官への伝道の様子も書かれてあります。そのフィリポがこの箇所に出ています。パウロたちは、このフィリポの家に泊まります。フィリポはこのカイサリアで教会の指導的な立場で伝道していたのでしょう。フィリポには4人の未婚の娘がいたとあります。彼女たちは預言をする者でした。信仰が継承されているのが分かります。

 パウロたちがカイサリアのフィリポの家に滞在していた時に、ユダヤからアガポという予言する者が下って来ました。そこで、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って「聖霊がこうお告げになっている。エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す」といったのです。このことを聞いたパウロの同行者たちは、土地の人と一緒になって、エルサレムに上らないようにと、パウロにしきりに頼むのです。使徒21:4で、ティルスでも、教会の人々が聖霊に導かれて、エルサレムに行かないようにパウロに繰り返しいっています。しかし、パウロは旅を続けて行きます。そして、このカイサリアでも、同じようなことが起っています。パウロを心配する人々は、何でも聖霊が教えるようにエルサレム行きは危険が伴うので、行かないようにと真心を込めていっています。この人々の思いに、パウロの心も揺さぶられているのでしょう。

 使徒20:24「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と強く決心していますが、その思いがパウロの心の中で揺れ動いているのです。

 その時に、パウロは「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったい、これはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」といっています。パウロの強い決心の言葉がいわれています。パウロのエルサレム行きを心配する人たちの優しいことが、逆にパウロの心を困らせることになってしまいました。パウロの彼らの思いは痛いほどわかっているのです。だからこそ、逆に、自分を奮い立たせるために、このように強い言葉でいっているのです。パウロが自分たちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは「主の御心が行われますように」といって、口をつぐんでいます。それから数日たって、旅の準備をしてエルサレムに上って行きます。カイサリアの教会の人たちも数人同行して、ムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれたのです。ムナサンは、キプロス島の出身で、ずっと以前からイエス様を信じる弟子だったというのです。今後、エルサレムでパウロはユダヤ人たちから捕らえられます。この時にローマ兵によって助けられて、ローマの保護のもとで囚人としてローマに行き、そこでパウロの活動を終えることになります。と同時に使徒言行録も終りとなります。

 ここまで聖霊の働き、神の御心を考えて来ました。聖霊はパウロのエルサレム行きには困難があることを伝えます。その困難を知ったパウロの同行者は教会の人々は、パウロを心配するあまりに、エルサレムに行かないようにと訴えています。一方で、パウロ自身は聖霊の導きによって、エルサレム行くこと、いくら投獄や苦難が待っていても、行くことを導いていきます。ここまで見ていると、聖霊の働きには矛盾があるように考えます。パウロにエルサレムに行かないようにいう聖霊、エルサレムに行くようにと導く聖霊です。矛盾するような聖霊の働き、いわゆる神の御心はいったいどこにあるのでしょうか。結果として、パウロはエルサレム行きを進んで行きます。心の動揺はあっても、神の御心を信じて、聖霊の働きを信じて、前に向かって歩んで行きます。神の御心とは、イエス・キリストの福音をすべての人々に伝えるということです。

 では、私たちにとって神の御心とは何でしょうか。パウロとは違ったものがあります。私はある人のことを思い出しています。数年前のことです。その方は、夜の祈祷会に自転車で来られていました。いろいろな話をしてくだいました。ある日のことですが、突然に倒れて病院に運ばれました。そのまま入院となりました。ずっと寝たきりになってしまったのです。初めは近くの病院でしたので、何度も面会に行くことができました。面会でも、本人は後遺症があり、自分で話すことができませんでした。起き上がることもできず、ずっとベットでの生活となってしまったのです。意識はしっかりしているのに、自分の思いを伝えることができない思い、私もどのように接していけばいいのか悩みました。やがて、春日井のリハビリ専門病院に転院されました。ここから30分ぐらいかかりました。それでも、1週間に一度は伺っていました。そしているうちに、新型コロナウィルス感染症が広がっていきました。その病院に行き、面会した後で、もう面会はできませんということで、会うことができなくなりました。この時に、多くの人が病院や施設などで面会できない状態になっていったのです。2年以上が経ってから、家族から連絡がり、近くの病院に変ったこと、そして、病院に来て欲しいということでした。

 暫くぶりでやっと会うことができましたが、辛い状況でした。まもなく、天に召されて行ったのです。教会で葬儀をすることができたのは幸いなことでした。突然の入院、それも寝たきりになり、自分の口に話すこともできない。どうしてと思いました。なぜ、この方がこのような状況にならなければならないのかと神の問うたのです。回復を祈りました。そして、再び、元どおりの生活ができて、教会に来ることができることを持ち望みました。しかし、その日は来ることがなかったのです。神の御心はどこにあるのだろうかと思いました。目の前に起って来る様々な困難な状況に振り回されて、何もすることができないのです。

 この方だけでなく、私たちには本当にいろいろなことが起って来ます。人生には上り坂と下り坂とあります。実はもう一つあって、それはまさかです。生きることは大変なことです。今の日常生活が変わらない。それが一番の幸せだと思います。それが、突然に、まさかが起こるのが、私たちの人生でもあります。パウロのエルサレム行きは投獄と苦難が待っていました。私たちのエルサレム行きは何が待っているのでしょうか。私たちにはそれぞれのエルサレム行きが待っています。

 私は最初に、神の御心とは何でしょうかといいました。皆様は何だと思うのでしょうか。神の御心の中心的なことがあります。それは、イエス・キリストの十字架を通しての救いです。私たち1人1人を創造され、愛してくださっていることです。その神の愛が、イエス・キリストの十字架です。ここに神の御心があります。人生の中でいろいろな試練や困難や悲しみが起る中で、イエス・キリストの十字架を見上げることによって、神の御心を知ることができるのです。

ヨハネ3:16

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ここに神の御心があります。神の愛があります。人生に起る様々な困難や悲しみを乗り越えることができるようになるのです。ただ、イエス・キリストの十字架を見上げて、神の愛を仰いで生きていきましょう。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。人生に起る様々な苦しみや悲しみの意味を考えて来ました。私たちは、自分たちの人生の意味をすべて知ることはできません。神の御心はどこあるのかと問うた時に、イエス・キリストの十字架を見上げることによって、神の思いを知ることができます。いつもあなたの愛を受け止めて生きることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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