祈祷会 サムエル記下3:22~39「アブネルの死とダビデ」 2026.2.11
イスラエルの王サウルが戦死して、サウル家とダビデ家の争いがしばらく続きました。サウル家はアブネル、ダビデ家はヨアブが戦いのリーダーでした。やがて、サウル家は弱くなり、ダビデ家が強くなっていくのです。アブネルはサウルの側女であったリツバと通じていました。そのことを知ったイシュ・ボシェトはアブネルに忠告をすると、アブネルは激しく怒って、サウル家はダビデ家と契約を結ぶと宣言しました。これはサウル家がダビデ家に入ることを意味していたのです。アブネルはすぐに行動を起し、イスラエルの長老たちを説得し、更にベニヤミンの人々をも説得することに成功しました。アブネルは20人の部下を連れて、直接ダビデのもとに行くのです。ダビデはアブネルとその部下を、酒宴を催してもてなすのです。アブネルはダビデに「わたしは立って行き、全イスラエルを主君である王のもとに集めましょう。彼らがあなたと契約を結べば、あなたはお望みのままに治めることができます」といいます。ダビデはアブネルを送り出し、アブネルは平和のうちに出発しました。
そこへダビデの家臣を率いたヨアブが多くの戦利品を携えて帰って来ました。ダビデとアブネルが契約を結んだ時に、ヨアブがいなかったのは何か理由があったからです。アブネルは平和のうちに送り出された後で、ヘブロンのダビデのもとにはいなかったのです。ヨアブに、ある者が「アブネルが王を訪ねて来ましたが、平和のうちに送り出されて去りました」と告げるのです。ヨアブはすぐにダビデのもとに行き、「どうなさったのです。アブネルがあなたのもとにやって来たのに、なぜ送り出し、去らせてしまわれたのですか。アブネルをよくご存じのはずですではありませんか。あの男がやって来たのは、王を欺いて動静を探り、王のなさることをすべて調べるためなのです」といいます。
ヨアブはダビデから引き下がると、アブネルを追って使いを出しました。アブネルは戻って来ます。ダビデはそのことを知りませんでした。アブネルが戻るとヨアブは静かな所で話したいといって城門の中に誘い込み、その場でアブネルの下腹を突いて刺し、弟アサエルの血に報いるのです。アブネルがダビデと契約を結んだこと、それはサウル家とダビデ家の争いがなくなることです。両者にとってもいいことです。それなのに、なぜヨアブはアブネルをダビデに内緒で殺してしまったのでしょうか。それは、個人的な恨みです。弟アサエルがアブネルに殺されたからです。アブネルはアサエルを殺したいと思っていませんでしたが、アサエルは必要にアブネルを追いかけたから殺してしまうしかなかったのです。しかし、ヨアブにとってはそのようなことは関係ありません。弟を殺された恨みで復讐したのです。また、アブネルがダビデ家に入ることは、ヨアブ自身のダビデ軍のリーダーの地位を失うことになることを恐れたのです。
ヨアブがアブネルを殺したことを知ったダビデは、「アブネルの血について、わたしとわたしの王国は主に対してとこしえに潔白だ。その血はヨアブの頭に、ヨアブの父の家全体にふりかかるように」と答えるのです。ダビデはヨアブとヨアブの率いる兵士全員に向かって「衣服を裂き、荒布をまとい、悼み悲しんでアブネルの前を進め」と命じ、ダビデはアブネルの棺の後を従いました。一同はアブネルをヘブロンに葬ります。ダビデはその墓に向かって声をあげて泣き、兵士も皆泣くのです。ダビデはアブネルを殺したヨアブにも悲しみように命じています。ダビデはアブネルを悼む歌を詠むのです。「愚か者が死ぬように、アブネルは死ななければならなかったのか。手を縛られたのでもなく、足に枷をはめられたのではないお前が、不正を行う者の前に倒れるかのように倒れねばならなかったのか」と。兵士は皆、アブネルを悼んで更に泣くのです。兵士はまだ日のあるうちにダビデに食事をとらせようとやって来ました。しかし、ダビデは「日が沈む前に、わたしがパンであれ他の何であれ、口にするようなことがあるなら、神が罰してくださるように」と答えます。兵士は皆、これを知って、良いことと見なすのです。全イスラエルはこの日、アブネルが殺されたのは、ダビデの意図によるものではないことを認めるのです。
アブネルがダビデに持ちかけて来たサウル家とダビデ家の契約を結び続けるためには、アブネルの死が、ダビデの意図ではないことをイスラエルの人々に知ってもらう必要がありました。そうでなければ再び、サウル家とダビデ家の争いは続くことになるからです。ダビデの行動によって、そうではないことをサウル家の人々が認めることができたのです。これはダビデの政治的な駆け引きがあったと理解することができます。ダビデは家臣たちに「今日、イスラエルの偉大な将軍が倒れたことをお前たちは悟らなければならない。わたしは油を注がれた王だけれども、今は無力である。ヨアブはわたしの手に余る。悪をなす者には主御自身がその悪に報いられるように」というのです。そのようにいっていますが、ダビデにとってヨアブの力も王としてイスラエルを治めるには必要なことでもありました。ダビデは死ぬまでヨアブとの緊張関係は続いていきます。列王記に入っていきますと、ダビデの晩年と後継者を巡る争いで、ヨアブはソロモンと敵対し、やがて殺されてしまいます。
イザヤ40:7~8
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹く付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
人のいろいろな歩みがあります。人のいろいろな思いがあります。イザヤ書は人を草や花にたとえています。元気な草やきれいな花が咲いています。でもいつか草は枯れていきます。花はしぼんでいきます。私たちもそうです。その中で、神の言葉があることが私たちの生きていく希望となっていきます。神の言葉である聖書を読むことの喜びを持ちたいと願います。
祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださりありがとうございました。アブネルの死を知って悲しいと思いました。でも、ヨアブの思いを考えると複雑な思いとなっていきます。ヨアブの行為をダビデは自分の手に余ると答えています。人のいろいろな思いと行動が交錯していきます。人間とは何者かと聖書は私たちに示してくれます。神の導きを祈りましょう。この思いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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