祈祷会 民数記9章「過越祭を守ること」 2022.3.2
9:1~14、月遅れの過越の規定
イスラエルの人々は、エジプトを出てから、1年後の1月14日に、過越祭を祝うことを主から命じられます。モーセはイスラエルの人々に過越祭を祝うようにいいます。そして、1月14日の夕暮れにシナイの荒れ野で過越祭を祝いました。しかし、人の死体に触れて汚れた者たちがいて、その日に過越祭を祝うことができませんでした。彼らはその日に、モーセとアロンの前にやって来ていいます。「私たちは死体に触れて汚れていますが、イスラエルの人々の間で、なぜこの定めの時に、主に献げ物をささげることから除外されなくてはいけないのでしょうか。」と。その申し出に、モーセはすぐに「待っていなさい。主があなたたちに何とお命じになるか聞いてみよう。」といっています。
すると、主は「あなたたち、死体に触れて汚れている者、あるいは遠くへ旅に出ている者も過越祭を祝うことができる。2月14日の夕暮れにそれを祝い、酵母を入れないパンと苦菜を添えてそのいけにえを食べなさい。」といってくださいました。また寄留する者も過越祭を祝うことができるといってくださいました。過越祭は、イスラエルの人々にとってとても大切なものです。死体などに触れて汚れてしまった場合、遠くに旅に出ている時など、みんなより1ケ月遅れでも過越祭を祝うことができるとしてくださいました。
過越祭は、イスラエルの人々にとって最大の祭りになっていきます。出エジプトの時に、主によって10の災いの中の最後のもの、死の使いがエジプト中を巡り、エジプトの家の初子が打たれました。エジプト王の初子も打たれたのです。その悲しみの中で、エジプト王はここままではエジプト人がすべて死んでしまうかもしれないと恐れを抱き、イスラエルの人々の解放を許したのです。死の使いがエジプト中を巡っている時に、イスラエルの人々の家では、小羊の血で家の入り口などを塗り、その血を見た死の使いは、イスラエルの家を過ぎ越したことから、過越祭といわれるようになりました。小羊の血によって、死から免れることができたのです。
新約聖書では、この過越祭の時に、イエス様がエルサレムに行き、過越しの食事をしています。これが最後の晩餐です。そして、ここから聖餐式の由来が出てきます。
マタイ26:26~28
26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
過越祭では、小羊の血によって、罪の赦しがなされています。聖餐式では、イエス・キリストの十字架の死よって、罪の赦しがなされています。イエス・キリストの十字架を意味するパンとブドウ酒に預かることによって罪の赦しを確認します。
9:15~23、雲が幕屋を覆う。
幕屋を建てた日、雲は幕屋を覆いました。夕方になると、雲は幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えました。いつもこのようであったといいます。雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えました。この雲が、幕屋を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が1つの場所に留まると、そこに宿営しました。イスラエルの人々は、主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営しました。2日でも、1ケ月でも何日でも、雲が幕屋の上に留まり続ける間、イスラエルの人々はそこに留まり、旅立つことをしませんでした。そして、雲が昇れば、人々は旅立ちました。主はイスラエルの人々と共にありました。
新約聖書で、イエス・キリストが生まれた時に、マタイは「インマヌエル」と呼びました。それは「神はわたしたちと共にいてくださる」という意味でした。今日、主は、私たちと共にいてくださいます。「あしあと」という詩があります。Footprints という詩で、マーガレット・F・パワーズというアメリカ人女性の作った詩です。
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
この詩のように、主はわたしたちと共に歩いてくださるのです。倒れた時に、主はわたしたちを背負って歩いてくださっています。そのような主への信頼を持って、人生の歩みをしていきたいと願います。
祈り 神よ。祈りの時をありがとうございます。あなたはいつもわたしたちと共に歩んでくださいます。どんなことが起きても、あなたが共に歩んでくださっていると信仰を持って歩むことができるように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)
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