6月25日の礼拝の内容です。

礼拝

6月25日の礼拝の内容です。讃美歌は、24.352.346.528.91です。

礼拝説教     創世記27:1~17「企てが輝く時」(小椋実央牧師)  2023.6.25

6月の第四主日を迎えました。思いがけず冷え込む日も、暑すぎる日もありましたが、今朝もこのように顔と顔とをあわせてご一緒にみ言葉にあずかる幸いを心から感謝したいと思います。

本日お読みした箇所には、太字でリベカの計略という見出しがついています。穏やかではない話です。そもそも旧約聖書は穏やかでない話が多いかもしれません。最初の人、アダムとエバは楽園での生活もつかの間、善悪の知識の実を食べて追放されてしまいます。カインとアベルは最初の殺人、ノアの箱舟では罪人が洪水によって滅ぼされてしまいます。ページをめくればめくるほど、うんざりするほど人間の罪の歴史が積み重ねられています。しかし、そのどうしようもない罪の歴史にぴったりと寄り添うように神の愛が示されています。救いようのない、見捨てられたと感じるような時にも、神は先回りして必要な道を備えておられます。リベカの計略もきっとそうに違いないという期待を持って読みたいと思います。決して人間の知恵比べではなくて、この根底に流れる神の愛をすくいとってみたいし、ご一緒にのぞき込んでみたいと思うのです。

本日の中心人物とも言えるリベカについて、少しだけ別の聖書箇所からその人となりを知りたいと思います。少し歴史を振り返りますと、後に信仰の父と呼ばれるようになるアブラハムという人物がおりました。神さまに選ばれて、「あなたを通してたくさんの人が祝福されますよ。あなたの子孫がたくさん増えて、星の数ほどになりますよ。」という嬉しい約束をもらいます。アブラハムの生涯は山あり谷ありですが、いつも神さまに寄り添って、疑ったり不安になりながらもその生涯を全うしていきます。いや、アブラハムが神さまに寄り添っていたのではなくて、神さまがアブラハムの生涯に寄り添い続けたと言ったほうがより正確かもしれません。

そのアブラハムの息子、イサクの妻となる人物がリベカです。アブラハムは神が自らに与えた神の祝福という重みを知っています。その祝福は息子イサクが受け継ぎ、やがてイサクの息子が受け継ぎます。イサクの妻となる人物はだれでもいい、というわけにはいきません。神に与えられた祝福の器として、その一部分を担うのです。アブラハムは用意周到に準備を重ねます。アブラハムは自分の僕たちの中から、最も忠実で、最も信頼している1人の年老いた僕を自分の故郷にむかって送り出します。このあたりのことは創世記の24章に記されています。聖書ではほんの数行で、わりとすぐにたどり着いたかのように記されていますが、実際には800キロほどの旅路です。今日と違って、長距離の移動は決して安全とは言えません。年老いた僕にとっては命がけの旅、アブラハムにとっては大事な僕を失うかもしれない出来事です。この僕はアブラハムの全財産を管理していた、と聖書には記されています。アブラハムにとって全財産を賭けてでも惜しくないほどに、イサクの嫁選びをどれほど真剣に考えていたか、ということが分かります。そしてイサクの嫁としての条件は、僕と一緒に帰ってくること。ついてくることができる人、というものでした。健康であるとか、手先が器用であるとか、見た目が良いとかではない。僕と一緒に帰ってくることができる人、というのが条件でした。一見すると単純なようでいて、しかしなかなかハードルが高い条件です。案内してくる人がいるとはいえ、見知らぬ土地に行くのです。しかしリベカは迷うことなく従います。この時リベカの母や兄は、いったんは承諾したものの、やっぱりあと10日ほどは家族のもとにいてほしいと願うのです。しかしリベカはそんなことは意に介さずに、「はい、参ります。」とだけ答えてアブラハムの僕と共に旅立ちます。かつてアブラハムが行先の知らない旅路に旅立ったように、リベカもまたアブラハムと同じように旅立ちます。アブラハムに似た、いや、それ以上の献身があると言ってもいいかもしれません。アブラハムが旅立った時には妻のサラや僕たちが一緒でしたが、リベカは見ず知らずのイサクの妻となるべく、全く未知の世界に飛び込んでいくのです。この時すでに、大胆で行動力のあるリベカの姿が垣間見えるような気がします。

そしてリベカの大胆さはお腹に二人の子供を宿した時にも発揮されます。胎内で子供たちが押し合っていることを不安に思ったリベカは夫のイサクを通さずにたった一人で主の御前に出てそのことを問います。そして神さまもイサクを通さずにリベカに次のことを語りかけるのです。兄が弟に仕えるようになる。ヤコブがエサウに仕えるのではなく、兄のエサウが弟のヤコブに仕えるようになる。このみ言葉を、リベカがイサクに伝えたのかどうか、夫婦で共有されていたのかどうかは謎です。その後の物語を読むと父親のイサクには伝えていなかったようでもありますし、伝えたとしてもイサクがあまり深刻には受け止めていなかったようでもあります。このあたりからイサクとリベカの歯車が少しずつ狂い始めます。そのことは25章の28節に顕著にあらわれます。イサクはエサウを愛した。しかし、リベカはヤコブを愛した。

祝福をだまし取るという事件が起きる前に分かっていたことは、神がリベカを選び、神がリベカに真実を打ちあけていたということ。そして夫イサクをだましてヤコブを祝福するように仕向けるという大事件においてリベカが重要な役割を担うことになった、ということです。リベカの企てが本人が意図したかどうかは分かりませんが、相当長い時間をかけて準備されていたことが分かります。

一方、イサクの側からイサクとリベカの夫婦の歩みを見ていきます。父アブラハムが選んだ女性との結婚。今日の結婚という感覚でいくと会ったこともない人と結婚するなんてありえないと思われる方が多いかもしれませんが、旧約聖書の時代ということを考えれば特にめずらしいことでもありません。アブラハムが信頼してやまない優秀な僕が選んだ女性です。アブラハムの目に適うリベカとイサクとの結婚は順調な滑り出しのように思われました。

やがて、二人はなかなか子どもが与えられないという重荷を背負うことになります。イサクは妻のために祈ります。結婚した時が40歳で、エサウとヤコブが生まれたのが60歳とありますから、単純に考えると20年間祈り続けたということになります。妻を愛し、妻のためにただただ20年間祈り続けた。なかなか凡人には真似のできないことです。イサクという人物の素朴な人柄が伺えるエピソードです。

しかし結婚してから子どもが与えられるまでの20年間、そしてエサウとヤコブが成長していく過程で、イサクとリベカの夫婦の信仰が一枚岩であったかというとどうも自信を持ってそうだとは言い切ることができない。そのことはイサクの祈りの言葉にもあらわれています。21節。「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」こんなに短い文章の中に3度も妻という言葉があらわれます。勿論心から妻を愛し、妻のために祈りたいと思ってしたこととはいえ、イサクは自分とリベカの子供という認識が欠けていました。もっと言うと、アブラハムの祝福を受け継ぎ、未来のイスラエルの担い手ともなるべき人物が自分たち夫婦に与えられるという覚悟と言いますか、真剣さが足りなかった。あくまで子供のことはリベカの問題であって、同時にイサク自身がアブラハムから始まる祝福の担い手であるとの認識が非常に弱かったと言わざるをえません。だからアブラハムの子孫となるべく自分たちイサクとリベカの間に子供が与えられるようにと祈るのではなく、リベカに子供ができるようにと祈ったのです。

このイサクの祈りに応えるかのように、リベカもまた2人の子供ではなく、まるで自分だけの子供であるかのように受け止めます。わたしたち、ではなく、わたしはどうなるのでしょう、と言って、イサクと一緒にではなくイサクを差し置いてたった一人で神に祈り求めます。エサウとヤコブが生まれる前から、夫婦の間にはどことなくすきま風がふいていました。そのはじまりは、愛するリベカのためになんとか彼女の手に幼子を抱かせてやりたいというイサクの善意だったに違いありません。しかし20年のうちにどことなくゆがみが生じて、イサクはただ1人リベカのために祈り、リベカはリベカでただ1人でみ言葉を聞くという状況に陥っていました。勿論表面上は協力をして、仲良く暮らしていたことでしょう。しかし次の一文で夫婦の関係は決定的なものになります。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した。人間ですから気が合うとか合わないとかはあるでしょうけれども、誰が見ても明らかなほどの区別が子供たち、エサウとヤコブの成長に影響しなかったはずがありません。やがてエサウは長子の権利を軽んずるようになり、一方でヤコブは長子の権利を手に入れたいと強く願うようになります。家庭内の秩序が日ごとにゆらいでいくのです。

家庭がいつ崩壊してもおかしくはないような日々の中で、ついに運命の日を迎えます。事件はイサクの寝室で、プライベートな空間で起こります。本来族長が祝福を与えるというのは公のパブリックな出来事ではないかと思うのです。一族の長であるイサクの権限と財産と祝福とが次の世代に引き継がれる、厳粛なセレモニーです。イサクはどことなく不穏な家庭内の空気を読み取っていて、リベカにもヤコブにも知られないうちにすませてしまいたいという思いがあったのかもしれません。事実イサクは「わたし自信の祝福をお前に与えたい。」と語っています。祝福を与えるという重要な出来事を個人的な、プライベートな出来事として済ませようとしています。

その言葉を立ち聞きしたリベカはイサクの言葉をそっくりヤコブに語って聞かせながら、しかし重要な部分はこのように訂正をします。「主の御前でお前を祝福したい。」祝福の本来の意味を理解しているのは、イサクではなくリベカです。祝福をだまし取ろうと計画をしているリベカの口を通して、神は祝福とは何たるかを語るのです。イサクの個人的な思いによるのではなく、神が祝福したいと思う人を選び、神が祝福される。そのことのためにリベカの企ては神に用いられていくのです。

リベカは行動力のある人です。800キロ近くの旅をものともせず、気になることは夫のイサクを介さずにたった一人で主の御前に立ち、問いただすのです。イサクが年をとったということは、リベカも同じだけ年をとっているはずですが、そんなことは微塵も感じさせません。手早く料理を作り、エサウの服をヤコブに着せて変装させるという小技も忘れてはいません。尻込みをするヤコブに対して、呪いはすべて引き受けると胸を張るのです。

人々がイエスさまを陥れて、でっちあげの裁判で罪を着せてイエスさまを十字架へと追いやった時、祭司長や長老たちはイエスさまに勝利したとほくそえんでいました。よもや自分たちが神の勝利、救いのみわざへと至るほんの一コマに用いられたということなど気付きもしませんでした。

同じことがここでも起こります。愛する息子ヤコブに祝福を受け継がせたい、という思いから突っ走ったリベカの独断のようではありますが、そのリベカの策略を用いてアブラハムから始まる祝福がヤコブへと受け継がれ、やがてこのイスラエルにイエス・キリストが与えられるのです。思えば800キロの旅路を歩み始めた時から、この日の出来事は決まっていたのかもしれません。エサウではなくヤコブに祝福を受け継がせるために、大胆で行動力があって、聡明なリベカを神は必要とされたのです。リベカが仕組んだようでありながら、その企てをも神はお用いになったのです。

やがて祝福をだまし取ろうと企てをたくらんだリベカと、それを実行した息子のヤコブは当然の罪の報いを受けます。愛する息子のヤコブを思ってしたことであるのに、実際には20年以上も生き別れとなってしまうのです。20年間イサクが子供のために一人で祈り続けたように、今度はリベカがたった一人でヤコブの身の上を案じて祈り続けることになります。イサクとリベカの、決してうまくいっていたとは言い難い結婚生活ではありましたが、二人の途方もない祈りに支えられてアブラハムの祝福はイサクからヤコブへ、ヤコブから12部族へと受け継がれていきます。この延長線上にイエス・キリストが与えられ、私たちの教会の営みがあることは言うまでもありません。ですから私たちはリベカの罪を見逃すわけにはいきませんし、そのリベカを選び、愛しぬいた神さまの深いご計画の中に私たちをも生かされていることを知らないわけにはいきません。

私たちは神さまに選ばれて、愛されていることを知っていながらも繰り返し罪を犯す弱い存在です。しかしそれでも尚神さまは私たちを選び、神さまの救いのご計画のために私たちを用いてくださるお方であるということを、リベカの計略の物語は教えてくれています。いかなる時も、いかなる場所であっても神さまの愛が私たちを離れることはありません。この恵みが自分にも隣人にも与えられることを祈りつつ、また感謝をもって新しい一週間を始めたいと思います。

<祈り>御在天の父なるかみさま。礼拝の恵みを感謝いたします。イサクとリベカ、エサウとヤコブの物語に耳を傾けました。意図して犯してしまう罪と、意図せず犯してしまう罪と、その両方に私たちはさいなまれていますけれども、いつもあなたが愛し、支えていてくださることを今日この時に思い起こさせてください。イエス・キリストが十字架におかかりになったのは、他の誰でもなく、この私のためであったとの思いを新たにすることができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン          

コメント