9月24日の礼拝の内容です。讃美歌は、17.502.514.475.26です。
礼拝説教 創世記27:30~40「祝福を与える」(小椋実央牧師) 2023.9.24
イサクは激しく体を震わせました。これまでに経験したことのない、激しい震えを覚えました。息子のエサウとヤコブを取り違えてしまった自分に絶望したのでしょうか。裏切り行為を働いた次男のヤコブに怒りを覚えたのでしょうか。祝福を失った長男のエサウの将来を案じて悲しみにくれたのでしょうか。6月より毎回箇所は少しずつずれてはいますが、同じひとつの物語を読んでいます。イサクが息子のヤコブに祝福を与えるという場面です。はじめは母親のリベカを通して、次に兄のエサウを通して、同じ物語を読んで参りました。本日は父親であるイサクという人となりをさぐりながら、祝福を与えるとはどういうことなのか、読み進めていきたいと思います。
旧約聖書の一番最初の書物、創世記を開いています。創世記には大きくわけて二つのことが記されています。ひとつ目は、天地がどのようにつくられたのかということ。私たちが住む世界、そして私たち自身はどのようにつくられたのか。そのことが創世記の初めに記されています。そして創世記に記される二つ目の事柄はアブラハムから始まる族長物語です。アブラハム、イサク、ヤコブと続いて、ヤコブの息子たちからイスラエル12部族が始まります。神はこのイスラエル民族を選び、イエス・キリストをお遣わしになりました。ですからイエス・キリストを救い主と信じる私たちは、イスラエルの歴史をなぞりながら自らの罪を知り、しかしその罪をくつがえす救いの豊かさを繰り返し味わいたいと思うのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヤコブの息子たちと続く族長物語です。今日注目したいのは二番目のイサクです。しかし残念ながら、アブラハム、イサク、ヤコブの3人の中で一番印象が薄いといっても言い過ぎではありません。父アブラハムによってささげられてしまうかもしれなかった息子。またはヤコブから祝福をだましとられる父親。イサクの印象はそれ以上でもそれ以下でもありません。あまりにも父アブラハムが偉大すぎて、また息子のヤコブがスキャンダラスで、どうしてもイサクの印象が薄くなってしまうのです。イサク固有のエピソードがないわけではありません。かつて父がやったのと同じように、妻のことを妹だと偽ったと言う出来事。そして苦労して掘り当てた井戸を、簡単に人に譲り渡してしまったこと。これらの出来事から、イサクは平和の人、争いを好まない人、などと呼ばれています。イサクの特徴の1つは秩序を守る、秩序を乱すことを恐れる、ということかもしれません。そのことは、イサクの生い立ちが深く関わっています。
イサク誕生の背景をふりかえってみます。イサクはアブラハムが100歳の時にようやく与えられた子どもでした。アブラハムとサラとの間の、待望の第一子です。しかし実はこの時、イサクには14歳年上の腹違いの兄、イシュマエルがいました。アブラハムの妻、サラに仕える女奴隷ハガルとアブラハムとの間に生まれた子どもです。イシュマエル誕生の詳細はここでは控えますが、イサクが誕生してすぐ、腹違いの兄イシュマエルとその母ハガルはアブラハムたちの一族からは追い出されてしまいます。
その後、イシュマエルがどうなったかということはほとんどよくわかりません。しかしやがてアブラハムが死に、埋葬される時にイシュマエルは再びあらわれます。25章をお開きになると、イサクとイシュマエルがアブラハムを葬ったという記事が出て参ります。ここから分かることは、頻繁に行き来はしなかったものの、イサクとイシュマエルは何がしかよい関係を結んでいたのではないか、ということです。そうでなければ父アブラハムが召された時に、すぐに連絡をとって、すぐに来てもらうことは不可能だと思うからです。また、イサクにはイシュマエルを除いてさらに6人の義理の兄弟がおりました。アブラハムが妻のサラが召された後にめとったケトラとの間に6人の子どもをもうけます。イサクには母親が違うけれども、6人の弟や妹がいたわけです。この6人の子供たちはどうなったかというと、アブラハムから贈り物を与えられて、遠くに住まわされた。つまり、エサウとヤコブが長子の権利をめぐって奪い合うようなみにくい争いは起きなかった。そういうことのないように、アブラハムが先回りをして手を尽くしていたのです。
イサクの生涯はアブラハムから用意周到に代替わりの準備をされて、苦労を知らない箱入り息子のようにも見えます。しかし同時に、アブラハム一族の期待を背負って、絶対に失敗はゆるされないという相当なプレッシャーがあったのかもしれません。となるとアブラハムから祝福を受け継いだ後に、大して大きなトラブルもなく晩年を迎えたということが、イサクの一番の功績だったのかもしれません。イサクの生涯はいよいよ終わりに近づいていました。最後の仕上げとして、長男に祝福を与えるという大仕事が残っています。かつて双子の兄弟が胎内にいる時、神がリベカに語りました。創世記25章の23節です。「兄が弟に仕えるようになる」この言葉をイサクが聞いていたのかどうかは文面からは分かりません。仮に兄が仕えるような状態になるのだとしてもそれは後々のことで、イサクは長男のエサウに祝福を与えるということは全く疑っていませんでした。それが自分の最後の仕事だと思っていました。しかし自分が祝福を与えたいと思っていた兄のエサウではなく、祝福を与えたくないと思っていた弟のヤコブに与えてしまった。神が成し遂げようとしていることに、イサクは逆らうことができなかったのです。
この物語の鍵を握るのは、「兄が弟に仕えるようになる」という25章23節の言葉をイサクが知っていたのかどうか、という点にあると思います。聖書には、「主は彼女に言われた。」すなわちリベカに言われた。とわざわざ書いてあるからです。リベカに言ったのだから、当然夫であるイサクも知っているだろうと思われるかもしれませんが、夫婦だからといって全てを共有しているとは限りません。あえて共有していないこともあるでしょうし、共有しているつもりができていなかった、ということも多々あります。この件について、イサクとリベカが一枚岩であったとはどうも考えにくいのです。そのことは、イサクとリベカがそれぞれ長男と次男を偏って愛していたということが示しています。父親であるイサクが長男のエサウを溺愛するというのは、長男至上主義といってもいい時代背景からして当然のことです。しかしリベカが意図的に次男を大事にするというのは、当時の慣習から言ってかなり不自然なことです。長子の権利を得るのは兄のエサウではなく弟のヤコブであるということを大々的に告知して、夫婦がそろってヤコブを溺愛するというならわかりますが、男性優位、夫優位な時代に、夫に逆らって長男ではない、次男のヤコブを溺愛するというのは、リベカがやっていたことはかなり挑戦的な行動だと言えるでしょう。
そのことは家族だけの問題ではありません。ついつい、登場人物が四人家族ですから四人だけの物語のように思えてしまうのですが、アブラハムの時代から彼らのまわりには使用人がたくさんいるのです。後に仲たがいしたエサウとヤコブが再会する時に、エサウは供のものを400人連れて来た、とあります。さすがに数百人は多すぎるとしても、数十人ぐらいの使用人は間違いなくいるのです。そして人々は案外つまらないことを噂するものです。リベカが長男のエサウをさしおいて、次男のヤコブを溺愛しているとなれば、どことなく夫婦の亀裂をみつけて、使用人たちの間にも不穏な空気が広がっていくのです。となると、イサクは直接神の言葉を聞くことはなかったにせよ、なんとなく事の成り行きを察知していたのではないか。もしかしたら神が選ばれているのは、単純なエサウよりも、ずる賢く立ち回る弟のヤコブのほうではないかと。だからリベカがヤコブを溺愛することを、イサクは咎めることができなかった。しかし自分も便乗して、ヤコブを長男のように大切にするということもできなかった。イサクは純粋にエサウのことが好きでした。エサウがとってくる獲物と、その料理が好きでした。エサウも空腹に耐えられずに道を踏み誤ってしまうのですが、実は父イサクも同じ弱みを持っていました。素朴に、イサクはエサウとエサウの作る料理が好きだったのです。
イサクが長男エサウにこだわるのは、もう一つ理由があります。14歳離れた兄、イシュマエルとの確執が影を落としていました。イシュマエルはアブラハムの正式な妻の子でないという理由で、一族から追い出されてしまいます。金目のものは何も持たされず、朝早くパンと水だけを背負わされて荒れ野へと出て行くのです。当時は正妻の子どもと側室の子どもというのは、雲泥の差があったでしょうけれども、イサクにとってみれば同じアブラハムの血をひくたった一人の兄弟です。父アブラハムが召された時には、アブラハムの後妻ケトラの子どもたちは遠ざけられてしまったのだから当然と言えば当然ですが誰一人顔を見せず、イサクとイシュマエル、二人で協力してアブラハムの葬りの儀式を営むのです。おそらく荒れ野へ追い出されてしまった日からアブラハムが召されるその時まで、イサクとイシュマエルの間には交流があったと考えられます。そして争いを避け、平和の人と言われるイサクが、イシュマエルのことを心を痛めなかったはずがありません。もし自分がうまれなければ、アブラハムの祝福を受け継ぐかもしれなかった腹違いの兄イシュマエルは荒れ野に追いやられることはなかったに違いありません。イサクはイシュマエルのことを思うがゆえに、長男という存在そのものに対する思い入れは人一倍強かったのではないでしょうか。たとえ「兄が弟に仕えるようになる」と神が語ろうとも、何が何でも長男に祝福を与えたいとイサクが思うのは、自分の両親が引き起こした悲劇、イシュマエルとその母ハガルを荒れ野に追放するという悲しい出来事を忘れることができなかったのだと思います。長男はエサウなのだから、なんとしてもエサウに祝福を与えたい。長男が荒れ野に追放されるなどという悲劇を繰り返してはならない。イサクの思いは日毎に高まっていたと思うのです。
しかし、神が選んだのはイサクが愛するエサウではなくヤコブでした。イサクは兄のエサウに祝福を与えたつもりであったのに、実際に祝福を受け取ったのは弟のヤコブでした。イサクの最後の仕事として祝福を与えるという仕事は完結しました。祝福そのものを与えるということにおいては成功した。しかし受け取る相手は違っていました。最後の最後まで、つまりイサクの父アブラハムから受け継いだ祝福を与えるところまではイサクは努めを全うすることができた。ただし結果はイサクが望んだものではありませんでした。イサクは震えました。父親である自分が息子のエサウとイサクを取り違えるという愚かさに震えました。ずる賢く父と兄をだましたヤコブに対する怒りに震えました。祝福を失った愛するエサウがこれからたどる過酷な生涯を悲しんで震えました。しかしイサクの震えの本当の意味は、もっと別のところにありました。この時イサクははじめて気づいたのです。自分が祝福を与える主人なのではなく、神が祝福を与える主人であるということを。エサウに祝福を与えることができると思っていた自らの愚かさを知り、神への畏れがイサクを震わせました。全てを知り、全てを治めたもう神を知り、イサクは震えたのです。あれほどエサウを愛し、エサウにこだわっていた父イサクは、手の平を返したように冷たく言い放つのです。もうお前に与える祝福は何も残っていない、と。イサクは息子エサウに対する愛が冷めたわけではありません。むしろ愛するがゆえに事実を告げるのです。神の力が自分たち家族に働いて、祝福が行くべきところへ到達したことをイサクは認め、受け入れるのです。裏切りを用いて、家族を引き裂くことによって、神は事を成し遂げようとしておられる。そのことを知ったイサクは激しく体を震わせること以外、何もできることはなかったのです。族長物語の2番目の登場人物、イサクの物語は思いがけない終わりを迎えようとしています。争いを好まず、秩序を大切にしてきたイサク自身が、ヤコブの裏切りに加担してエサウとヤコブの兄弟争いに火種を注いでしまうのです。この後、エサウとヤコブは20年にもわたって別々の場所で暮らすことになります。神がエサウとヤコブの争いを引き起こしているのだとしたら。神が争いごとをわざとおこしているのだとしたら。私たちはどのように考えたらいいのでしょうか。
しかし神の祝福が人間の全く考えるところではなくて、裏切りと不誠実の間を渡り歩いて事を成し遂げるという事実に注目しなければなりません。神の祝福は人の手助けを全く借りずに、それどころかリベカの策略やヤコブの裏切りを利用して人と人との間を渡り歩いていくのです。このことを思う時に、イエス・キリストの十字架を連想せずにはいられません。聖なる場所や聖なる人を通して救いが実現したのではありません。手垢にまみれた薄汚れた場所で、人間の悪意と裏切りを経由してキリストの救いは成し遂げられるのです。でっちあげの死刑がキリストの栄光を明らかにして、暗くて冷たい墓場が新しい命を生み出す場所になったのです。神は私たち罪人を遠ざけるのではなくて、むしろ私たち罪人を経由して、イエスさまが歩み寄ってくださって、私たちは救いの道に入れられるのです。イサクは体を震わせました。聖なる目的を成し遂げようとしておられる神の力に触れて、自らが思いのままに祝福を操ることができると思っていた自分を悔い改めました。やがて畏れの後に、イサクの心を平安が満たします。たとえ不本意な生涯を歩むとも神が共におられ、時宜にかなった助けを与えてくださることをこの時知ったからです。むしろ神に逆らって、間違ってエサウに祝福を与えるという過ちをおかさずにすんだことを感謝したと思うのです。
私たちは本当の意味で心を震わせたことがあるでしょうか。神の力に触れて、神のみわざを見せていただいて、自分ではなくて神が主人であることに畏れおののいたことがあるでしょうか。私たちも心から震えあがるような経験をしたいと思います。自らの罪をはっきりと示されて、しかしそこにこそイエス・キリストが届いてくださる。イエス・キリストが目をそらさずにしっかりと罪人である私たちをとらえ、ご自身の救いのわざに招き入れてくださることを、心に留めたいと思います。
<祈り>ご在天の父なる神さま、礼拝のめぐみを感謝します。あなたと出会いイサクが震え上がったように、私たちもまた繰り返しあなたに出会うことができますように。自らの罪を知り、あなたの大きな愛を知り、喜びにうちに生きることができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
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