3月29日の礼拝の内容です。讃美歌は、307.533.305.573.38です。
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礼拝説教 ルカ23:39~43「楽園奪還」(小椋実央牧師) 2026.3.29
受難節第六主日、棕櫚の主日を迎えました。今日からイースターまでの一週間を教会では受難週と呼んでいます。イエス・キリストが一歩ずつ十字架へとむかわれる。この受難週、日曜日からはじまる一日、一日の出来事を聖書は丁寧に記しています。
日曜日にろばに乗ってエルサレムに入場される。ホサナ、ホサナと言って歓迎される。そして月曜日には神殿で宮きよめと呼ばれる出来事。両替人や鳩を売る人たちを追い出してしまいます。火曜日には律法学者と論争をする。水曜日にはとても高価な香油を注がれる。そしていよいよ木曜日。ここからが慌ただしくなってまいりますが、木曜日の夜が俗に最後の晩餐と呼ばれる過越しの食事、ゲツセマネの祈り、逮捕、ペトロが三度主イエスを知らないと言う、最高法院の裁判。この辺りで夜が明けて金曜の早朝にピラトの裁判、9時頃十字架にかけられて、夕方3時頃主イエスは十字架の上で息を引き取ります。夕方急いで墓におさめられて、大きな石で蓋をされます。土曜日は安息日、そして日曜日の朝、女性たちが墓をたずねてみると大きな石が転がしてあって、墓の中が空になっていた。復活のキリストと女性たちが、そして弟子たちが、さまざまな場所で出会うことになります。
今日開いたルカによる福音書では福音書の約1/4を最後の一週間の出来事に割いています。ルカよりも短いマルコ福音書では1/3近くが受難週の内容です。聖書を開くと、たびたび、この最後の一週間の出来事を目にするので、もっと長い期間に行われたことなのかと錯覚してしまうのですが、実はたったの一週間の出来事。わずか七日の間にさまざまなことが起こるのです。時は過越祭、多くのユダヤ人がエルサレムへと押し寄せていました。神がエジプトから救い出してくださったことを記念して、一年の中で最も宗教色が高まる時期です。同時に、テロや暴動が起きないかと、ローマ帝国が一段と目を光らせるのもこの過越祭の時期でした。人々が異様な興奮状態にある中で、お祭りの出し物の一つでもあるかのように主イエスは裁判にかけられ、十字架へとかけられます。十字架刑の苦しみは頂点に達して、主イエスと共に十字架にかけられた二人の犯罪人はすでに虫の息となりつつありました。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」主イエスが犯罪人にかけた言葉です。「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った犯罪人にむかって、主イエスの答えがこれでした。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」楽園、という言葉を聞いた時、どこか落ち着かない気持ちになるのは私だけでしょうか。何故なら、聖書では楽園という言葉があまり聞きなれないからです。楽園という言葉が聖書に記されていないわけではありません。正確に言うと楽園はあるのです。しかし、とうの昔に楽園を失ってしまっているのです。聖書のいちばんはじめ、創世記の出来事です。人が生きるために神が何もかも整えてくださった、その楽園を、しかし神に背いたために失ってしまった。苦い記憶があるのです。アダムとエバの物語です。ですからここで主イエスの口から「楽園」という言葉が飛び出したことに戸惑うのです。何故なら常日頃主イエスが語っておられたのは「神の国」についてであって、「楽園」についてではなかったからです。そもそも、この犯罪人は「楽園に入れてほしい」などとは言っているわけではありません。御国、「あなたの王国」というていねいな言い方にもかかわらず、主イエスのほうが唐突に「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と返された。
経験したことのない私たちには想像もできない痛みの中で、薄れゆく意識の中で、「わたしを思い出してください」と犯罪人は最後の力を振り絞って言ったに違いありません。彼の耳に「楽園」という言葉はどのように響いたのでしょうか。ただの気休めに聞こえたのか。あまりの痛みに主イエスもおかしくなってしまったのか、と哀れに思ったのか。それとも、あぁよかった、これで救われたと安堵できたのか。聖書は沈黙を守っています。主イエスと共に十字架にかけられた二人の人物について、4つの福音書を比較してみると、少しずつ違いをみつけることができます。ヨハネ福音書では単に二人と人数しか記していませんが、マタイとマルコではその二人が強盗だったと書かれています。しかしマルコを手本として書いているはずの、今日わたしたちが開いているルカ福音書は、ここは強盗とは記さずに犯罪人と書きました。ギリシャ語を忠実に翻訳すると「悪を行う者」という言葉です。強盗というのはわかりやすい言葉です。お金にしろ、宝石にしろ、人の命にしろ、何かを力ずくで奪ったのだろうな、という想像がつきます。一方で犯罪人、というのはどんな罪を犯したのかは分かりません。十字架にかけられているぐらいだから、何か相当重い罪を犯したのだろうな、という想像はつきます。
少し手前の出来後にあった主イエスの裁判の出来後を思い出してみます。その時、殺人を犯したバラバという人物が牢屋に入れられていて、主イエスと引き換えに釈放されました。恩赦、と言い換えることもできます。過越祭など特別な時に、これまでの罪が帳消しになって釈放されるのです。このバラバを例にとってみると、殺人を犯したぐらいでは十字架刑にはならない、ということが分かります。となると、この二人は一体何の罪を犯したのか。考えうるのはローマ帝国への反逆です。少し時間巻き戻して、主イエスの裁判の場面を思い起こしていただきたいのですが、最高法院が主イエスをローマ帝国の代理人であるローマ総督ピラトのところへ連れて行った時、ピラトはさほどまじめに取り上げようとはしませんでした。ピラトにとってみれば主イエスがメシアであろうがただの人であろうが、さほど関係がなかったからです。しかし最高法院のメンバーは主イエスのことを「自分を王だと言っている、ローマ帝国に逆らう危ない人間だ」ということをピラトに吹き込むと、ピラトも黙って見過ごすことができなくなります。そしてピラトはユダヤ教の指導者たちに流されて有罪判決としてしまうのです。
少し話が横道にそれますが、私たちは日曜日ごとに使徒言行録を読み進めています。いよいよパウロの伝道旅行が終わって、というかパウロがエルサレムで逮捕されてしまったために伝道旅行は唐突にピリオドが打たれてしまいました。このパウロの逮捕なのですけれども、この時暴動が起きたためにローマ兵がパウロをユダヤ人たちから保護します。これは一見するとユダヤ人の暴動からパウロを守ってあげたように見えるのですが、まず暴動の原因であるパウロをまず取り押さえて、暴動を静めることが目的でした。結果としてこれによってパウロの命が助けられて、運のいいことにパウロはもともと行きたいと願っていたローマまで連れて行ってもらえることになるのですけれども、ローマ帝国側からすればパウロの命はどうでもよくて、ユダヤ人に暴動を起こさせないことが一番の目的でした。この使徒言行録のパウロの逮捕の場面からも支配する側と、支配される側のピリピリとした緊張関係が伝わるのではないかと思います。
話をもとに戻します。二人の犯罪人です。ピラトの裁判からも明らかですが、ローマ帝国側は滅多に死刑にはしませんでした。けれども反逆者に関しては、見せしめとして十字架刑にすることがあったそうです。バラバのような、何人も人を殺害する危険な人物は野に放たれて、理想を求めて、イスラエルの独立を求めて生きる者は十字架の上でむごたらしく殺されていくのでした。この二人はおそらく金を盗んだとか、人を殺したとか、そういう罪を犯したのではなくて、母国のために、自分たち手でそれこそ楽園をつくりあげるためにローマ帝国相手に精一杯戦ったのでしょう。戦うと言っても、十分に資金があるわけではありませんから組織的な戦闘は不可能です。せいぜいナイフを片手に100人隊長や1000人隊長に立ち向かう、というのが関の山ではないでしょうか。
幼い子供たちにたらふく食べさせてやりたい。貧しい労働者たちに雨露をしのぐ家を建ててやりたい。ぜいたくをしたいわけではありません。家族が、友人が、笑顔で暮らせるささやかな生活がほしい。そのために精一杯の抵抗をしたに違いありません。たった一回、ローマ皇帝に税金を払わなかったら。たった一回、敬礼しなかったら。たった一回、住民登録に協力しなかったら。今日でしたら、しかるべきところから「税金が未納ですよ」とか「あなたの登録がまだ済んでませんよ」とか親切なお手紙が一枚きておしまいかもしれませんが、相手がローマ帝国でしたら反逆罪になってしまいます。バラバのような極悪人には寛容なローマ帝国も、反逆者には妥協しません。ローマ帝国に逆らう者は、このようになるのだと無言のメッセージをゴルゴタの丘から発信しました。ユダヤ人の王と自称した、という濡れ衣を着せられた主イエスと二人の革命家たちは、三人の反逆者として十字架にかけられるのです。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」犯罪人が苦し紛れに主イエスに言いがかりをつけます。するともう一方がたしなめて言います。「お前は神をも恐れないのか・・・」(40,41節)今しがた隣り合わせになった三人です。「この方は何も悪いことをしていない」と思ったのは何故なのか。祭司や律法学者たちにののしられてもののしりかえさず、それどころか「父よ、彼らをお赦しください。」と祈る姿から、ただものではない何かを感じたに違いありません。そしてたしなめるのにとどまらず、このように救いを求めます。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
わたしを思い出してください。3月、別れのシーズンですけれども、離れ離れになっても私のことを覚えていてね、というセンチメンタルな発言のように聞こえますですが、そうではありません。もっと具体的です。詩編25編、さきほど交読文でお読みしました。そこには「主よ、思い起こしてください。」という言葉があります。「主よ、思い起こしてください。あなたのとこしえの憐みと慈しみを。」表現は若干違いがありますが、詩編の中には「思い起こす」という言葉が繰り返されます。そしてこれは、思い起こしてくれればそれでよい、ではなくて、詩編25編で言うならば「罪深い私を心にとめて、私をお赦しください」へとつながっていく。つまり「思い起こしてください」というのはあなたが思っていてくれればそれでよいというひかえめなお願いではなくて、「あなたが具体的に行動してわたしを救ってください」というお願いです。ただ、この犯罪人は、今は無理だと思った。この人も自分と同じように十字架にかけられている。両手がふさがって体の自由はきかない。もう息も絶え絶えになっている。けれどもせめて、死んだ後でもよいから、無様に死んでいく私の孤独な魂だけでも救ってほしい。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」しかし主イエスの答えは「今だ」死んだ後ではない、今だ。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」この犯罪人は、薄れゆく意識の中で驚いたに違いありません。苦しみのあまり、とうとう主イエスも頭がおかしくなったか、と考えたかもしれません。
神さまから楽園をいただいたはずのアダムとエバは、楽園で死ぬことはできませんでした。荒れ野で生涯を終えたのです。ゴルゴタの丘には実をつける木もなければ、小鳥のさえずりも小川のせせらぎも聞こえません。しかし主イエスが共にいてくださって、主イエスが宣言してくださるから、死の床は楽園になります。アダムとエバ以来、失われていた楽園はここに回復しました。この男をアダムとして、神に祝福されたものとして生涯を全うさせたいという主イエスの思いがあったかもしれません。この時主イエスの口からは「天の国」ではなく「楽園」という言葉が出てきました。アダムという主人を失った楽園は、思いがけない仕方で、主イエスと二人の犯罪人が死にゆく場面で取り戻すことができました。このことはキリスト教の信仰について本質をついています。信仰は精神論ではありません。信仰は個人の心の問題ではありません。信仰は私たちの死と直結しています。罪と直結しています。一番きたない、一番おそろしい場所で、しかしそこに主イエスが私たちと共にいてくださって楽園だと言ってくださる。神の祝福をあなたたちのために私が取り戻した、と言ってくださるから、私たちはここで、神さまに祝福された子どもとして眠りにつくことができる。安らかに、瞼を閉じることができるのです。「わたしを思い出してください」と願った犯罪人は、楽園に暮らすアダムのように、神さまの祝福に包まれて、ゴルゴタという楽園で、主イエスが回復してくださった新しい楽園で生涯を終えたのです。
受難週が始まる最初の日に、十字架の最後の場面をご一緒に見てまいりまいた。二人の犯罪人が登場していました。一人は主イエスをののしり、一人はそれをたしなめて主イエスにゆるしを求めました。悪い犯罪者と善い犯罪者のように記憶してしまいがちですけれども、最初の犯罪者にも注目してみます。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」私ではありません。俺だけを救え、と言っているのではありません。私たち、仲間の犯罪人も救え、と言っているのです。これまで、革命家同士二人三脚でやってきたのかもしれません。しかし見方を変えれば、自分が救われるかどうかもわからないのに仲間の助けを求めているのです。ここに、すでに教会の原型がある、と言った人物がいます。つまり、自分は罪人でありながら、仲間の救いを求めるのです。自分は罪人ではないからあの人を救ってあげて、ではなくて、自分は罪人だけど自分もあの人も救ってあげて、と。あつかましいというか、おせっかいと言ったらよいのか、しかしこれが教会の姿です。救いは心の問題では終わりません。罪から救われることは生き方であり、生活そのものです。当然、家族や、仕事や、友人関係に影響が出てくるでしょう。ですから愛すべき隣人も、憎むべき隣人も、共に救われてほしいと願うのが教会です。
その教会の姿がゴルゴタの丘で見事に再現されています。私だけを救ってくれ、とは言わない。私は正しくて完璧だから救いはいらない、とも言わない。私もあの人も、神さま、あなたが救わなければならない愚かな罪びとです、と告白するところが教会です。厚かましく、図々しく、おせっかいを働いて、主イエスがとりもどしてくださった楽園で主イエスと共に生き、主イエスと共に死に、主イエスと共に復活する。主イエスの苦しみを覚える受難週ですけれども、しかし同時にすでに約束された復活という喜びの日に期待を膨らませて、この一週間を一日、一日歩んで参りましょう。
<祈り>ご在天の父なる神さま。私も、あの人も、愚かな罪びとです。あなたの救いを必要としています。どうぞ私たちを救ってください。イエスさまの苦しみを覚える受難週です。一日ごとに歩みを止めて、イエスさまの言葉と、行いとを思い巡らせて祈りの日々を過ごすことができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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