10月2日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、436(1)493(1)27です。10月16日は、教会創立134周年の記念日礼拝です。

礼拝説教       マタイ26:36~45「神の御心のままに」    2022.10.2

 10月の第1日曜日を迎えました。今年も後、3ケ月となりました。時の流れは早いですね。もっとゆっくりと流れて欲しいと個人的に感じてしまいます。1週間の初めの日曜日、神を礼拝することができるますことを心から神に感謝したいと思います。神の言葉によって、よりよい1週間の歩みをしていきたいと心から願います。

 今日の聖書の箇所は、イエス様が十字架を前にしたゲッセマネの祈りです。神によって、我が子イエス・キリストが十字架につくことは、人間の罪の赦しとして必然なことでした。つまり、イエス様にとって、十字架の死から逃れることができないことを意味します。今日は、できるだけ、十字架を前にしたイエス様の思いを共有したいと思います。

 十字架とは何でしょうか。それは、死刑の道具でした。人を殺すための道具といってもいいと思います。十字架につくことは、死刑になることを意味しています。死刑、それは命を持って、罪を償うことです。最も重い刑罰になります。日本でも死刑制度があり、死刑が執行されています。私たちが日常的に目にすることは、新聞やテレビやインターネットのニュースで、死刑囚だった〇〇の死刑が執行されたというものです。死刑が執行された死刑囚の罪状などが書かれてあります。死刑は、最も重い刑罰といいましたが、殺人罪や重要な犯罪の法定刑として規定されています。日本での死刑執行についてみますと、朝9時に、死刑囚に死刑の伝達がされ、すぐに刑場に連れて行かれます。1時間の猶予を与えられ、たばこをすったり、遺書を書いたり、好きなことをすることができます。そして、目隠しされ、手錠をはめられ、首にロープがかけられます。3つのボタンがあり、3つのうち1つがつながっていて、バタンとなり、執行されます。その後、死の確認、葬儀、火葬、埋葬ということになります。この日本での死刑の執行の流れは、死刑囚をできるだけ早く死なせるために考慮されています。それでも、死刑は残酷なものです。

 では、イエス様が受けようとしている十字架刑はどのようなものでしょうか。映画「パッション」には、リアルにその十字架刑の様子が描かれています。見るにたえられないものです。イエス様の時代、最も残酷といわれた死刑の方法です。ローマは奴隷のみに行っていた死刑の方法です。ある意味で見せしめ的な意味合いが強いものでした。十字架刑が決まれば、鞭で39回打たれます。それ以上すると死んでしまうからです。重さ70~90キロもある重い十字架を背負って、刑場まで歩きます。町のメインの通りを通って行くことになります。多くの人々に見られることになります。イエス様は最後まで、十字架を運ぶことができず、シモンに運んでもらうことになりました。刑場につくと裸にされて、十字架の上に寝かされて、両手足に30㎝を超える釘で打たれます。苦しみは、これからなのです。十字架につけられたまま、死ぬまで置かれるのです。イエス様は6時間、十字架の上に置かれたまま、死を迎えました。一般的に早かったといわれています。通常は、2・3日もだえ苦しみながら、死んでいくのです。呼吸困難になります。公開処刑なのです。イエス様がつかれた十字架刑は、人間が考えた死刑方法で、最も残酷は方法だったと思います。できるだけ長く、苦しめて殺していくのです。十字架刑を公開することによって、ローマ帝国に逆らう者はこのようになると暗黙の圧力を人々にかけているのでしょう。

 少し丁寧に、十字架刑について話してしまいました。イエス様がおつきになる十字架刑がいかに苦しいものあるかを理解したいと思ったのです。どうぞ、お許しください。今日の聖書の箇所であるゲッセマネの祈りは、十字架を前にして、十字架から逃れることもできるし、つくことのできる最後の時でした。イエス様と弟子たちにとって、このゲッセマネは、祈りの場所であったといわれています。過越しの食事をして、聖餐式を制定し、ペトロの離反を予告し、ゲッセマネでの祈りの時となりました。

 このゲッセマネの祈りでは、弟子たちすべてではなくて、3人の弟子たちだけを連れていきます。ペトロとゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネです。イエス様は、悲しみもだえ始められたとマタイは書いています。そして、イエス様は3人の弟子たちにいわれます。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と。少し進んで行って、うつ伏せになり、祈り始めます。「父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と。それから、弟子たちのところにいってみると、弟子たちは眠っていたのです。イエス様はペトロたちを起して、「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心か燃えても、肉体は弱い」と。

実は、このようなことが3度起っています。2度目に向こうに行って祈られます。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われるように」と。再び戻ってごらんになると、弟子たちは眠っていました。ひどく眠かったからだとあります。そこで、そこで彼らを離れ、また向こうへ行って、3度目も同じ言葉で祈られました。それから、弟子たちのところに戻って来て、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」といわれます。

イエス様の十字架の前の祈り、激しい心の葛藤を見ることになります。悲しみもだえ始める。わたしは死ぬばかりに悲しい。「父よ。できることなら、この杯、十字架から逃れさせてください。わたしは十字架で死ぬことは苦しいし、嫌です。」と、神に祈っています。人として歩まれたイエス様の正直な思いが語られています。まだ、この場面では、十字架から逃げることができました。本当に最後の場面です。イエス様がここで十字架から逃れてしまえば、世界の歴史が変わりました。人の救いはなくなってしまうのです。人の救いのために、イエス様ご自身の十字架の死は必要でした。でも、一方で、イエス様にとって、十字架につくことは本当に苦しいことだったのです。イエス様は、3人の弟子たちを側に置き、どうか、わたしの側にいてほしい。そして、起きていてほしいと願っています。イエス様は本当に苦しかったのです。悲しかったのです。3人に側にしてほしい、起きていてほしいと願っています。でも、弟子たちはひどく眠たかったのです。そして、3度も眠ってしまっていました。本当に支えになって欲しい時に、それができませんでした。

イエス様は、「しかし、わたしの願いどおりではなく、神の御心のままになさってください。わたしは十字架の道を行きます」と、祈られます。イエス様は自分の十字架を前にして、つくべきか、逃げるべきか実際に悩まれていました。考えてみれば、その思いは、神の働きを始めたときから、あったとだと思います。十字架の死の苦しみを前に、つくべきか、それとも逃げるべきか、です。人間としての格闘というものです。イエス様の次のシーンを覚えているでしょうか。

マタイ16:21~23

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 このイエス様の弟子たちに対する最初の受難予告の場面です。イエス様のペトロに対する厳しい言葉があります。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔する者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と、これは、イエス様ご自身の悩みであったから、このような反応が出てしまったのです。自分の十字架の死に対する恐怖といいますか。激しい心の葛藤がありました。ずっと十字架に対する苦しみがイエス様を襲っていたのです。

 ゲッセマネの祈りが終って、イエス様は「時が近づいた。人の子は罪人の手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」といって、自ら進んで、十字架の道を行こうとされます。これから、十字架の死に向かって、イエス様は進まれます。イエス様の十字架の道、それは、私たちの罪の赦しのためであり、罪の贖いのためです。このイエス様の十字架があって、私たちの罪の贖いがあり、救いが実現していくのです。イエス様の十字架を見上げて、歩んでいきましょう。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。十字架を前にした祈りをみてきました。いかに十字架につくことが厳しい選択であったかを知ることができました。イエス様が十字架についてくださったこと、この十字架の死によって、私たちのすべての人間の罪の赦しが完成したことを覚えます。イエス様の十字架を見上げて、私たちそれぞれの人生の歩みをしていくことができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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