祈祷会 申命記33:1~17「モーセの祝福から」 2023.9.19
まもなく申命記を終えて、ヨシュア記に入っていきます。モーセは今や生涯を閉じようとしています。80才の時に神に導かれてエジプトに行き、イスラエルの人々の解放のために働いてきました。出エジプト、荒れ野の旅、そして約束の地を目に前にする所までやって来ました。荒れ野の40年は、モーセの最後の40年と重なっていきます。苦難と悲しみに満ちた旅でした。約束の地を目の前にして、モーセはここでイスラエルの人々に神の民として生きることの意味を語りました。それは神の教えをもう一度語ることでした。語り終えたモーセは、この申命記33章で、イスラエルの人々への祝福の言葉を語っています。今日はその前半の内容ということになります。モーセはすでに120才を迎えていました。
・33:1~5、神の御名をたたえている。
神の人であるモーセが生涯を終えるに先立って、イスラエルの人々に与えた言葉です。まず、モーセは最初に神の御名をたたえています。神はイスラエルの民を慈しみ、すべての聖なる者を神の御手におかれます。イスラエルの人々は神の足もとにひれ伏し、神の御告げを受けます。モーセを通して人々に神の教えを授け、ヤコブの会衆の受け継ぐべきものとしました。イスラエルの人々が集う時、神はエシュルンの王として望まれます。エシュルンとは神の別の言い方です。同じ意味で使われています。
・33:6、ルベンのための祝福
ルベンを生かし、滅ぼさないでくださいと訴えています。たとえその数が少なくても生かしてくださいと願います。ルベンは生き続けたといわれています。
・33:7、ユダのための祝福
神よ。ユダの声に耳を傾け、その人々のもとにユダを来させてくださいといいます。神の御手をもってユダのために戦い、苦しめる者からの助けとなってくださいといいます。イスラエルの人々の歩みは、やがてこのユダを中心に展開していくことになります。
・33:12、ベニヤミンのための祝福
神に愛される者はその傍らで安んじて住むことができ、終日、神に身を寄せて、その御守りのもとに住まうのです。
・33:13~17、ヨセフのための祝福
神の祝福がその土地にありますようにと祈ります。天からは雨の賜物があります。淵には川からの賜物があります。太陽から、月ごとにいろいろな作物が生み出されます。山々からの賜物、柴の中に住まわれた方の慈しみ、それらすべての恵みがヨセフのものにありますようにと祈ります。ヨセフを通して様々な作物の恵みがあります。その子であるエフライムとマナセにも多くの恵みが与えられるといいます。
・33:8~11、レビのための祝福
今日の中心的な内容は、このレビのための祝福です。モーセはレビに祭司としての役割を期待しています。神からのトンミムとウリム(神の御心を伺う道具みたいなもの)を神の慈しみに生きる者に授けてくださいといいます。神はイスラエルの人々をマサで試し、メリバの意味で争った時といっていますが、本当は、出エジプト記32章の金の子牛の物語を背景しています。
出エジプト記32:25~29
モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」
この聖書の背景は、神はイスラエルの人々と契約を結ぶ場面です。シナイ山の山頂において神はモーセに十戒を授けています。イスラエルの人々は、シナイ山のふもとで、神を裏切り、エジプトの金の子牛の像をつくって拝んでしまったのでした。神とモーセはイスラエルの人々の行為に激しく怒っています。そこで、神を信じる者は、剣を帯びて、神を信じない者、自分の子や兄弟たち、友、隣人を殺せといいますとレビの子たちがそれに従っていったのです。それで、レビ族はイスラエルの中で、祭司として任じられるようなっていくのです。レビ族は、自分の父母について「わたしは彼らを顧みない」といい、兄弟を認めず、自分の子さえも無視し、神の仰せに従い、契約を守ったからとなっています。このような背景があって、レビ族は、ここでモーセの祝福を受けています。しかし、申命記33章のモーセの祝福の中で、シメオンの名前が入っていません。どうしてなのかといいますと、創世記34章のシケムの事件が起りました。ヤコブの子どもたちですが男の子は12人いました。実は1人女の子がいたのです。ディナといいます。そのディナがシケムから辱めを受けてしまいました。シケムはディナとの結婚を申し込みますが、結果的に、シメオンとレビが一緒になって、シケムに属するすべての男子を皆殺しにしてしまい、家畜も女も子どももすべて捕虜としてしまいました。この行為に、ヤコブは赦すことができなったのです。それがヤコブの祝福の中に現れています。
創世記49:5~7
シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす。
ここに書いている通りに、シメオンはイスラエルの間に散らすとありますように、ここでは名前が消えてしまっているのです。しかし、レビは、出エジプト記32章の行為によって、生き延びることができ、祭司の役割を与えられているのです。聖書にあるヤコブとモーセの祝福の一部をみてきました。その時の事情によって、その祝福の内容は変っていきます。でも、大きな視点であるイスラエルの人々に対する神の愛は変ることはないのです。神はイスラエルの人々と共に歩んでくださるのです。
祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。モーセの祝福の場面をみてきました。シメオンの名前がなかったことやレビが祭司として働きが祝福を受けている場面をみてきました。聖書の中にはいろいろなドラマが起っています。その中で、聖書がどのように受け止めているのかを知り、しっかりと聖書の内容を受け止めることができる力を与えてくださいますように、心から祈ります。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)
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