7月4日の礼拝の内容です。

fluffy white clouds soaring in blue sky 礼拝
Photo by Lachlan Ross on Pexels.com

讃美歌467(1)575(1)です。教会の増改築が進んでいます。工事の安全を祈りましょう。

礼拝説教      マタイ17:22~23「イエス様の死と復活」    2021.7.4

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、礼拝を守ることができますことを神に感謝します。神の言葉を受けて、この1週間の歩みが感謝に満ちたものになりますように願います。

 教会の礼拝を通して語られる神のみ言葉、私たちは神の救いを求めています。さて、基本的なことですが、神の救いとは何でしょうか。神の救いの中心に、イエス・キリストの十字架があります。なぜ、この十字架は私たちの救いにとって、どうして大切なのでしょうか。このイエス・キリストの十字架の救いの意味を、今日は、聖書の言葉を通して確認していきたいと願っています。

 イエス様はガリラヤからエルサレムを目指して歩みを始めようとしています。その時に、イエス様は弟子たちに聞きました。「あなたがたはわたしのことを何者と言うのか」と、するとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。すると、イエス様はペトロに対して「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と答えます。そして、イエス様は弟子たちに初めて、自分の本当の目的を話されます。受難予告です。わたしはエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活すると語ったのです。するとペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めて「主よ、飛んでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言います。イエス様は振り向いて、ペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と強く語ります。

 ここには、イエス様が最初の語られた受難予告がありました。この受難予告を、イエス様の弟子たちは受け止めることができませんでした。それは、弟子たちがイエス様に求めていたメシアは、イスラエルの解放、ローマ帝国からの独立を意味していたからです。政治的軍事的な解放者をイエス様に求めていたからです。イエス様の弟子たちの反応は、当時のイスラエルの人々の置かれていた状況からすれば、理解できるところです。そして、今日の聖書の箇所になります。ここはイエス様の2回目の受難予告が弟子たちに語られています。イエス様一行がガリラヤに集まっていた時、イエス様は「人の子は人々の手に引き渡られようとしている。そして殺されるが、3日目に復活する」と語りました。それを聞いた弟子たちは「非常に悲しんだ」とマタイは告げています。

 さて、イエス様がエルサレムに行き、十字架について死ぬことが、どうして大切なのでしょうか。今、祈祷会でレビ記を学んでいます。このレビ記の内容については、教会のメールや教会のホームページで見ることができています。レビ記は、神がイスラエルの人々と結ばれた契約の内容が書かれてあります。レビ記の最初には5つのささげもののことが書かれてあります。神はイスラエルの人々出会う場所として幕屋をつくるようにされました。また幕屋に仕える祭司も置かれました。この幕屋で、人々は神と出会うのです。しかし、神は聖であり、人は罪人であり、罪によって汚れています。そのために人が神と出会うと死んでしまうことになります。そうならないために、動物などのささげものが求められています。動物は家畜であり、牛や羊や山羊などが用いられています。

 人は羊を連れて幕屋の入り口にやってきます。人は羊の頭に手を置きます。これは人の罪を羊に負わせることを意味しています。羊は殺され、血が流されます。血は祭壇の側面に流されます。羊の肉などは祭壇の上で焼かれるのです。このようにして、人の罪が神の前に贖われ、赦されていくことになります。羊をささげる時に大きな役割をするのが祭司です。この祭司も人であり、神の前に出る時には、まず自分の罪を贖うために、羊などをささげる必要がありました。それから、人の罪の贖いのささげものをささげることができたのです。レビ記には、人に罪があることを想定して、その解決を用意してくださっているのです。

 神は人をつくりました。人は神を愛するためにつくられたのに、与えられた自由意思によって、神を愛さない道を選んでしまいました。そこに罪が入って来たのです。罪の結果として、人は死ぬ存在になってしまいました。人の罪をいかに解決するか、それが、聖書が書かれた理由です。レビ記では、人の罪の解決として、動物が身代わりとして負うことによってなっていました。やがて、新約聖書では、イエス・キリストが、人の罪を身代わりとして負うことになっていくのです。動物のささげものは繰り返しささげられる必要がありました。神の子イエス・キリストによるささげものは完全なものでした。たった1回のことですんだのです。

 イエス・キリストが十字架で殺されてしまう。そのことだけがこの聖書の箇所では、注目されていますが、十字架の死とその後の3日目に復活することも、とても大切な内容です。もちろん、十字架の死がなければ、3日目の復活もありません。十字架の死と復活が、2つの内容が一緒に受け止めることが大切なのです。イエス・キリストは十字架につけられて死に、墓に葬られました。しかし、3日後に墓の中から復活されたのです。このイエス様の復活は、私たち信仰者の復活を意味しています。問題は、私たちがどのように救われるかです。罪ある私たちは、ここままでは死後、神の裁きに会い、完全に裁かれてしまいます。この私たちの罪の解決のために、イエス・キリストの十字架の死があり、これが私たちの罪の赦しであると信じ、告白することによって、私たちの罪の赦しがなされ、その信仰によって、私たちの死後の復活が起こってきます。そこが大切なのです。

 先週、1人の姉妹の葬儀を教会で行いました。突然の死で、周りにいる私たちは姉妹の死をなかなか受け止めることができませんでした。人の命のはかなさと命の時間には限りがあることを思い知らされました。姉妹の前夜式で読んだ聖書の箇所です。

ヨハネ11:25~26

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 この聖書の箇所は、愛する兄弟ラザロを失い、悲しみの中にある姉妹マルタに向かって言われたイエス様の言葉です。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じています」と、答えました。

 このマルタに向けられたイエス様の言葉は、私たち1人1人に向けられています。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と。私たちは今、どう答えますか。「はい、主よ、あなたを信じます」と、答えることができるでしょうか。そのように答えることができる者でありたいと心から願うのです。

 このイエス・キリストの十字架の死と復活は、私たちの唯一の救いなのです。いつか、私たちは死を迎える時が来ます。いつ来るのか、誰も分かりません。でも必ず死はやってきます。自分の死、愛する者の死が、いつ来てもいいように、備えていきたいと心から願います。死の先に希望があります。死からの復活、天の国での永遠の命です。天の国でまた愛する者と出会い、交わることができるのです。

祈り 神よ、あなたのみ言葉をありがとうございます。先週、1人の姉妹をあなたのみもとに送りました。どうか姉妹をお守りください。そして悲しみの中にあるご家族を支えてください。私たちも、イエス・キリストの十字架と復活の信仰をしっかりと持って、それぞれの人生の道を歩むことができるように守り導いてください。イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

コメント