9月11日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、81(1)452(1)27です。本日より礼拝順序に招詞が入ります。

礼拝説教       マタイ26:26~30「これはわたしの体である」   2022.9.11

 9月の第2の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。神の言葉を受けて、この1週間の歩みがよりよいものとなりますように、祈ります。

 イエス様はまもなく十字架の時を迎えようとしています。この時は、イスラエルの人々にとって、最も大切な祭りである過越祭です。エルサレムで、ある家に集まり、イエス様と12人の弟子たちが一緒になり、過越しの食事をしています。この時に、イエス様は、私たちの教会にとって最も大切な聖餐式を教えています。私たちの瀬戸永泉教会では、その月の最初の日曜日に、礼拝の中で、聖餐式を行っています。ちょうど先週に聖餐式を行いました。私たちは、この聖餐式にあずかる時に、パンとぶどう液をいただきます。このパンとぶどう液にはどのような意味があるのでしょうか。私たちの教会では、洗礼と聖餐式を聖礼典とよんで、とても大切ものと考えています。特に、聖餐式はキリスト教の洗礼を受けた者だけがあずかり、そして正教師の牧師でなければ執行することはできません。聖餐式は特別なものです。

 イエス様と12人の弟子たちが、過越しの食事をしているときに、イエス様はパンを取って、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながらいわれました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡していわれました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と。イエス様は、これから十字架におつきになるのですが、その十字架の死を、パンをこれはわたしの体といい、ぶどう液をわたしの血といっています。これは、過越しの子羊を表しています。イスラエルのそれぞれの家で、子羊が屠られ、血が流されます。その血を、家の入口に塗ります。神から送られた死の使いは、エジプト人の家を通過すると、その家の初めて生まれた子どもが死にました。しかし、イスラエルの家では、子羊の血が家の入口に塗られているために、その家を過越し、その家の初めて生まれた子どもは死ぬことはありませんでした。

 イスラエルの家で、屠られた子羊の血が、初めての生まれた子どもの死から逃れることができたのです。子羊が屠られ、血が流されること、それは、イスラエルの人々にとって、罪の贖い、罪からの解放を意味していました。本来ならば、人々は自らの罪を贖うためには、自らの命を差し出す必要がありました。自分の命をささげることによって、罪の贖い、罪の赦しが完成するのです。でも、死んでしまえば、どうすることもできません。それで、人の罪の身代わりが用意されました。それが、イスラエルの人々の飼っていた家畜です。主に、牛や羊や山羊などです。イスラエルの人々は、自分の罪を、その家畜に託して、罪の贖い、罪の赦しを行ってきています。それが、過越しの出来事と重なってきます。エジプトからの解放、奴隷からの解放、罪からの解放、死からの解放ということになっています。

 イスラエルの人々は毎年春に、この過越祭を大切な祭りとして祝ってきました。この時には、エジプトからの解放、罪からの解放、死からの解放を、祭りを通して、学ぶのです。イエス様は12人の弟子たちと共に、この過越しの食事をしていました。除酵祭のパンを取って、食べています。子羊の血をぶどう液にたとえて飲んでいます。それを、イエス様はこれからの自分の十字架の死を重ねて、聖餐式として定めるようにいいます。過越祭のパンとぶどう液、聖餐式のパンとぶどう液では、大きな違いが起ってきます。過越祭のパンとぶどう液は不完全なものでした。それに比べて、聖餐式のパンとぶどう液は完全なものになっていくのです。過越祭とイエス様が定めた聖餐式の間に次のような言葉があります。これは預言者エレミヤが語った新しい契約といわれるものです。

エレミヤ書31:31~34

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 神はかつてモーセを通してイスラエルの人々と契約を結びました。その契約は、イスラエルの人々を通して破られたものとなってしまいました。しかし、神はイスラエルの人々と新しい契約を結ぶというのです。それが、エレミヤによる新しい契約です。その新しい契約は、律法を彼らの心の中に記すというのです。それはすべての人々が心の中で、神を知ることができているといいます。そして、神はイスラエルの人々の罪を赦し、人々の罪を心に留めることがないというのです。この新しい契約は、イエス様の十字架を通して与えられるものです。

 イエス様の十字架の死は、完全な救いを、イスラエルの人々に与えるものでした。考えてみれば、イエス様を十字架につけて殺してしまうということは、これ以上にない罪です。神から送られた独り子を十字架について殺してしまうということです。ここでは、祭司長たちや民の長老たちが、イエス様を十字架に送ってしまう役割を担うことになります。その最大の罪が、絶対に赦されないだろうと罪が、神の大いなる恵みとして、私たちのすべての罪の贖い、罪の赦しになっていくのです。赦されない者が、赦されるのです。これが神の大いなる恵みといわれるものです。

 イエス様は、12人の弟子たちに対して、「取って食べなさい。これはわたしの体である。また、皆、この杯から飲みなさい。それは、罪が赦されるように、多くの人のために流される契約の血である。」といわれるのです。この12人の中に、イエス様を裏切るイスカリオテのユダも含まれています。そして、他の弟子たちもすべて、イエス様を見捨てて逃げてしまいます。つまり、12人、すべての弟子たちが、イエス様を裏切ることになってしまうのです。それなのに、この12人に対して、聖餐式を行っているのです。そういう意味では、ここでイエス様は最初の聖餐式を行っているのです。

 そして、29節で、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」と、いっています。この聖書の箇所でいわれている聖餐式が、イエス様にとって、最初で最後の聖餐式であるということです。今度、イエス様と聖餐式を行うのは、わたしの父の国で、あなたがたと新たに飲む日が来るといっています。これは、イエス様の再臨、天の国が来ることを意味しています。イエス様は、弟子たちに、最初の聖餐式から、イエス様の再臨の日まで、弟子たちに、いや、教会に、聖餐式を守るように、ここで伝えているのです。このイエス様の言葉を受けて、私たちの教会は、この時からずっと、聖餐式を行ってきました。

 聖餐式は、イエス様の十字架の死を通しての罪の贖いと罪の赦しを確認するものです。それと、イエス様の再臨後の天の国でのイエス様との愛餐会を意味するのです。私たちは、聖餐式を行う度ごとに、イエス様の十字架の死による罪の贖い、死からの解放を確認するのです。礼拝の中で行われる聖餐式、パンと食べて、イエス様の十字架上で裂かれた体を思います。ぶどう液、イエス様の十字架上で流された血を思います。このパンとぶどう液をいただくことによって、罪の赦しと死からのよみがえりを確信するのです。それだけでは終りません。やがて、イエス様が再臨されて、神によって新しい天の国がつくられます。その天の国に、私たち一人一人が招かれているのです。そして、イエス様と共に交わりの時を持つのです。教会で行っている聖餐式が、天の国での聖餐式につながっているのです。今、生きている私たちと、すでに神のみもとに召された方々と共に、永遠の命を与えられて、天の国で、イエス様と共に、交わりの時を持っているのです。イエス様が、弟子たちを通して与えてくださったこの聖餐式を、感謝を持って、受け止めていきたいと思います。

祈り 神よ。日曜日に、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。今日、示され聖餐式の意味とその深い恵みをしっかりと受け止めることができ、どのような時でも、神と天の国への希望を持って、日々過ごすことができますように、守り導いてください。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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